第10話 王都への旅立ち

「なるほど、そのようなことが」


 エスティアから事のあらましを聴いたレオンは、ふむ、と、顎に指を当てて、うなうように言った。


 魔物の危機は去り、怪我人が多数出ていたゴルドウォールの騎士団とフィニスの自警団の面々は、フィニス村から救護要員がやってくるのを待って、村へと引き上げていた。今頃は、エスティアの暮らす教会が一時的な救護所として解放され、おそらくは村医も呼ばれて、きちんとした手当てを受けていることだろう。


 また、宮廷魔道士のディアナと、彼女に付き従っていた王宮騎士団も、すでにこの場を去っていた。ヴァルガリアスとエスティアの身については、一時、レオンの預かりとするという提案を――ディアナとしては、かなりしぶしぶのことのようだったが――呑んだかたちである。こちらは、付近では最も繁華で規模の大きなまちであるゴルドウォールまでいったん戻るということのようだった。


「とにかくまだわからないことだらけで、地方のいち城塞じょうさい都市としの騎士団の手に負える事態やまなのかどうか、誰にも判断がつかなくてな……王都からも念のため、宮廷魔道士と第七騎士団を派遣するということで落ち着いたんだ。――ディアナと、彼女が連れていた騎士たちがそれだな。彼らはしばらく、ゴルドウォールに駐屯することになるはずだ」


 先日エスティアと別れてから、レオンは麾下きかの騎士サーシャと共に、一路王都へと戻ったのだという。そして、すぐさま、テネブラエの亀裂近辺で遭遇した奇妙な魔物の件について報告した。それを受けて、中央政府が峡谷付近の警戒のために派遣を決定したのが、ディアナと騎士たちだったということだった。


 ただ、予想外だったのは、到着早々、彼女たちが偶然にも、塔の上のヴァルガリアスの覚醒という事態に行き合ってしまったことだ。多数あまたいた魔獣を一瞬で灰燼かいじんに帰したヴァルガリアスの強大な魔力をの当たりにして、その場の判断で、急遽きゅうきょ、魔王討伐に――すくなくとも、宮廷魔道士には、カエルムの塔には魔王が封印されていると口伝されていた――当たったということであるらしかった。


「それはそれとして、私も結局、あの奇妙な魔物のことが気にかかってな。それで独自に取って返してきていたんだが……ちょうどゴルドウォール領主のところに着いたときに、フィニスからの急報が入ってね。レディの危機に間に合ったようで、良かったよ」


 レオンは、カエルムの塔近辺にてゴルドウォール騎士とフィニス自警団とが魔物と戦闘中だという伝令を聴いて、すぐにフィニスに駆けつけてくれたのだという。村の教会を訪ね、老神官セルジュからエスティアが塔の傍へ行っていると聴かされて、そのままここまで急いでくれたのだった。


「着いてみれば、レディが怪しげな男に抱きかかえられて騎士たちに取り囲まれているし、驚いたよ」


 レオンは、いったん事が収まったいまだからこそ、からりと明るい声で言った。


「ご心配をおかけして、すみません」


 エスティアは言う。


 急を聴いてやってきたレオンが、その場に着くなり目にしたのは、エスティアが尋常の者とも思われない男に護られながら、騎士たちに囲まれて、剣を向けられている姿だったわけである。それは、ずいぶんと面食らったことだろう、と、思った。


 本来ならば、同僚であるはずの王宮騎士団の面々が剣先を向ける相手は、レオンにとっても敵とみなすのが当然の相手であるはずだ。それを、事情がわからないながらも――男が抱きかかえていたのが、先に知り合ったエスティアだったというだけで――とにかくも間に割って入ってくれたのは、本当にありがたい心遣いだった。


