第9話 思わぬ仲介者

「こちらを向けというのに」


 身を縮めるエスティアを前に、ヴァルガリアスは苛立たしげに言った。自らの身体を抱くようにしているこちらの肩を掴み、無理に己のほうへと向き直させる。


 ヴァルガリアスは、その節ばった指で、エスティアの顎を取ると、そのまま、くい、と、軽く持ち上げて仰のかせた。そうしておいて、もう片方の手指てゆびを、する、と、首筋から胸元へかけてのエスティアの白い肌に這わせていく。


 相手の唐突な行動に、エスティアは、かぁ、と、頬を赤らめる。口づけですら、先程ヴァルガリアスに捧げたものがはじめての経験だったのだ。こんなふうに異性に素肌を辿られるなど、それこそ、いままで想像したこともない出来事だった。


「い、や……」


 エスティアは消えそうなほどのちいさな声で言った。


 すると、それまで紅い眸をじっとエスティアの胸元へと向けていたヴァルガリアスが、その声に気を引かれるようにして顔を上げる。


「なっ……お前はまた、なぜ泣きそうな顔をしているんだっ!?」


 エスティアの様子に気づいたらしく、男はぎょっとした表情をした。


「あ、あなた様が、無体をなさるからです……こんな、破廉恥な」


「なっ、おま、破廉恥とは何だ! 俺はただ……」


「巫女の肌を剥くのが破廉恥でなくていったい何なのですかっ!?」


 エスティアはフォレストグリーンの眸を潤ませながら、き、と、ヴァルガリアスを睨み据えた。


 涙目で見据えられた相手は、う、と、わずかにたじろぐ。こちらの肩や、それから胸の谷間のあたりまでが剥き出しになってあらわなのに――当のヴァルガリアスのせいなのだが――いまさらはっとしたように、視線を逸らすと、いそいそと生成きなり色のブラウスを整え直してくれた。


「し、仕方がないだろうがっ! ちょっと確かめたいことがあったんだ」


 そうは言っても、素直に詫びることはなく、そんな主張をする。


「たしかめたいことって?」


 どうやら、くちびるの次は純潔まで寄越せというもりだったとか、そういうことではなかったらしい。エスティアがヴァルガリアスの言葉の意味を問うと、男は厭そうな顔をしながら、エスティアの胸元を指さした。


「紋章が浮き出ていた」


「紋章、ですか?」


 問い直すと、男は忌々しそうに頷く。ちらりとブラウスをめくって確かめてみると、確かに、先程ヴァルガリアスが指を這わせたちょうどそのあたりに、薄い紅色の、ちいさな、けれども緻密で複雑な文様をえがく魔法陣のようなものが浮かび上がっていた。


 どうやらヴァルガリアスは、これを確かめたかったらしい。


「そういえば……」


(彼に口づけをした瞬間、胸元の、ちょうどこのあたりが熱くなったような気がしたんだったわ)


 そのときの感覚とともに、ヴァルガリアスのくちびるの感触も思い出してしまって、エスティアは頬を染めてうつむいた。


(これはあなたに接吻したときに、なんて……言えっこない)


 きゅう、と、目を瞑って黙り込むが、たしかに口づけの瞬間、不思議な声を聴くとともに、刹那、身体のそのあたりが熱をもったのは間違いのない記憶だった。もしかしたらこの紋章は、まさにあのとき、エスティアの身体に刻まれたのかもしれない。


「クソ女の魔法だ。――あの女、ご丁寧に、封呪を二段階にしてやがった」


 吐き捨てるようなヴァルガリアスの言葉に、エスティアはうつむかせていた顔をあげる。置かれている状況を鑑みれば、いつまでも恥ずかしがってばかりもいられなかった。


「聖乙女クリスタ様の、ですか? 二段階とおっしゃると?」


 気を取り直したエスティアが問いを重ねると、ヴァルガリアスは不愉快そうに顔をしかめつつ、自らのてのひらを見下ろした。


「封呪は完全には解けてない……っていうか、形を変えて発動した、というべきか」


「えぇっと……どういうことでしょうか?」


「身体は自由になったが、力が解放されきっていない。俺が自分の力を振るえるかどうかは、お前の意志に左右される」


「わたしの、意志……ですか」


「そうだ。お前が良しとすれば自在に操ることが可能だが、駄目だといえば制限を受ける。――さっき、お前も見ただろうが? お前がやめろと言った途端、俺の腕に巻き付いた、忌々いまいましい霊鎖れいさを」


