(6)
晩霞がいるのは、三階の保管室だ。作業やミーティングに使う大きなデスクがあり、そこにノートパソコンと資料を広げていた。少し離れた場所には林主任もいて、晩霞と同じように作業をしている。
昼食後からずっと作業をしており、もう十五時を回っていた。休憩ついでにお茶でも淹れてこようと立ち上がった晩霞の鼻を、ふわりと爽やかな香りが擽る。
いつの間に来ていたのか、傍らには天華が立っており、手に茶器の乗ったお盆を抱えていた。柔らかく微笑み、晩霞を窺うように見てくる。
「小朱、少し休憩にしませんか?」
『呪妃さま、お茶をお持ちしました』
「……」
脳裏に小華の顔が過ぎったのは、呪妃が休もうと思った時にいつもタイミング良く彼が茶を持ってきたからだ。懐かしさに、晩霞はぼうっと天華を見つめてしまう。
「小朱?」
「……あ、はいっ。休憩しましょう!」
慌てて返事したせいか、声が大きくなってしまった。晩霞の声に林主任もようやく顔を上げて、天華に気づくと慌てて立ち上がった。
「オーナー! すみません、気づかずに」
「いいえ、お気になさらず。二人とも根を詰めているようでしたし。林主任もよかったら休憩にしませんか? 陶さんがお茶を持って行くようにと言って」
昼食後に二人が保管室に行ったきりで戻ってこないので、休憩がてら様子を見に来たと天華は言う。
さっそく、パネルで仕切られた休憩用のスペースに移動した。四角い卓に、天華が手際よく茶器を並べて準備していく。オーナーである彼に給仕をさせるのは居た堪れなく晩霞達はそわそわとしてしまうが、その様子に天華は可笑しげにはにかんだ。
「これは私の趣味というか、性分のようなものなので。幼い頃から随分と鍛えたので、自信はありますよ」
「ほう……ご両親から教わったので?」
林主任が訪ねると、天華は首を横に振る。
「いいえ。世話になった恩人に、少しでもおいしい茶を飲んでもらいたくて頑張りました。今も修行中の身ではありますが」
大財閥の御曹司は、ずいぶんと殊勝な性分だったようだ。
林主任が感心する中、天華は手慣れた手つきで茶を淹れる。蓋椀に茶葉とお湯を入れ、蓋をして蒸らす。茶葉が沈んだ頃、長い指先で蓋を少しずらして
「どうぞ」
「ありがとうございます、いただきます」
手に取った白磁の茶杯からは、爽やかな、少し草っぽい香りがする。口に含めば澄みながらもしっかりとした甘みが広がり、飲んだ後はすっきりと爽やかな余韻が残った。
「
白牡丹は白茶に分類される。白茶は摘んだ後の茶葉を放置して自然に萎れさせ、ごく弱く発酵させた茶のことで、香りや味わいが爽やかで上品だ。
普段はティーバッグか、もっと手抜きでインスタントの粉を使っている晩霞だが、これは素直においしいと思った。もう少し飲みたいと思った矢先、空になった茶杯に天華が二杯目を注ぐ。
「あ……どうも」
「いいえ。よかったらこちらもいかがですか?」
天華が差し出した小さな入れ物の中には、ドライフルーツやナッツが入っている。その一角に、見慣れた茶色い小さな焼き菓子もあった。花生酥(ピーナッツケーキ)だ。
「塩気もあって、意外に合うんです」
勧められて口に入れれば、ピーナッツの風味と塩気で引き立つ素朴な甘み、ほろほろとした食感がいい。晩霞の好きな味だった。
思わず緩む口元を握った拳で隠すようにして食べていると、ふいに強い視線を感じた。天華が蜜色の目を軽く見開いて、こちらをじっと見ている。
もしや花生酥の欠片が顔についているのかと晩霞はそっと口元を拭った。これで取れたかと目線を上げると、まだこちらを見ていた天華と目が合う。
「な、何でしょうか」
身構える晩霞だったが、天華はただ「お茶のお代わりは」と尋ねてくるだけだった。言葉に甘えてお代わりし、花生酥をもう一個つまんだ晩霞は、目を伏せた天華が満足そうに薄く笑む様子に気づくことはなかった。
