第2話 魔術師の身の上話
マリウスが、領都ベルーナの片隅にある自宅兼研究所に戻ってきたのは、真夜中を過ぎた頃だった。
領都に戻った後すぐに、醸造所での作業を再開したからだ。
「お前のせいで遅くなった」と文句を言われながら、どうにかマリウスは作業を終わらせた。ここでもまた生命力を削って魔術を行使する必要があった。
自宅に戻ったマリウスは、ほとんど歩くのもやっとという有様だった。
回復薬を服用して生命力と体力を無理やり回復させていたが、蓄積した疲労を完全に癒す事までは出来ない。
本当は直ぐにでも眠りたいマリウスだったが、最後にもう一仕事しようと考えて研究室に向かった。
そして、棚から小奇麗な瓶や小さな壺を取り出す。その中に入っているのは化粧品や香水の類だった。
(明日から南の砦に行くから、今日中にミレディアへのプレゼントを作っておかないと)
そう考えて、マリウスは複雑な呪文を唱え始めた。それは化粧品類の質を向上させる効果を持つ特殊な魔術の呪文だった。
ミレディアというのは、ベルーナ伯爵の長女の名前である。そして、彼女こそがマリウスがこのベルーナ伯爵領で働いている理由だ。
王都の賢者の学院で、百年に1人の天才とまで持てはやされていたマリウスは、元々魔術研究の道に進んでいた。
攻撃魔術にも長けていた彼は、冒険者にでもなれば英雄と呼ばれるほどに大成するのではないか、とも言われていたが、戦う事よりも人々の生活を豊かにする為に魔術を使いたいと考えていたのだ。
彼は食料の増産や病気の予防や治療といった共同の研究に加えて、独自に醸造や醗酵などの食料品の加工や、化粧品類の質の向上に有効な魔術も研究していた。
上質な食品や化粧品などの贅沢品を、庶民の手にも届くものにしたいというのが彼の目標だった。
そんな彼の人生が大きく変わる切っ掛けとなったのが、ベルーナ伯爵家の令嬢ミレディアとの偶然の出会いだった。
今から3年と少し前。伯爵領から王都に向かう途中で魔物に襲われていたミレディア一行を、偶然通りかかったマリウスが救ったのである。
感謝の言葉を述べるミレディアを一目見て、マリウスは心を奪われた。
当時まだ15歳だった彼女は、綺麗な長い金髪と碧い瞳、そして純白の肌を持つ、輝くばかりに美しい少女だった。
ベルーナ伯爵に屋敷に招かれるなど交流を重ねる中で、彼女への思いを募らせたマリウスは、思い余って彼女と結ばれたいと願いをミレディア本人とベルーナ伯爵に伝えた。
それは、余りにも非常識な願いだった。
王国でも最南端の孤立した場所に領土を持つベルーナ伯爵は、有体に言ってしまえば田舎貴族だった。だが、貴族であることに変わりはない。
平民に過ぎないマリウスが貴族令嬢と結ばれるなど、それだけでも夢物語だ。
更に、ベルーナ伯爵にはミレディアの下にもう1人娘がいるだけで男子に恵まれていなかった。そのため、ミレディアは婿を迎えて共に伯爵家を継ぐ立場だった。
加えて、古代において魔術師が絶対的な権力を握って悪逆非道な政治を行った事があるという歴史的な経緯から、現在では魔術師が政治権力に近づくことは忌避されており、マリウスが貴族家に入る事は出来ない。
ミレディアと結ばれるためには彼女に嫁に来てもらうしかないのだ。
跡継ぎたるべき娘を平民の嫁にする。そんな事は普通に考えて全くありえない。
しかし驚くべきことに、ベルーナ伯爵はもしも伯爵領の発展に寄与できるならば、考えてもいいと答えた。
ミレディアも憎からず思っていると言ってくれた。
驚喜したマリウスは、早速ベルーナ伯爵領に移り住み身を粉にして働き始めた。
それが今から約3年前の事だ。
ベルーナ伯爵領での生活は、幾つかの行き違いの結果マリウスにとって辛いものになった。
まず、ラベルナ王国でも最も田舎といえるベルーナ伯爵領の領民は、概ね排他的でそもそも余所者によい感情も持たない人々だった。