 言われてエスティアは、たしかにと思って吐息した。そういえば、それまでヴァルガリアスのてのひらに収斂しゅうれんしてきていた魔力がにわかにほどけるようにして消えてしまったのは、まさに、エスティアが彼の行為をとどめた瞬間だったかもしれない。


(あれが、わたしのせいだったというの……?)


 エスティアは信じられない気持ちだったが、ヴァルガリアスはその結論にすこしも疑いを持っていないようだった。エスティアは、聖乙女クリスタの魔法によるものだという紋章が肌に浮かびあがっているあたりに、ブラウスの上から、両のてのひらを重ねるようにしてそっと触れる。


「それと、もうひとつ」


 ヴァルガリアスは言葉を継ぎ、エスティアは顔をあげる。


「俺はお前を傷つけられないし、誰かにお前を傷つけさせることも防がねばならんようだ」


「……どうして、ですか?」


「お前の受ける傷は、そのまま、俺の傷となるからだ」


 端的に言いながら、ヴァルガリアスは自らの二の腕に触れた。先程、何もないのに不意に出血した場所だった。


 エスティアははっとして、自分の腕の、同じあたりを見下ろしてみる。そこは生成のブラウスが破れて、肌から血が滲んでいたが、いま、互いの傷は、場所も、様子も、まるで同じだった。


「あのクソ女の魔法のせいで、お前と俺とは、いま、そういう関係でつながっちまったらしい」


「わたしの傷は、そのまま、あなたの傷になってしまう……?」


「そうだ」


「魔法を解く、方法は……?」


「さあな」


 ヴァルガリアスは、くすん、と、肩を竦めた。


「すみません」


 ふと、エスティアは詫びの言葉を口にしていた。するとヴァルガリアスは、無言のまま、やや不思議そうに、あるいは怪訝そうに、エスティアの顔を見た。


「あ、の……先程、わたしの不注意のせいで、あなたに怪我を負わせてしまいましたから」


 自分が痛いのは我慢できるが、そのために他者にまで要らぬ痛みを味わわせてしまっているのだとしたら、それはなんとも申し訳ないことだった。エスティアはしゅんとうつむいた。


 ヴァルガリアスは何故か、つい、と、エスティアから視線を逸らした。


「……まったくだっつの。お前なんぞが出しゃばらずとも、あんなやつら、俺ひとりで片づいたんだ。余計な真似しやがって」


 相手の口からこぼれたのは紛れもなく悪態あくたいだ。けれどもその声の調子は、ぼそぼそ、と、つぶやくようなそれでしかなかった。男の視線も、まだ、エスティアから明後日の方向へと逸らされたままである。