 エスティアは改めて、レオンに頭を下げる。


「本当にありがとうございました、レオン様」


「いやいや。早々にレディに借りが返せて、私としても良かった」


 気にすることはない、と、レオンは人好きのする笑顔を見せてくれた。


「それはさておき……そちらは、ヴァルガリアス殿、だったか」


 レオンは、いまエスティアの後ろに、どこかむすっとした表情かおをしてたたずんでいる男に声をかけた。


「君はほんとうに、魔王なのか?」


 レオンの問いは直截だった。


 ヴァルガリアスは紅玉の眸で、じろ、と、レオンを見る。けれどもすぐに、まるではぐらかしでもするかのように、にやりと笑んで肩を竦めた。


「さてな。ま、いまも昔も俺が自らそう名乗ったことはないが、かつても、人間どもにはそう呼ばれていた記憶はあるぞ」


 ヴァルガリアスは、何とも曖昧あいまいな物言いをして、くつくつ、と、喉を鳴らす。黒い髪、紅い眸の男が、わざとなのだろう、薄ら笑うふうを見せると、彼の雰囲気は一気に兇悪なそれになった。


 そんなヴァルガリアスをじっと見ていたレオンは、それからもうしばらく、思案するように黙りこくっていた。


 やがて顔を上げると、今度は青味を帯びたグレーの眸を、真っ直ぐにエスティアへと向ける。


「レディ・エスティア……君が望まないのはわかっているが、ひとつ、私から提案せねばらないことがある」


 エスティアはレオンの真正面からの真摯な視線を受け止め、森閑の泉のようなフォレストグリーンの眸を、刹那、はたり、と、瞬いた。


 けれども、すぐに続く相手の言葉をなんとなく悟って、だからこそ、にこ、と、そっと微笑んでみせた。


「わかっています。――村を離れるように、と、レオン様はそうおっしゃるおつもりですよね」


 エスティアが言うと、その通りだったのだろう、レオンはすこし困ったように眉を寄せた。


「そうするのが、賢明だろうと思う。君のためにも、村の人々のためにも」


 そう言われて、エスティアはわずかにうつむき、すこし切なくまばたきをした。


 エスティアは生まれ育ったフィニス村が好きだった。この村の人々が好きだった。だから、生涯、フィニスを離れるつもりなどはなかったのだ。ちらりとも考えたことがなかった。


 この地で、心やさしい人たちに囲まれながら、巫女として精霊王を祀って、生きていく。そうやって、何の変哲もない、けれどもなんでもないからこそ尊い、穏やかな一生を暮らしていくのだ、と、疑いもなくそう思っていた。


 けれども、いまエスティアの傍らにはヴァルガリアスがいる――……彼は、彼側の事情として、エスティアの傍を離れることはないだろう。


 ヴァルガリアスは、封呪の形が変化した、と、言った。いま、彼の魔力に、エスティアの意志が制限をかけているらしい。それだけではなく、エスティアを害することがそのままヴァルガリアスを害することにもなる、聖乙女の当たらな封呪はそんな魔法でもあった。


 いまはまだ、そのことに、誰もはっきりとは気がついていないかもしれない。だが、もしも気づかれてしまえば、魔王を始末しようとする者にとっては、強大な魔王本人を狙うよりも、たいした力を持たず脆弱なエスティアを狙ったほうが、どう考えても楽で効率的なはずだった。


 だったら、いまやエスティアは、ヴァルガリアスの最大の弱点ともいえるのだ。


(わたしをひとりにしておくことは、彼にとって、急所を無防備にさらしているのも同じ……)


 そんなことを、ヴァルガリアスがするとも思えなかった。自らを守るために、ヴァルガリアスはこれから、常にエスティアの傍らにあることになるだろう。


 そんな状態となれば、エスティアは、いままでと同じようにフィニス村で暮らせるだろうか。だって、魔王であるヴァルガリアスを狙う者が、いつ、自分たちを襲ってくるとも限らないのだ。フィニスの人々を巻き添えにしてしまうのは、絶対にいやだった。


(それに、なによりも……みんなは、ヴァルガリアスを怖がっているようにみえたわ)


 はっきりと口に出しては言わなかったものの、男を見ていた村の人々の眸には、明らかに恐怖がちらついていたように思う。なにしろ魔物を林ごと灰燼かいじんに帰した上、宮廷魔道士に、魔王だ、と、指さされた者なのだ。村人のそんな反応も、それはそれで、仕方がないものなのかもしれなかった。


