(3)
晩霞が驚いて振り向くと、少し離れた場所に若い女性が一人立っている。スーツ姿の彼女の顔には見覚えがあった。たしか、同期の一人だ。
晩霞が四海奇貨館に配属されてから、研修で一緒だった同期の子達と会う機会は少なくなった。同期のよしみで週末ごとに飲みに誘われてはいたが、参加したのは二回。同じグループだった子数人と近況報告をしたくらいだ。
営業で先輩について挨拶に行ったり、経理のシステムを覚えるのに四苦八苦していたり……。
彼女達に聞いた話の中には、楊彩雅が広報部でさっそく活躍しているという内容もあった。それから、希望の部署に通らなかった子が人事に何度か異議を申し立てたが、結局通らなかったことも。
不意に思い出されたのは、晩霞の目の前にいる彼女の、辞令を見て悔しそうにしていた表情。そして、晩霞を睨みつけた目。
思い出したのは、彼女が今まさにその目をしていたからだ。いや、もっとどろどろとした、暗い光を湛えた目で晩霞を睨んでいる。
「朱晩霞……あんたが、邪魔しなければ……」
邪魔?
一体何のことかと問う前に、女性は低く呻る。
「何よ……みんなして、あんな、彩雅ばかり、ちやほやして……! あんなやつより、ワタシの方ガ、ゆうシゅウ、ナノ、にィ……」
女性の口から、濁っていく言葉と共に黒い靄がごぽりと溢れ出た。夕暮れの薄暗い光の中に溶け込むことも無く、それは墨汁のように地面に落ちて広がっていく。その気配にもまた、覚えがあった。
――楊彩雅のバッグに入っていた、赤いお守り袋。
あの呪いの主は、彼女だったのか。
楊彩雅を妬んでいたのだろう。彼女も広報部に入りたかったのだろうが、人気のある部署だ。人数に限りがある。楊彩雅に呪いをかけて足を引っ張るつもりだったのか。
なのに、呪いのお守り袋を晩霞が捨ててしまった。彼女の呪いは失敗した。
どうやって晩霞がお守り袋を捨てたのを彼女が知ったかは分からない。だが、逆恨みにも程がある。
女性はバッグを放り投げて、手に持つ何かを掲げた。外灯の光が反射するのは、カッターナイフの刃だ。
(嘘でしょ!?)
そこまでするか、と晩霞は血の気を引かせる。
だが、呪いはそういうものだ。自らの望みのために行えば、相手だけでなく己の身が穢れていき、善悪も正邪の区別もつかなくなる。
頭の隅で冷静に考えながら、晩霞はやはり見て見ぬふりをしておけばよかったと後悔する。
自分の性に合わないくせに、気まぐれに慈善をするから、己は破滅するのかもしれない。
前世も、そして今世も――。
女性がこちらへ向かってきた時、晩霞の肩を誰かが強く掴んで引き寄せた。
庇うように抱き込んだかと思えば、カッターナイフを振りかぶってくる女性を、長い脚が容赦なく蹴り飛ばす。
「ぎゃっ……!」
数メートル吹き飛んで芝生の上に蹲った女性を、彼は冷ややかな目で見下ろした。
「……我が君を傷つける者は、女子供であろうと容赦しない」
怒りの籠った低い声を初めて聞いた。人を容赦なく傷つける姿も初めて見た。
今世だけでなく、前世でも、そんな彼の姿を知らなかった。
晩霞の肩を抱いた彼は。
晩霞を『我が君』と呼んだ彼は。
楚天華は。
玉のように整った白い顔の中で、蜜色の瞳を爛々と光らせていた。外灯の光を受けた彼の姿は、『小華』そのものだった。
晩霞は息を呑み、勢いよく天華の腕を振り払う。
「我が君! 何を……」
「触るな!」
「っ……」
伸ばした天華の手の指先が、ピクリと震えて止まる。晩霞は天華から離れるようにじりじりと後ずさった。
「わ……私に、触らないで」
みっともなく晩霞の声は震える。天華の目に、一瞬傷付いたような色が浮かんだ。
晩霞は天華を見据えたまま距離を取り、手の届かないところまで来てから身を翻した。
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