 ヴァルガリアスが黙ったので、ふと、場にはぽかんとした沈黙もだが落ちた。


「ほんとうに……すみません」


 再び詫びの言葉を口にしたエスティアは、静かにヴァルガリアスに近づいた。彼の傷のあたりにてのひらをかざすと、目を閉じ、精霊に祈りを捧げて、てのひらに力を集わせる。


「なにしてるんだ、お前は?」


 ヴァルガリアスは驚いたように紅い目をみはった。


「治療を……止血と、痛みを和らげるくらいしか出来ませんけれど」


「っ、必要ない! ってか、自分の傷を先に治せよ」


 苛立つように言い放たれ、エスティアは、こと、と、首をかたげる。


「もしかして、わたしの傷が癒えれば、あなた様の傷も治りますか?」


「いや、そういうわけじゃ、ないと思うが。……ってか、そういうことじゃなくってよ」


「では、あなた様を、当然優先すべきだと思います。わたしのせいで負われた怪我なのですし」


「は? 俺は魔王だぞ」


「魔王に痛覚はないのでしょうか?」


 エスティアがぱちぱちと目を瞬いて言うと、相手は凛々しい眉をわずかにしかめた。


「そんなことはないが……って、そういうことでもないだろう」


「そうでしょうか? 痛いのが同じなら、せめて痛みだけでも和らげてさしあげたいと思うのは、間違っていますか?」


「俺は……魔王なんだぞ?」


 今度は、どこか確かめるような響きで言われる。エスティアは、にこ、と、笑った。


「魔王の治療をしてはいけないという規則きまりでもあるのでしょうか?」


「……おかしなやつだな」


 エスティアの笑顔を受けて、最後、ヴァルガリアスはまた眉を顰めて、ぷい、と、そっぽを向いてしまった。


「とにかく!」


 気を取り直すように、無理に話を元に戻す。


「並の魔道士も騎士も、この俺をどうにかすることなんかできない。が、お前なら、話は別だ。赤子の手を捻るようなもんだろう。で、そうなりゃ、俺も無事ではすまんからな。とすると、俺は、自分の身を守るためにも、お前を守らにゃあならんってわけだ」


 魔法で相手の治療をしつつ、独り言のようにこぼされるヴァルガリアスの言葉を聴いていたエスティアは、塔の上で聴いた少女の声のようなものを思い起こしていた。声はたしか、加護、と、言っていた。それはつまり、いまヴァルガリアスが口にしたようなことを指していたのだろうか。


「クソ女の趣味の悪い魔法を解く方法がわかるまで、お前には、いやでも付き合ってもらうからな」


 そう言われ、え、と、目を瞬く。それはつまり、しばらくの間、自分はこの男と常に行動を共にするということだろうか。


(ヴァルガリアス様はご存知ないけれど、わたしは教会暮らしだわ……魔王って、教会にんでもいいものなのかしら?)


「なんだよ、その表情かおは?」


 エスティアが言葉を呑んでいると、ヴァルガリアスが不快そうにする。


「仕方がねぇだろうが。文句ならあの女に……」


 男は言い掛け、けれどもそこで言葉を止めた。


 紅玉の眸に鋭い警戒の色がにじむ。ヴァルガリアスがさっと動いてエスティアを背に庇うようにした途端のこと、目の前の空間がふいに陽炎かげろうのようにひずみ、次の刹那には、ふたりを取り囲むように数人の騎士が姿がその場に唐突に現れていた。


「転移魔法、か……騎士にしてはずいぶん卑怯なことをするもんだな」


 はっ、と、ヴァルガリアスが小馬鹿にしたように笑う。けれども騎士たちは挑発に乗ることなく、ただ冷静に、微動だにせず、こちらへと切っ先を突きつけていた。


 その後ろには、女魔道士が控えている。


 ヴァルガリアスは即座に体勢を変え、エスティアを腕の中に囲い込むようにした。そのまま、相手方の隙をうかがうように、まわりの騎士たちに視線を向ける。


 そうしながら、男は手指に魔力を籠め始めていた。それに気がついたエスティアは、相手の節ばった指を、反射的に、きゅ、と、掴む。


「だめです……!」


「あ? ふざけんなよ、お前……状況わかってんのか?」


「誤解があるだけです。無闇に暴力に訴えてはいけません」


「ちっ。そもそも向こうに聞く耳なんてありそうもねぇだろうがよ!」


「でも」


 エスティアは、ふるふる、と、首を横に振る。かといって、ではこの状況をどう切り抜ければいいのかは、わかっていなかった。


 騎士たちが、じり、と、こちらに迫ってくる。


 まさに、そんな瞬間だった。


「――ちょっと待て」


 ふいに、どこかで聞いたことのあるような声が響き、騎士たちの動きを制した。


 エスティアがはっとしてそちらを見ると、女魔道士のすぐ後ろへ歩み寄ってくる、王宮騎士の恰好をした青年の姿が見える。彼はエスティアと目が合うと、ふ、と、人好きのする笑顔を浮かべてみせた。