 魔王の疑いのある男というのでは――いくらフィニスの人々が気のいい者ばかりだとはいっても――さすがに笑って村に受け入れる気にはならないだろう。


 エスティアは、ちら、と、背後にこちらから半ば身体を背けるようにして立つヴァルガリアスに視線をやった。そして、自らの胸元、聖乙女の魔法の刻印が浮き出たあたりにそっと触れる。


(フィニスを離れなければならなくなる日が来るなんて……ほんとうに、ちっとも考えたことがなかったわ)


 ひとり、そ、と、切なく笑う。フォレストグリーンの眸は、知らず、熱く潤んだ。


 それを見て取ったのか、レオンがすこし、困ったように眉を寄せた。


「レディ……レディさえよければだが、私と共に、王都へ来ないか」


 どうだろう、と、レオンは静かな眼差しをエスティアに向けた。


 以前、行きがかって彼の治療をした折も、レオンはエスティアを王都へ誘ってくれた。魔法の才があるから、魔法をきちんと学ぶ気はないか、と、訊ねてくれたのだ。


 けれどもあのときの言葉は、いわば、ほんの思いつき程度で口にしたものに過ぎなかったはずだ。事実、エスティアがあっさり断っても、レオンがしつこく食い下がるようなことはなかった。


 うらはらに、いまの彼の王都への誘いは、そんな軽いものではない。


 レオンは提案のかたちを取ってくれてはいたが、エスティアにはほとんど選択する余地はなかった。


(王都……)


 それがどんな場所なのか、想像もつかない。そこで自分がこの先どんな暮らしをしていくのかも、まるで、イメージは湧かなかった。


 それでも、塔の最上階でヴァルガリアスに助力を請い、彼を解き放ったのは自分なのだ。エスティアは自分で決断して、彼の封呪を解くために行動した。


 まさかそのことによって、建国の聖乙女クリスタの魔法に我が身までもが関わることになろうとは、もちろん、思ってもみなかった。が、かといって、ここでヴァルガリアスを放り出すのも違うような気がする。


(さっき騎士に斬られたときのように、わたしのせいでヴァルガリアス様が傷ついてしまったりしたら……申し訳ないわ)


 大好きなフィニス村の人々を危険にさらしたり、彼らに要らぬ不安を抱かせたりすることも、望まない。ヴァルガリアスを遠ざけることも、出来ない。


 だったら、エスティアが取るべき道は、おそらく、ヴァルガリアスと共にこの地を離れてしまうことしかない。


(王都サントヴァル……)


 エスティアは森閑に眠る泉のようなフォレストグリーンの眸に強い決意の光を浮かべて、レオンのほうを真っ直ぐに見据えた。


「レオン様……わたし、王都へ参ります。お邪魔でなければ、お連れいただけますか?」


「すまない、レディ」


 レオンが頭を下げる。


「あら、レオン様が謝られることなんて、なにもないでしょう?」


 エスティアは、にこ、と、強いて明るく微笑んで見せた。


 レオンはひとつ、こく、と、頷くと、エスティアの後ろのヴァルガリアスのほうへと視線を向けた。


「ヴァルガリアス殿……あなたももちろん、ついてきてくださるのだろう?」


「気は乗らんが、状況上、仕方がない。あのクソ女の魔法が解けるまでは、な」


 ヴァルガリアスは、くすん、と、肩を竦めた。


「建国の聖乙女クリスタの魔法だ……そう簡単に解く方法が見つかるとも思われないが、それも、王都で調べてみよう。魔法さえ解けてしまえば、レディは晴れて、故郷の村に帰ってくることもできるわけだし」


「はい、ありがとうございます」


「幸い私には、宮廷魔道士をやっているおさな馴染なじみがいるんだ。古代魔法の研究が専門だから、それについては、彼に頼ればいいと思う。――ああ、そうだ……レディさえよければ、この際、彼から正式に魔法を習ってはどうだろう?」


「え?」


 レオンの思わぬ提案に、エスティアは目を瞬いた。


「もちろん、ヴァルガリアス殿がいつも傍にいるなら、レディの身が危険にさらされるようなことは、そうそう起こらないだろう。ある意味、四六時中、最強の護衛がついているようなものだ。――が、それはそれとして、君が魔法の力を磨くのも、悪くはないのではないか? 以前にも言ったろう? 君の魔法の力はたいしたものだと私は思う、と」


