月光と陽光

「どうして…」


 思わず口にしてしまったという風の彼女に、僕は慌てて頭を下げた。


「申し訳ありません、舞の邪魔をしてしまって…。本蔵から帰る途中で声が聞こえたので、様子を見に来たんです。そしたら、その、とてもきれいな舞が見えたので、思わず…」


 しどろもどろになりながら説明すると、女性は岩を下りてきた。


 舞を舞っている姿があまりに神々しくて大人に見えたが、こうして同じ場所に立つと、彼女は存外幼く見える。もしかしたら、僕と同い年くらいかもしれない。


 彼女が近くに来てくれたおかげで、顔が良く見えた。


 銀色にけぶった長いまつげが、黄金色の瞳に影を落としている。線の細い輪郭に、スッと通った鼻筋と紅く色づいた唇が、品よく収まっていた。


 この王宮の敷地内では、見たことのない少女だ。

 しかし、誰かに似ている気がする。


 まじまじと彼女の顔を見ていると、ついと気まずそうに顔を反らされてしまった。 その姿に、ようやく己の失態に気が付いた。


「あ、すみません、じろじろと…」

「いいえ、こちらこそ、うるさくしてしまったようで、申し訳ありませんでした」


 それからシンと冷たい沈黙が落ちる。それにいたたまれなさを感じて、会話の糸口を見つけようと、頭を慌てて回転させた。


「あの、何をされていたんですか?」


 そうだ。そもそも自分がここに来たのは、歌声を聞いたからだ。

 思い出してその疑問を口にすれば、少女は幾分か緊張を解いたようだ。先ほどよりも柔らかい笑みを浮かべてくれた。


「御覧の通り、舞を舞っていました。この辺りは神聖な空気が多くて、この世の邪気を祓い清めるためにはちょうど良いのです」

「この世の邪気…?」


 書物では読んだことのある文字だが、実際に耳にするとどうも聞きなれない。舞を舞っていたら、この世の邪気を清めることができるのだろうか?


 怪訝な顔をした僕を見て、少女は笑みを深くした。


「失礼いたしました。突然邪気と言われても分かりませんよね。祓いの世界では当然と使われている言葉なので、ついうっかり…」

「祓い…。もしかして、祓い屋の方ですか?都にも、何人かいると聞いたことがあります。はやり病を不思議な術で治したり、乾期に雨を降らせたりしたという…」

「ああ~そうですね。まあ大体、そんな感じです。まあ、本来の仕事は、この世に漂って、まだ成仏することが出来ていない方に、引導を渡す、ということなのですが」

「ええ⁉」


 それはつまり、幽霊がいるということだろうか。

 成仏できず、この世を彷徨うこともあるのかと思うと、ゾッとする。

 

 突然、森がざわめき、黒い鳥の群れが飛び去っていく。心なしか寒気を感じて、身を震わせた。


「そろそろ、お帰りになった方がよろしいでのではないでしょうか?王宮勤めの方ですよね?それでしたら、朝もお早いでしょうから」


 おずおずと言われたその言葉に、ハッと思い出す。そう言えば、李潤は朝早起きしろとうるさくて、睡眠時間がどれだけとか、前日は何時に寝たからもう少しという言葉を聞いてくれない。絶対に取り合ってくれないのだ。


 ならば、早く寝るに越したことはない。

 だが、少女ともう少し話してみたいという気持ちもあった。なぜだか分からないが、とても興味の惹かれる少女だったのだ。


「あの、また会えますか?」


 そう問いかけると、少女はニッコリと笑ってくれた。


「ええ、もちろん。私は良くここで舞を舞っていますから」

「それなら、また会いに来てもいいですか?あ、僕は蘭秀。あなたの名前を聞いてもよろしいでしょうか?」

「私は…星麗セイレイと申します」


 月の光に照らされながら、星麗と名乗った少女は穏やかに微笑んだ。





 昨夜は興奮のあまり、寝付けなかった。

 星麗と別れた後、ひっそりと自室に戻った僕は、布団を敷いて横になるものの、星麗の美しい舞い姿が、瞼に焼き付いて離れなかった。悶々としているうちに、夜が明けてしまったのだ。


