【プロローグ】

 初めて外に出た。

 侍女たちは、わたしは身体が弱いのだから、外に出てはいけないと言う。

 だが、自分の身体のことくらい自分で分かる。

 わたしは元気だ。


 部屋の窓から見た銀世界があまりに綺麗で、侍女の監視の目をこっそり抜け出し、外に出てきた。吸い込まれそうな夜空から降る雪は月光に照らされて、まるで星が降っているようだった。


 靴下も靴も履いていないから、雪の冷たさに身体が震える。それでも、わたしは目の前の、シンと冷たく涼やかな景色から目が離せなかった。


 はらはらと音もなく降る白い粒が、優しくわたしの頬を濡らす。その冷たさが、今のわたしには心地よかった。

 

 つい先ほどまで、やたらと重い伝統衣装を着せられ、御輿に乗せられたのだ。伝統衣装は幾重もの布を重ねたもので、おまけに裾も袖も長い。頭には、しゃらしゃらとお上品な音が鳴る豪華絢爛なかんざしを、いくつもつけられた。

 おかげで、頭はフラフラ、身体は重くて動けないという苦渋を強いられた。


 王家の人間の務めとして、祭典には出席するように言われている。


 ただ、元服を迎えていない王族の子どもは、邪悪な外気に触れるとたちまち身体がしぼみ、生気が失われると言い伝えがある。そのため、外に出る時は神聖な御輿に乗って、外の世界からは隔離されるのだ。


 だから、わたしは宮の中でしか動くことができない。侍女たちには外に出るなときつく言われ、父と母には厳命されている。


 それでも、自分の足で、思いきり外を駆け回りたいのだ。同い年の従者は、よくお使いに行って、外を駆け回っている。わたしだってそうしたい。

 

 その思いが募り募って、雪化粧の施された山に心奪われ、出てきた。

 こんなに美しい景色に、邪気などあるわけがない。


 案の定、もう10分近く経過したはずなのに、わたしの身体には何も異変が起きていない。やはり、あれは迷信なのだ。


 得意な気持ちになりながら雪山を見ていると、人影に気が付いた。目を凝らして良く見ると、2人いる。同い年くらいの少女たちだった。


 雪山は崖を挟んだずっと向こう側にある。こちら側とあちら側を隔てる崖の下で、少女たちは冷たいだろうに、川に手をつけて遊んでいた。キャッキャと楽し気な声が、頬を刺す風に乗って聞こえてくる。


 1人は、浅紫色の豪華な衣を身にまとい、白銀の長い髪を背中に流している。もう1人は、柴色の簡素な衣を着て、濡羽色の髪を後ろで束ねていた。

服の色を見ても、身分に随分と差があることは明らかだ。


 正反対の色彩を持つ2人だが、それでも、少女たちは心を許し合った友人のように笑っている。まるで姉妹のようだ。


 同い年の従者を、わたしは友のように思っている。だが、当の従者は、わたしのことを王族の人間として扱ってくる。


 従者の身分としては当然だということくらい分かる。

 それでも、寂しいと思うときもあるのだ。わたしにだって、友だちは欲しい。王族に生まれたら、友人を作ることも許してもらえない。


 先ほどまで心地よいと感じていた雪の冷たさが、突然心に沁みてきた。

 

 もう帰ろう。


 そう思って踵を返そうとしたとき、少女たちの笑い声が急に止んだ。どうしたのかと崖を覗くと、白銀の少女がこちらを見ていた。

 ぱちり、と目が合った。


 ここから崖下までは距離があり、顔の造形までは分からない。だが、少女はわたしに気付いて、にこりと微笑んだように見えた。


 声を掛けた方が良いのだろうか。

 いや、ここから叫んだところで、はっきりと彼女に聞こえるだろうか。


「蘭さま!」


 とりあえずやってみようと息を吸い込んだところで、突然名前を叫ばれた。


 後ろから。


 ドキリとして振り返ると、褐色の肌をした黒髪の少年が、息を切らしながらこちらに駆けてくるところだった。わたしの同い年の従者だ。途中で、雪に足を滑らせて転んでいた。愉快だ。


