(5)

 見てはいけない。これ以上進んではいけない。

 頭の中では警鐘が鳴り響くのに、晩霞の足は勝手に前に出てしまう。

 展示区画の前には、舞台の幕のように白い布がかかっていた。それを払いのけて、中へと入る。

 まだ準備中のはずだが、この区画だけ綺麗に完成したパネルが展示されていた。

 パネルのキャプションに目をやると、晩霞が……いや、呪妃が知っている名前や歴史が連なっている。


『中原に存在した、一代限りの王国』

『槐王は独裁を強いて、周囲の国を幾つも属国とした』

『その勢いたるや地方政権では群を抜き、当時の王朝に迫るものであり』

『クーデターによりわずか十余年で滅びた』

『その中心人物となったのは――』


「……劉玄真、霍景良、漂雲……」


 今までネットや文献でどれだけ探しても、見つけることのできなかった人物の名前に、まるで失った古いアルバムを見つけた時のような心持になる。

 感慨深いと表現するにはほど遠い、むしろ思い出したくない記憶だ。だが、前世はたしかに存在したのだと、夢や妄想では無かったのだと強く実感する。

 ……なぜ、天華は真槐国のことを知っているのか。

 通ると思っていなかった大企業への就職。自分の志望に叶った、出来過ぎた配属先。四海グループの宝物を集めた四海奇貨館。奇貨館を囲む、檻のような鉄柵――。

 蜘蛛の巣のように、細くて切れやすい糸が触れたかと思えば、それはどんどん身体に纏わりついて、太く強靭なものとなって獲物を離すことはない。

 これは用意周到に張り巡らされた罠だと思う一方で、考え過ぎだと願う自分もいる。

 だって、もう千年以上前の話だ。

 誰も呪妃のことなんて覚えていない。過去の自分を知る者は、この世にはいない。ましてや、晩霞の前世が呪妃だということを知る者なんて、存在するはずがない。

 足を止めることができずに進むと、続くガラスケースの中には、真槐国ゆかりの物が飾られていた。

 槐王が身に着けていた衣や冠、剣……。圧政を強いて得た富で作られた、贅を尽くした品々は、今は年月にさらされた過去の遺物だ。

 その後には、晩霞の見覚えのある物が並んでいた。

 赤瑪瑙の腕輪と銀の腕輪。簡素な銀の簪と冠。

 血で染め上げたような暗い赤色の地に黒糸で繊細な刺繍が施された衣装。

 そして、古代の神獣を模した文様が彫られた銀色の仮面。


「ああ……」


 ここにある物はすべて、呪妃が身に付けていた物だった。

 呪妃の遺物は多少のくすみはあるものの、槐王の物に比べれば断然に保存状態が良かった。当時の光を失うことなく、ガラスケースの中で薄暗い照明を受けて輝いている。

 展示物の後ろの壁には、人物画がかけられていた。

 赤色の衣を纏い、髪を結わずに地味な装飾だけを身に付けた若い女性の姿絵だ。椅子に座り、銀色の仮面を手に持ってこちらを見るその顔は、晩霞がよく知る『呪妃』の顔だった。


「どうして……」


 食い入るように姿絵を見つめる晩霞の後ろから、誰かが近づいてきた。革靴の踵が小さな足音を鳴らして、晩霞のすぐ後ろで止まる。


「……貴女の顔を忘れぬよう、たくさん描きました」


 背後から伸びた手が、ガラスケースに触れた。


「貴女がいた証を残すため、大切に保管していました」


 大きな右手と左手が、ゆっくりと晩霞の顔の両横に置かれた。それは紛れもなく、晩霞を捕らえる檻だった。


「本当なら、もう少し経ってから貴女をここに連れてくる予定でした。僕が案内したかったのですが……残念だ」


 晩霞の頭のすぐ後ろで漏らされた嘆息が、つむじを撫でていく。

 瞬きすることも忘れて、晩霞は目の前のガラスを見つめていた。

 ガラスに反射して映るのは、晩霞の背後に立つ男の姿だ。

 類稀な美貌に、蜜色の瞳。スーツを身に付けているはずの彼は、しかしガラスの中では美しい青い外衣を纏っている。それは、彼の雪のような白い肌によく似合っていた。

 ガラスに映った彼の顔は、晩霞が知るものよりも少し若い。

 いや、こちらの顔の方がよく知っていた。緩やかな癖を持つ長い髪が、彼が少し首を傾けたことでさらりと肩から流れ落ちた。


「……小華」


 晩霞が呆然と呟けば、彼は目を瞠った後、破顔した。嬉しそうで、それでいて、今にも泣き出しそうに。


「はい、我が君」


 ガラスの中で、迷子の子供がやっと親を見つけた時のような笑みを見せて、小華は――天華は答える。


「この千年、貴女に再び会えることを、ずっと願っておりました。……やっと、やっと見つけました、我が君」


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