そして、魔術に対する偏見も王都などに比べてが遥かに強かった。
そこに来て、賢者の学院でかなりの結果を出しており、自らの魔術の腕に自信を持っていたマリウスは、最初そのことをひけらかすような態度をとってしまった。
更に、ミレディアと結ばれたいという、客観的に見て全くありえない自らの望みを口にしてしまってもいた。
この結果領民の多くはマリウスに強い不信感を持ち、胡散臭い、或いは危険な、もっと言えば異常な魔術師だと認識してしまったのだ。
ベルーナ伯爵にそのことを注意されたマリウスは、己の行いを反省し一転して謙った態度をとるようになった。
また、ベルーナ伯爵もマリウスは恐れる必要はない者だと布告してくれた。
だが、その布告の中で恐れる必要はないということを強調する余り、逆にマリウスは侮られるようになってしまった。
こうして、伯爵領に対して絶大な貢献をしているにもかかわらず、マリウスは虐げられた生活を送るようになってしまったのである。
だが、マリウスはこの領での生活を悲観していなかった。
1年半ほど前。流石に苦しい現実に耐えかね、貴族の娘と結ばれるなど所詮不可能だと諦めて王都に帰ろうとしていた矢先に、ベルーナ伯爵に呼ばれ、ミレディアとの正式な婚約を認めると告げられていたからだ。
ミレディアに、本当に自分の妻になってもいいのかと聞くと、彼女は頬を赤らめ小さく頷いて「はい」と答えた。
この時マリウスは正に幸福の絶頂にあった。
まだ準備もあるから公言はしないでくれとも言われていたが、マリウスは狂喜し、一層伯爵家とその領民と領土の為に励んだ。
その後数回伯爵邸に招かれ伯爵の家族と交流することがあったのだが、マリウスはミレディアだけでなく伯爵一家全員に魅了されていた。
ベルーナ伯爵は現在45歳。威厳ある人物だが紳士的でもあり、マリウスにも敬意を持って接してくれる。辺境の領主らしく自身も相応の戦士であり、筋骨逞しい人物だ。
伯爵婦人のエリザベータは35歳になるが、まだまだ若々しく、気高さと優しさを兼ね備えた美貌の持ち主だった。
女性としての魅力もいささかも衰えておらず、むしろ成熟した妖艶さがのぞくこともある。
男子を得られていないベルーナ伯爵が、他の女性に目を向けないのも当然と思えた。
ミレディアの妹のアンジェリカは15歳の可憐な少女で、姉に比べて活発で未だ言動に幼さも残るが、いずれ姉に劣らぬ淑女に成長するだろうことが予想された。
ミレディアと婚約して以来、彼女はマリウスの事をお兄様と呼んでくれている。
そして、18歳になったミレディアはより一層美しい女性へと成長していた。
この人たちと家族になれると思うと、マリウスは喜びで胸が一杯になり、嫌な事など直ぐに忘れられた。
幼い頃に事故で両親を亡くしたマリウスは、家族の愛というものに飢えていたからだ。
両親の死後マリウスの面倒を見てくれた叔父は公正な人物で、マリウスの両親の遺産をしっかりとマリウスの為に使い、おかげでマリウスは賢者の学院で学問と魔術を学ぶ事が出来た。
だが、家族としての愛情は与えてくれなかった。
そして、マリウスが成人すると付き合いはなくなった。
そのマリウスにとって、伯爵一家は理想の家族だった。
領内におけるマリウスの境遇が良くないことは伯爵も承知しおり、いずれ是正すると約束してくれていた。
そのためにも、今は多少嫌な事があっても我慢して欲しいとも言われており、マリウスはその言葉に素直に従った。
「よし……、完成した……」
やがて化粧品と香水を、満足できる状態に仕上げたマリウスは、そう微かにつぶやくと、その完成品を大事にしまい、それからようやく床についた。
そして、ほとんど気絶するように眠りについたのだった。
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