「秀か。なんだ、もうバレたのか。もう少し堪能していたかった…」

「何を言っているんですか。ご自分のお立場を分かっていらっしゃるのですか⁉蘭さまは、軽率に外に出ることはできないご身分なのですよ!」

「身分とか知らない。わたしは外に出たい。走り回りたい。簡単な願望を叶えようとしただけだ」


 現に、わたしはこれだけ外気に触れても元気だ、と。

 そう伝えるように、くるりとその場で回って見せる。秀は頭を抱えて盛大なため息をついた。


「あなたのことを、この国の民が何と呼んでいるかご存じですか?『真珠の姫君』ですよ」

「ああ…そう言われているらしいね。でも、それはわたしの見た目のせいではないか?」


 そう言って、わたしは自分の髪を掬いあげた。

 長いそれは、水銀色だ。珍しい髪色で、王族の者しか持たない色だ。その髪を撫でつけるしなやかな腕は、透き通るような色白。銀世界を映す瞳は、水をたっぷり含んだような淡い紫色だ。蘭という名前は、瞳の色から名づけられている。


「見た目もそうですが、御輿から見えたあなたの立ち居振る舞いに、民が騙されているんですよ。年齢にそぐわない淑やかな出で立ちが、まさに真珠のような神々しさだという評判なのです」

「華の加護を受けた国だというのに、その跡継ぎのあだ名が海の幸とは、なかなか愉快だな」

「そんなあなたの素性がこんなお転婆だと知られたら、一体どれだけの民が絶望するか…」

「民の前ではちゃんとするさ」


 この国は華の加護を受けた国。その国を治める王は、代々女性に受け継がれていた。華の女神を対話して国を治めることが出来るのは、女性だけなのだ。


 わたしを産んだ母は難産だったらしく、もう子どもは作れないそうだ。そのため、秀を含め、侍女やその周りは、わたしの体調に過敏なのだろう。現在の王直系の子どもが、わたししかいないのだから。


 だからこそ窮屈でしかたがないのだが。


 そんなことより、別邸を抜け出した言い訳を考えなければならない。

 外に出たと言えば、侍女たちにどんな目にあわされるか。穢れを祓うためと言って、冷たい水に長時間つけられる可能性がある。冗談ではなく。


 思案し始めたわたしを見て、秀はわたしが何を考えているか察したらしい。はあーと再びため息をついた。


 同い年にしては、随分とため息が多いぞ。

 ため息ばかりついていては、幸せが逃げるらしい。秀が幸せになれないのは悲しいから、ため息をついてはいけないといつも言っている。だが、なぜか秀は、それに対してもため息をつくのだ。どうしてだ?


「僕とかくれんぼしていて、うっかり蔵の陰でぐっすり眠っていたことにしましょう。そうすれば、多少のお咎めで済むでしょう。蘭さまがいないことに気付いたのは、ほんの数人ですから。誤魔化せるはずです」

「さっすが秀!頼りになるな!」

「なぜでしょう。蘭さまに褒められても、全く嬉しくありません」

「なぜだ⁉」


 軽口をたたき合いながら、わたしたちは別邸へと急いだ。


 今なら分かる。

 秀は、彼なりに友人のように接してくれていたのだろう。わたしが友を欲しがっていると分かっていたからだ。王族の世継ぎに対する態度にしては、秀は随分と生意気だった。


 だが、わたしはそれを不敬と咎めたことはなかった。秀は、わたしの願いを叶えようとしてくれていたのだ。


 わたしは随分破天荒な世継ぎだった。侍女たちも随分苦労しただろう。


 今なら分かる。


 あのバカげた迷信は、本当だったのだ。

 ただ、その身がしぼんで生気を失ったのは、わたしではない。


 この国、華信国だ。


 敵国に攻め込まれ、あっという間に滅ぼされた。わたしたち王族が住んでいた王宮は、敵兵が持ち込んだ砂埃と鉄の臭いで充満した。


 あの時わたしが、外に出なければ。

 こんなことにはならなかったのではないか。


 あの時のわたしの軽率な行動が、この事態を招いたのではないか。


 悔やんでも悔やみきれない。

 だが、自分を逃がしてくれた秀たちの献身を無駄にするわけにはいかない。


 世継ぎのわたしが生きていれば、国の再建もできるだろう。そのためにも、今は生き延びなければ。


 王宮から逃げる時、たくさんの死体を見た。見知った者ばかりだった。


 命の灯を失った彼らが、華の精霊に導かれて楽園に誘われていることを、祈るばかりである。

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