「魔法を、習う……わたしが」


「ああ。君がいまよりもっと強い魔法を使えるようになったら、我ら騎士団の治癒を頼むこともできるし、な」


 レオンは、敢えてなのだろう、軽くウィンクをしながら、冗談めかした口調で明るく言ってくれた。その言葉にエスティアは、くす、と、笑う。


「そんなふうにお役に立てたら、すてきですね」


 そう言いながら、きちんと魔法を習うということについて、エスティアは考えてみた。


(それは、いいこと、かも……)


 魔法を教えてもらって、いまよりもっと強い治癒魔法を行使できるようになれば、いまレオンが言ったように、たくさんの人たちを救う力になるのかもしれない。そうなれば、今日カエルムの塔の前で味わったような、何も出来ないという無力感を、今度は味わわずにすむかもしれない。


(村に戻れる日が来たときに……役に、立つかしら)


 そう思うと、王都でただ徒然つれづれに日を暮らすのではなく、何か努力すべきことが見つかった気がして、エスティアの気持ちはすこしだけ上向いた。自然、口許には笑みが浮かんでいる。


「もうひとつ、危険だから無理強いをするというのではないのだが……ヴァルガリアス殿と共に、我らの魔物討伐に同行してもらえるようになれば、ありがたい。そうなれば、彼の力も、君の力も、きっと、ものすごく役に立つだろうから」


 レオンのその言葉を聞いて、エスティアははっとした。


 そうか、と、思う。


「わたしが役に立つかはくとしても、ヴァルガリアス様は、ほんとうにお強いですもの。きっと、たくさんの魔物を退治してくださいます」


「おい、小娘、俺を便利でお手軽な魔物退治機みたいに言うんじゃねぇよ」


 ヴァルガリアスはいかにも厭そうに眉を寄せて文句を言ったが、エスティアは気にせず、にこにこした。


 すこしずるいような気はするが、エスティアが騎士団に付き添えば、エスティアを危険にさらすわけにはいかない事情のあるヴァルガリアスも、結局、着いて来ざるをえない。そして、そんな中で魔物が出れば、エスティアが襲われないようにするために、好むと好まざると魔物討伐をすることになるだろう。


 エスティアは、ふふ、と、笑った。

 

「あなた様が多くの魔物を倒されたら、それはもう、たとえ正体が魔王でも、英雄みたいなものではないでしょうか? そうなればきっと、村の人たちももう、あなた様を恐れたりはしなくなるに違いないわ」


「……それが?」


 自分はむしろずっと恐れられたままで構わないとでも言いたげに、ヴァルガリアスは低く凄むように言う。紅玉の眸がくらく鈍く輝いたが、それでもエスティアは、ふんわりと笑ったままで言葉を継いだ。


「はい! それなら、もしもクリスタ様のものだという魔法を解く方法が見つからなくて、あなた様とわたしとが一生涯を共にするようなことになったとしてもですね、わたしたちはまた、村で暮らすことができるようになるかもしれません」


「いっ、生涯……って、お前……!」


 ヴァルガリアスが何故かぎょっとした顔をした。なにかおかしなことを口走っただろうか、と、エスティアは相手の反応の意味がわからず、刹那、きょとんとする。ことりと小首を傾げると、すぐ傍でレオンがくすくすと笑った。


「一生涯を共に……というのが、まるで求婚プロポーズの言葉のようだから、彼は驚いたのではないか」


 こそ、と、耳打ちするように教えてくれる。


 言われてからはっとし、エスティアは、かぁあぁ、と、真っ赤に頬を染めた。


「ち、ちがいますっ……そんなつもりでは、ぜんぜん、なくて……すみません、ヴァルガリアス様」


 ちいさく詫びを口にすると、一瞬微妙な顔つきをしたヴァルガリアスは、サイトに、ち、と、不愉快そうな舌打ちをした。


「ごめんなさい」


 エスティアはもう一度、そっと謝る。ヴァルガリアスは不機嫌に顔を背けたままでエスティアのほうを見ようとはしなかったが、それでも、エスティアの心はもう随分と前向きになっていた。