 先日、まさにこのカエルムの塔の近くで出逢った、王宮騎士のレオンだ。


 宮廷魔道士であるらしい女もまた、どうやらレオンを見知っているらしい。


「これは……王宮騎士第十一師団、第一中隊長、レオン殿ではないか。――魔王討伐に口を出すとは、いったい何のつもりだ?」


 女はそう言った。


「なに、そこのレディにはちょっとした借りがあるんでね。私としては、この状況を黙って見過ごすわけにはいかんのだよ」


 レオンは穏やかな口調で言った。


 魔道士の女は、不愉快そうに眉根を寄せる。


「その娘は、どうも魔王にたぶらかされておるようだ。よって、共に始末するべきだと判断したのだが」


「彼女は善良な巫女のお嬢さんだよ。私の名にかけて、ここで始末させるわけにはいかないな」


 レオンは飄々として応じる。


 それに対し、女魔道士はあからさまに苛立つようだ。


「なにを莫迦な。――そなた、わらわとやろうてか!?」


「なにを言う? もちろん、やらんよ。――仲間同士で戦ってどうするんだ?」


 レオンはまたはぐらかすように言って、肩を竦めた。それから再びエスティアのほうへと眼差しを向けてくる。


 ヴァルガリアスが隠しもしない警戒の眼差しをレオンに向け、エスティアの身をますます抱き込むようにした。それを目にしたレオンは、おや、と、そんな表情を見せる。


「だいじょうぶです、ヴァルガリアス様……彼は、敵ではないわ」


 エスティアはヴァルガリアスを見上げて言ったが、相手はエスティアにまわした腕を緩めようとはしなかった。


「レディ・エスティア」


 レオンが話しかけてくる。


 ヴァルガリアスがこちらを抱き込んでいるような恰好なので、そうするより仕方なく、エスティアはヴァルガリアスの腕の中から相手に応じた。男の腕に抱かれている自分がなんとなく気恥ずかしいが、いまは、それを気にしている場合でもないだろう。


「レオン様……その後、お怪我は、大丈夫でしたでしょうか?」


「ありがとう、もうすっかりいいよ。――それより、君の隣の男は、いま、君を守っているように見えるんだが……彼はほんとうに魔王なのか? そうだとすれば、どうしてレディを?」


「えぇっと……彼が魔王かどうかは、正直、わたしにはわかりません。この状況については、いろいろと、事情がありまして……」


 とても一言で説明できるはずもなく、エスティアは言葉を濁した。


 ふむ、と、レオンは顎に手を当て、なにやら思案するふうを見せる。


「宮廷魔道士ディアナ殿。先程も申し上げた通り、私はレディに借りがある。見捨てるわけにはいかないんだが……どうだろう、レディとこの男を、私の預かりとしたいのだが?」


「なっ……魔王を野放しにするというのか、王宮騎士団の一個中隊のおさともあろうお方が!?」


「だから、私が責任を持って預かると言っているではないか。なにも野放しにするわけではないさ。――それに」


 レオンはすぅっと目を細めると、ヴァルガリアスのほうを見た。


「それに……なんだ?」


 ディアナと呼ばれた女魔道士が怪訝そうにする。


「彼が真実、魔王だとするなら……精霊王の去ったこの世界で、いま、彼は唯一、魔を完全に滅することの出来る存在ということになる。もし、レディ・エスティアの協力のもと、彼の力を魔物討伐に活かせるとしたら、これは多大な戦力になると思わないか?」


 レオンの視線を受けたヴァルガリアスは、いかにも不愉快そうに眉を顰め、けっ、と、悪態をついた。


「誰がやるかよ、そんなこと」


「ヴァルガリアス様……!」


 エスティアは、わずかに咎めるように相手の名を呼ぶ。


「はっ、この俺を便利な小間使い扱いすんなっての」


「男はこう言っておるが……本当に可能かぇ、そんなことが」


 ディアナは嘲るように言ったが、レオンは人好きのする笑顔を浮かべ、さあ、と、はぐらかすように肩を竦めた。


「それはおそらくこちらのレディ次第……の、ように、私には見えるが」


 ちがうかな、と、そう言って、レオンはエスティアに穏やかに笑いかけた。

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