(4)
晩霞が向かった先は、四海奇貨館だった。
自分が逃げた方向がマンションとは逆方向だったこともあるが、一人になるのが怖かったのだ。
誰か、現代の自分を知る誰かに会いたかった。
どうして小華が――いや、楚天華が『我が君』と呼んだのか。考えることを脳が拒否している。今はただ、ここが遠い過去ではなく、現代であることを確認したかった。
プラタナスの林の奥にそびえる四海奇貨館には、まだ皓々と灯りがついている。周館長も林主任もまだ残っているのだ。
明るい光にほっとして、晩霞は急いで中に入った。
「おや、朱さん。どうしたんですか? 忘れ物でも?」
一階の事務室には、帰り支度をしている周館長と林主任がいた。内心で安堵しながら、晩霞は曖昧に頷く。
「はい、ちょっと……」
言いながら、ふと、デスクの上にあるパンフレットが目に入った。上品な光沢のあるそれは仮作成の物で、あとは最終チェックを入れるだけのものだ。ちょうど、晩霞も担当している十国時代のページが開かれていた。
目に飛び込んできた文字に、晩霞は目を見張る。
「これは……」
晩霞の見つめるページに、周館長が「ああ」と微笑む。
「オーナーが担当したところだね。驚いたよ、あの時代に、そんな国があったなんてね」
「ああ、幻の王朝ですね。まさか当時の遺物が四海グループに保管されていたなんて……」
林主任も加わって、周館長と話し出す。白熱する二人の話は、晩霞の耳には届いていない。
晩霞はふらりと部屋の外へ足を向けていた。「どうしたんだい」と尋ねてくる林主任に、返事を返すこともできなかった。
廊下を進み、エレベーターを使うのも待てずに階段を上がる。向かった先は、企画展を行う部屋だった。
深紅のビロードが張られた扉には、『関係者以外立入り禁止』の札が下がっていた。以前展示されていた陶磁器は先週撤収し、今は次の展示のための設営の準備をしているところだ。
扉の鍵は掛かっていなかった。中に入って壁のスイッチを押せば、薄暗い照明がつく。照度の調整をするのも忘れ、薄暗い中を進んだ。
まだ準備中であるため、運ばれたガラスケースの中が空洞だったり、作りかけの展示パネルが壁に立てかけられたりしている。白いパーテーションで展示区画が仕切られて、それぞれの柱に『五代王朝の興亡』『南唐文化』といったタイトルが掲げられていた。
それらには一瞥もくれずに、パーテーションで作られた順路を進んでいくと、やがて目的の柱が見える。
「……」
足を止めた晩霞の目に、再度、あの文字が現れた。
『 幻の国
それは、晩霞の前世――呪妃が存在した国の名前だった。
***
晩霞が去った後、周館長と林主任は首を傾げて顔を見合わせる。
「朱さん、何だか様子がおかしかったですね」
「うーん、そうですね……」
追いかけた方がいいだろうかと話す二人に、廊下から声が掛かる。帽子を被り作業服を纏っているのは、まだ若そうな男だ。後ろには警備員もいる。
「すみませーん、そろそろ工事を始めたいんですがー」
「ああ。はい、分かりました」
先ほど、警備の方から急な電気工事が入ると連絡が入っていた。だから、二人とも残業を切り上げて帰るところだったのである。
「そうだ、朱さんがまだ残っていて……」
「こちらで声を掛けます。あなた方はどうぞ先にお帰り下さい」
警備員の言葉は丁寧だったが、どこか有無を言わせぬ強さがあった。
追い立てられるように、周館長と林主任は四海奇貨館を後にした。振り返った先にある洋館の周辺はもう真っ暗になっている。
高い鉄柵の門が、ゆっくりと閉じられていく。四海グループの宝物を守るはずの館が、まるで何かを閉じ込める檻に見えたのは気のせいだろうか。
冷たい風が吹いてきて、二人は小さく身を竦めながら背を向けた。
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