 やるべきことが、形として、きちんと見えた。


 それは、未知の未来さきへと一歩を踏み出す、勇気になる。


「魔法の勉強をして、それから、あなた様といっしょに魔物退治に出かける……聖乙女の封呪を解く方法を見つけるか、あなた様が怖い者ではないってみんなに思ってもらえるようにすれば、わたしはいつか、また大好きなフィニス村に戻ることが出来るんだわ。――なんだか、俄然、やっていけそうな気がしてきました」


 にこ、と、笑って、誰にともなくエスティアは宣言する。そんなこちらをちらりと横目で見たヴァルガリアスは、けっ、と、あからさまな悪態をついたのだった。





 明くるあしたのことである。


 慌ただしく旅支度を終えたエスティアは、今日までずっと世話になってきた教会の老神官、巫女頭と、手を取り合って別れを惜しんでいた。すこし離れた、教会の出入り口の門のところには、ヴァルガリアスとレオンとが立って、エスティアを待ってくれている。


「それでは、セルジュ様、マヌエラ様、行って参りますね。おふたりとも、お身体を大事になさってください。手紙、書きますから、お暇な時にはお返事をくださいね」


「エスティア、お前こそ、気をつけるんだよ」


「ありがとうございます」


「ちゃんと帰っておいでね。いつまでも待ってるから」


「もちろんです。フィニスはわたしの大好きな故郷ふるさとですから」


 フォレストグリーンの眸に涙を浮かべながら、エスティアはふたりと抱擁しあった。


「――カエルムの塔の、〈力ある御方〉」


 ふと、老神官セルジュが、エスティアからやや離れたところに立つヴァルガリアスに語りかけた。ヴァルガリアスはセルジュの声に反応して顔を上げたが、それまで詰まらなさそうな無表情だったのを、何故か急に口のを歪め、いかにも人相の悪い笑みを浮かべてみせる。


「俺は、お前らからは、〈魔王〉と呼ばれ、恐れられる者のようだが?」


 そう皮肉っぽく言った。


 しかしセルジュはそれに気圧けおされることもなく、穏やかな表情のまま、ふるふる、と、ゆるくかぶりを振る。


「たしかに、そうなのかもしれません。しかし、此度こたび、フィニス村はあなた様に救われたのも確かなこと」


「ははっ、なるほどな。その理屈……さすがは、そこの小娘の育ての親というところか。同じことを言う」


 にや、と、ヴァルガリアスは笑った。


「それだけではございませぬ。テネブラエの亀裂に程近くありながらも、フィニスこの村がこれまで被害らしい魔物の被害をこうむってこなかったのは、やはり、あなた様がおいでだったおかげではないのか、と」


 セルジュに言われ、ヴァルガリアスは、はんっ、と、鼻を鳴らした。


「知るかよ、ンなこと。別に、何かしたわけでもないしな。――まあ、ただ単に、並の魔物が俺の気配にびびって近づいちゃこなかっただけのことだろうよ」


「それでも……これまでの、ながのご加護に、感謝を。――今後は、その加護を、どうか我らが大切な娘、エスティアに授けてくださらんことを」


 セルジュがヴァルガリアスに向かって祈るように手を組んだからなのか、ヴァルガリアスは厭そうに顔を顰め、くるりと後ろを向いてしまった。


「加護なぞ知るかよ。その娘に死なれたら、俺もただではすまん。そういうしゅがかかってるからな、あくまでも自分のために、そいつを死なせられんだけだ。――ってか、だいたい、神官が魔王に祈ってどうするんだ? あ?」


 そんなヴァルガリアスの言い訳とも文句ともつかぬ声を聴きながら、エスティアはどうしてか、くす、と、ちいさく笑みを漏らしていた。


 荷物を持って、彼とレオンとが立つほうへと近づく。


「それでは、行って参ります!」


 改めて言って、セルジュとマヌエラに向かって手を振った。そうしていると、自然と目頭が、じん、と、熱くなってきてしまったけれども、エスティアは泣くのを堪えて、努めて明るい笑顔をつくる――……何もこれは不帰路ではないのだから、笑って旅立とう、と、おもう。