 ごそごそと仕度をしながら、そういえば、彼女のことを李潤に報告するつもりだったことを思い出した。すっかり忘れてしまっていた。


 だが、星麗のことを考えると、李潤に全て報告してしまうことをためらってしまう。

 星麗は、邪気を祓い清めていると言っていた。それならば、王宮内で悪さをしようとしているわけでもないのだろう。ならば、わざわざ報告しなければいけないだろうか。


 いや、これは李潤に報告しないで済む言い訳を探しているだけだ。


 正直に言おう。


 僕は、星麗にもう一度会いたいと思っている。だから、李潤に彼女のことを伝えるのに、しり込みしているのだ。


 ぼーっとしながら部屋を出ると、ちょうど隣の部屋に住んでいる香に行き当たった。

 僕も寝不足でぼんやりとしているが、香はそれ以上にぼんやりとした様子だ。


「あー、蘭秀じゃん。おはよー」

「おう、おはよう…。どうしたんだ香。いつも眠そうな顔しているが、今日は一段と眠そうだな」

「んーちょっとね…」


 ごしごしと目をこする姿は、香の実年齢よりも、更に幼く見える。次いで、ふわあと大きなあくびをすると、うーんと大きな伸びをしていた。


 香はいつも朝が弱い。本人曰く、「寝つきが悪くて、夜更かししてしまうんだ」とのこと。


「蘭秀も、今日は何か眠そうだな…。どうしたんだよ?」

「いや、僕もちょっと眠れなくて」

「フーン」


 香は普段は大きな目を半分にして、ジトッと僕の顔を見つめてきた。常にない至近距離に身体がすくむ。


「お前、しっかり寝ろよ~。1日寝不足ってだけで、もうクマが出来てるぞ」

「え、嘘だろ」


 思わず目の下に手をやると、香はニッと笑って顔を離した。


「冗談冗談。お前のその浅黒い肌じゃ、良く見ないと分からないだろうし。でも、疲れは顔に出てるぜ。気をつけろよ。さー、今日の朝飯は何だろうな~!」


 香は、弾んだ足取りで廊下を行く。そのの後を追いかけながら、彼なりに気を使ってくれたのだろうと、感謝した。




 その夜も、僕は山の中腹に向かって歩いていた。

 今日も、星麗はいるだろうか。

 太鼓のように拍を打つ心臓を抑えながら、僕は昨日と同じ平原に足を踏み入れた。


 そこには、昨夜と同じ岩に立つ、朱色の打掛を着た星麗がいた。相も変わらず、白銀色の美しい髪を風になびかせ、月光を浴びて光り輝いている。


「あ、蘭秀さん。いらしてくださったんですね」 


 そう言って柔らかく微笑む彼女の姿は、現実味が薄く、まさしく神話の女神が舞い降りたかのようだった。

緊張で喉が張りつき、しぼんだ声が出た。


「はい。あの、ご迷惑ではないでしょうか」

「いいえ、そんなことはありませんよ。こうして誰かとお話しするのは久しぶりですし、私も楽しみにしていましたから」


 上品な声音でそう言われて、嬉しく思わない者はいないだろう。


 星麗の言葉に背中を押されて、僕は岩の近くまで歩いて行った。すると、星麗は少し横に移動して、岩肌をポンポンと叩いた。

 その意味を遅れて理解して、ボンッと頬が熱くなる。


「え、あの…」

「どうぞ。立ったままではお辛いでしょう」

「あ、えっと、失礼します…」


 早鐘を打つ心臓がバレてしまいそうなほど近い。

 ただでさえ岩肌は座る面積が小さい。そこに15歳の少年少女(星麗の年齢は分からないが)が腰掛けると、相手の息遣いさえ聞こえるほど近くなる。衣同士も密着して、擦れ合うほどなのだ。