「……そういえば、今回はオーナーも展示を担当するんですね」
お茶を飲み終えた林主任が、天華にそう尋ねた。
「はい。周館長に頼んで、展示スペースをもらいました。ちょうどこの時代に興味があったので、僕も皆さんと一緒に参加したかったんです」
天華は補佐だけでなく、晩霞と同じように担当するブースがあるらしい。そういえば、仮作成された展示会場のレイアウトの図面の一角に、空白の個所があったのを思い出す。
「どのような展示を? 十国には入っていませんが、
落ち着いているように見えて、眼鏡の奥の目を好奇心でわくわくと輝かせる林主任の問いに、天華は悪戯っぽく微笑む。
「実は、社長の別邸に所蔵している物の中に、秘蔵品があるんです。その展示をしたいと考えています」
「秘蔵品ですか! オーナーが持ってこられる文物は、毎回驚きの品があるから楽しみです」
「ふふ、内容については、今は内緒にしていてもいいですか? きっと驚いてもらえると思います」
天華と林主任が楽しそうに話すのを、晩霞は四杯目の茶を飲みながら眺める。
秘蔵品とは何だろう。天華の含みのある言い方が少し気になったものの、人よりもまずは自分のことだと切り替えた。
ちょうど茶を飲み終えて、休憩が終わりそうなのを見計らい、盆を片付けようと手を伸ばす。せめて片付けくらいはと思ったのだが、晩霞の手に大きな手が重なった。
天華の手だ。
「僕がします。貴女にこんなことをさせるわけには参りません」
「え……」
「性分なんです」
晩霞の手を盆からゆっくりと離させる天華の仕草は、壊れやすい玉の彫り物を扱うように丁寧だった。軽く触れられているだけなのに、神経が多い指先は、勝手に彼の熱や手の固さを感じ取ってしまう。
――晩霞は、人と触れ合うことが得意ではない。
手を繋いだり、肩を汲んだり、抱き締め合ったりといった、人の体温を感じる触れ合いにぞわっと嫌悪してしまう。家族や同性の友達でも慣れず、男性はなおさらだ。高校生の時に告白してきた男子と付き合ったことがあったが、下校中に手を繋がれて思わず振り払ってしまい、その日のうちに別れることになった。
慣れるため、大学時代は合コンに出たりサークル合宿したりと、青春をそれなりに謳歌してみたが、結局恋愛や男女関係に至ることは無かった。おかげで改善せずにいる。
これは前世でも同じだった。人に触れられることを呪妃は極端に嫌っていた。王と床を共にすることも無く、誰かと恋仲になることも無く、黒天宮でひっそりと孤独に生きていたのだ。
傍らにいて触れることを許したのは、ただ一人。
小華だけだ。
その小華に似ているせいか、天華に触れられてもなぜか鳥肌は立たない。それでいて壊れ物を扱うような彼の手つきに、猛烈に恥ずかしさを覚えた。大事にされていると自惚れてしまうくらい、優しい仕草だったのだ。
固まる晩霞をよそに、天華はにこりと笑って、片手で手際よく茶器を片付けた。最後にゆっくりと、晩霞の手を離す。
「……それでは、僕は一階に戻ります。小朱、林主任、二人とも、あまり根を詰め過ぎないようにして下さいね」
盆を持って天華が去った後、普段はプライベートに触れてこない林主任もさすがに晩霞の方を窺うように見てくる。
「あー……朱さん、大丈夫? オーナーは、その、優しい人で……うん、気を遣ってくれたんだよ」
「…………はい」
フォローする林主任の顔をまともに見ることもできず、晩霞は頭を抱えて突っ伏した。不覚にも熱くなった頬と耳の熱を冷ますため、今こそ白茶が欲しいと思った。
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