第4話 料理長のホクトル


 しばらく屋上で雪姫と遊んでいると、疲れた頃を見計ったかのように、王宮料理長のホクトルがやって来た。


 アステカ国王と同い年で、ふくよかな体型をしている初老の男性だった。

 エナが厨房勤めの時に、一度だけ全員の前で挨拶しているのを見たことがあるが、こうして二人で合うのは初めてだ。


 ホクトルは料理人用の白い上着をきちっと着こなし、いつも難しい顔をしている。

 今日もチラリと雪姫を見やると、特に気にしたようもなく、懐から和紙で巻いたタバコを取り出した。

 携帯用の火打ち石を器用に使い、和紙の先端を指で毛羽立たせから着火させている。


 なぜかアステカ王国には、上質な紙をく職人がいて、見たことがないほど真っ白な紙が存在する。それでも紙巻きタバコは高価な嗜好品で、人目につく場所で吸っている姿は滅多に見ない。


 ホクトルは、よくれた赤いトマトをエナに投げて寄こし、自分は屋上の手すりにもたれかかってタバコを吸い始めた。


 エナは、トマトを手に持って一瞥いちべつしてから、かぶりついた。皮は柔らかく、実は瑞々しい。味覚障害があるエナに、旨味は感じられなかったが、うまい味がしているのは理解できた。

 原産地であるインカには、ここまで食べやすいトマトは一つもなく、アステカ一族は品種改良にも優れた技をもっている。


 エナがトマトを食べ終わるのを待って、ホクトルが口を開いた。


「毒入りなんだがな」

「あーそーなんすか」

「……………………」


 触れば分かる。

 そもそも、毒に近づけば気配を感じる。


 元々、故郷の里で医術の訓練として、毒草の扱いは知っていたのだ。それが縁で、インカでは帝国毒草園の手伝いをしたこともある。


「まぁ、大した毒でないみたいだし」


 なぜ料理長が、毒入りトマトを寄越したのか。

 分からなかったが、分からない時、踏み込んでみることで、先が開けたりする。


 進むか立ち止まるか。


 二択になった時、踏み出すのが良いことなのか悪いことなのかは、今もまだ分からない。たいていは、先に進むと面倒事を引き起こしてしまうが、何かは起こる。


「どこまで分かるんだ?」


 たぶん、今朝にでもトマトの木を枝ごと切って、毒液に枝を漬けて吸わせたのだろう。トマトの味や見た目に変化させずに、腹痛の成分のみを実に吸わせる方法は、あまり多くない。

 

 これが、即死毒や致死毒となると、逆に難しくなるのだ。強い毒は、トマトそのものを腐らせたり、あるいは短時間で無毒変性してしまったりもする。


「まぁ、およそ」


 厨房勤務の時、毒が仕込まれた食材を片っ端から、黙って勝手に捨てたり食べたり、出来上がった料理は皿ごと床に落としたりしていたことを、もしかして料理長は見抜いていたのかもしれない。


「いやはや、さすが、ヴィオシュトリ翁が、連れてきた、娘だ」


 急ににこやかに笑いながら寄ってきて、エナの両肩を叩いて喜んだ。


「なんすか、キモいんすけど」


「おめーが、ひっくり返した三百人分の食事のツケを払えっつってんだよ」


 王の食事は、王宮で働く全員分の食事を御身の前に並べるのだ。


 そこから、王は望む物を儀仗で指し、召使いに持って来させて召し上がる。その残り物が、エナ達に下賜されるという仕組みだった。


 ホクトルは、にこりと青筋を立てた笑顔で迫ってきた。


 エナが厨房に勤めた最後の日、大量の気狂いナスが食材に紛れ込み、調理されてしまった。

 おり悪くホクトルは不在で、エナも動物園の餌やりに出ていて、厨房にはいなかった。


 三百人分の皿に盛り付けられ、配膳が始まっていた段階で、気狂いナスだけ回収するのは不可能だった。

 他にも毒草が組み込まれた気配もあって、致し方なく配膳が終わった瞬間を見計らって、大広間の床に“虚砲”を放ってすべての皿をひっくり返し、事なきを得た。


「いやー、あれは想像以上に大事になりましたね。えへ!」


 深夜まで大騒ぎになって、翌日エナは厨房を追い出された。




 肉と野菜のシチュー、焼き肉、煮込み肉、カタツムリ、魚、甘藷入り蒸しパン、など贅沢な、また香辛料の効いた特製料理の中から好きなものを選ぶことが出来た。

 モクテスマ王には、三百品以上の料理が差し出され、その中から王は好きなものを選んだ。

アステカ文明p64 白水社 ジャック・スーステル著


 料理は数が多く、広間の床が一杯になった。(中略)料理が冷めないために、一皿一皿に小さなコンロがついていた。モクテスマは、自分が食べたい料理をしゃくで指した。その他の料理は、つぎの間にいる貴人のところに運ばれて配られた。

アステカ文明の謎p42 講談社現代新書 高山智博著


 アステカ人は、竜舌蘭マゲイの繊維や木の皮を利用して紙を作り、その上に文字を書いていました。これらの紙は(中略)、かなり高級なものだったらしく、のちにアステカを征服したスペイン人たちも、品質の良さに驚いています。

マヤ・アステカ・インカ文明p59 株式会社Newton Press ジョバンニ・カセッリ監修










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