 名残は惜しく、尽きなかったが、もう行かなければならなかった。エスティアは意を決して、くる、と、きびすを返した。


「行きましょう」


 今度は、ヴァルガリアスとレオンに向かっても、笑顔を見せた。ヴァルガリアスは素っ気ない態度のままだったが、レオンは人好きのする笑みを返してくれる。


「――それにしても、ヴァルガリアス殿」


「あ?」


「フィニスに魔物の害が少ないのは、彼らが君を恐れ、避けていたからなのか」


「わからんが、たぶんな。近づきゃあ吹っ飛ばされるってわかってる相手に、わざわざ近寄らんでもいいだろう? ――ま、俺に吹っ飛ばされりゃあ吹っ飛ばされたで、気脈にけて、いずれまた精霊にる。それはそれで、悪くないはずなんだがなぁ」


 ヴァルガリアスは、くすん、と、肩を竦めた。


「え……あなた様に吹き飛ばされると、魔物は精霊に生るのですか?」


 エスティアは、ヴァルガリアスの発言をとらえて訊ねた。レオンも驚いたような顔をしている。


 だが、ヴァルガリアスとしては、こちらが不可思議そうにしていることのほうが、不可解なようだった。


「だいたい、魔ってのは、理性のからを失っちまった精霊だろうが。もとが一緒のもんなんだ、別に不思議はないだろうに。――自然なんて、みんなそうだろ? 作物が育つのに陽光は欠かせないが、照りすぎれば旱魃かんばつになる。同じく、雨とてなくてはならないが、過ぎれば洪水を呼ぶ」


「ありがたくもあり、恐ろしくもある、か……たしかに」


 レオンが、ふう、と、嘆息した。


「自然というのは本来、そういうものなのだろうな。それは、あるがままにあるだけで、そこには、善いも悪いも、本当はありはしない。同じものの表裏、か」


 レオンはしみじみと口にした。


「ところで、ヴァルガリアス殿。普通の魔物が君を怖がるというなら、此度こたびフィニスを襲った魔物は、普通の魔物ではなかったか、あるいは普通の状態ではなかったということになる。――心当たりは、おありだろうか?」


 レオンの興味はどうもそこへと流れたらしいが、一方のエスティアは、すこし違うことが気にかかっていた。ふと息を呑み、立ち止まってしまっている。


(精霊と魔物は、もともと同じ……同じものの、表と裏。――でも、だったら、魔王は……?)


 その表は、あるいは裏は、どのような存在ものなのだろう。


(まさか……)


 エスティアの心にはひとつの疑念とも仮説ともつかないものが、儚い泡沫うたかたのように浮かんできた。闇色の黒い髪、紅玉の眸の男を、ちら、と、うかがい見る。


 そのとき、ヴァルガリアスが立ち止まり、エスティアを振り向いた。


「なんだよ?」


 鼻頭に皺を寄せ、不快げに眉を顰めて問う男は――陽の光の中で見れば兇悪とまではいかなくとも――いかにもがらの悪そうな雰囲気である。


(まさか、よね……?)


 エスティアはひとり、ふるふる、と、首を振った。


「行かないのか? そんなにあの村を出るのが名残惜しいのかよ」


 けっ、と、相手はこちらをあざけってみせる。


「ご、ごめんなさい。平気ですから」


 嘲笑を憂慮とすり替えて、エスティアはそんな返事をした。


 そう、いまはとにかく王都へ行って、自分に出来ることをやっていかなければならない時だ。その積み重ねの先に、きっと、エスティアが愛するフィニス村に帰れる日が待っている。


 そう信じて、その日を迎えるためにやるべきことをやろう、と、エスティアは誰にともなく、ひとりこくりと頷いた。


 顔を上げた先、森閑の泉のようなフォレストグリーンの眸には、王都へと続く道が見えている。淡いピンクブロンドをそっと耳にかけると、エスティアは軽く駆けるようにして、数歩先を行くヴァルガリアスたちを追いかけた。





―※―※―※―※―※―

〈第一章〉完結です。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!

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ヴァルガリアスに口づけを。 あおい @aoi_tsuki

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