 緊張するなという方が、無理な話である。


 会えたら良いと思っていただけに、これだけ近い距離になると思っていなかったし、何より何を話すかも考えていなかった。

 今更ながらに、何も計画せずにここに来たことを後悔したが、気まずくなる前に、星麗が口を開いた。


「ここは空気が澄んでいて、心地良いんです」

「…ここ以外は、どんな空気なんですか」

「淀んでいるところが多いです。日々の人々の不満や不安が入り乱れて、空気が重くなっている」


 星麗はふうと息を吐くと、閉じた扇を前に差し出した。

 そして、徐に唱を歌い始めた。可憐で透き通った歌声が、夜の空気に溶け込んでいく。


 それは、意味のある詞のようにも聞こえるし、同時に音律のようにも感じる、不思議な唱だった。


 突然、視界が明るくなった。

 蝋燭の明かりではない。

 靄が取れたような、スッキリと冴えるような良好さだった。急に視力が上がったかのようだ。目の周りが軽い。


 驚いて目を瞬かせると、隣に座る星麗がいたずらっ子のように笑った。


「どうですか?目の疲れが取れたのではないでしょうか」

「あ…はい。とても、楽になりました」

「よかった。なんだか、今日はお疲れのようでしたから」

「あはは…バレていましたか」

「当たり前です。顔に出ていますよ」

「同僚にも同じことを言われましたよ」


 ぽりぽりと頬をかきながらそう言うと、星麗は袖で口元を隠しながら、ふふっと笑った。心から笑ってくれたように思えて、僕はなんだかくすぐったい心地になった。



 それから、ほとんど毎夜、僕はあの平原に通うようになった。星麗はいつもそこにいて、僕が近づくと、振り向いて笑ってくれた。


 彼女の包み込んでくれるような笑みを見るたび、1日の疲れが吹き飛ぶようだった。このためなら、毎日の小間使いのような労働も苦にならない。星麗と夜の短い時間、こそこそと穏やかに語り合う時間が、日々の拠り所となっていた。

 

 しかし同時に、疑問もあった。

 星麗は、なぜ夜に舞を舞っているのだろうか。


 あれほど見事な舞を舞うのだ。こんな人目を避ける必要は無いだろう。邪気を祓い清める、ということに、何か不都合があるのだろうか。


 それに、いくらここの空気が澄んでいるからといって、わざわざ王宮の、こんな岩場でする必要は無いだろう。僕が現れたことは、本当はとんでもない想定外で、本来は、誰にも見つからないようにしていたかったのではないか。


 星麗は、一体何者なのだろう。


 そして、王宮は今、とても緊迫した状況下に置かれている。半年以上前から、皇太子が謎の病に臥せっているのだ。更にその数か月後、外戚の姫も、同じく謎の病で倒れたという。


 そのため、王宮敷地の警備は厳重になり、関係者以外は中に入れないようになっているのだ。


 それとなく星麗のことを周りに聞いて回っても、彼女のことを知っている者はいなかった。李潤にも聞いてみたが、銀髪と聞くやいなや、「華信国の蘭姫ではないか」と言う始末だ。


 華信国は5年前に、この虎雹国によって滅ぼされた国だ。そこの跡継ぎである蘭姫が未だ消息不明だが、星麗は違う。


 断言していい。

 そもそも、蘭姫は水銀色の髪であって、白銀の髪ではないのだから。


 日中に星麗を見たことはない。仕事の合間にあの平原に行っても、星麗はいなかった(落胆して道に戻ったところで、ちょうど鉢合わせした香に、変な目で見られた)。


 しかし星麗は、王宮内部のことや、僕の仕事のことについて、妙に詳しく知っていた。それこそ、本当にその場で見聞きしていなければ、分からないような内部の話まで。


 ここから想定できることは、これしかないだろう。


 彼女には、この王宮の敷地内に、協力者がいるのではないだろうか。

それも、僕の身近に。




 星麗と知り合って1カ月近く経った頃、僕は香と共に書類を役所に届けるため、王宮の外に出ていた。


 王宮勤めの印である緑色の勾玉を首から下げ、活気だった街の中を歩いて向かう。

 屋台から漂う、香ばしい鶏肉の串焼きの匂いに腹の虫が鳴るが、我慢だ。

 

 役所に書類を届けると、本日の業務は終わりだ。あとは帰るだけ。

 日差しも傾き、橙色に染まった空が辺り一面に広がっている。

 うーんと大きく伸びをした香が、くるりと僕を振り返った。


「やっと終わったな~。さっさと帰ろうぜ」


 そう言って笑った香を見て、僕はとっさに香の腕を掴んだ。


「お、おい、どうした」


 突然の僕の行動に、香は引きつった声を上げる。だが、今の僕にはそんなことどうでも良かった。


 そうだ。星麗に初めて会った時。いや、初めてちゃんと顔を見た時、誰かに似ていると思った。


 今、沈みかけの陽光を浴びて、僕を振り返って笑った香の顔が、毎夜僕を振り返って笑う星麗と被ったのだ。


「香、あんた…星麗さんに似てるな」


 そう呟いた僕の言葉に、香がハッと目を見開いた。


 星麗そっくりの黄金色の瞳が、視界いっぱいに広がった。

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