(4)


  ***



「――呪妃さま、おはようございます。お目覚めでしょうか? 水をお持ちしました」

 

 朝が来ても薄暗い室内に、可憐な声が響いた。

 微かに開いた扉の隙間から、わずかな陽光が室内へ差し込んでいる。黒い紗のかかった寝台で微睡んでいた呪妃は掛けられた声を無視していたが、再度声が掛かった。


「呪妃さま、大丈夫でございますか? もしや、どこかお加減が悪いのでは……」


 繰り返される声に呪妃は眉を顰め、嘆息しながら「失せろ」と返す。しかし、「起きていらしたのですね」と声の主は扉を大きく押し開けて入ってきた。

 水差しと盥を抱えて部屋に入ってきたのは、一人の童女だ。歳はまだ十歳頃で、侍女の中でも下位の者が着る、裾が擦り切れた粗末な襦裙を身に付けている。

 服はみすぼらしいが、その中身は極上の玉に等しい。雪のような白い肌に、緩やかな癖のある豊かな髪。あと五年もすれば後宮の美姫をも凌ぐ美女に育つであろう、整った容貌を童女は持っていた。

 しずしずと寝台へと歩み寄ってくる童女を、呪妃は呆れつつ眺めた後、鼻で笑う。


「よくもそのような恰好ができるものだな。……男子おのこのくせに」


 呪妃の嘲りの言葉に、童女――もとい、女物の服を纏った少年は、蜜色の瞳をそっと伏せた。




 呪妃の住む黒天宮は、後宮の一番奥にある。

 絢爛豪華な後宮にありながら、黒天宮には華やかさが少しもない。黒塗りの屋根や壁で囲われた室内には、金銀細工や宝玉を使った装飾品はほとんどなかった。

 季節の花が色とりどりに咲き乱れる麗しい花園はなく、荒れた庭には得体のしれない草木が伸び放題だ。周囲を鬱蒼とした林が覆っているせいもあって、昼間でも薄暗く、陰鬱な気配が漂っている。

 人の気配がほとんどないのは、皆がここを恐れて近づかないせいである。

 恐ろしい呪術を使う呪妃の下で、侍女や下男は次々に辞めていった。残っているのは、他の妃の宮から追い出されたり罰せられたりした者ばかりで、最低限の人数しかいない。とはいえ、彼らも呪妃の側に近づくことはなく、屋敷の隅で息を潜め、呪妃がいない間を見計らい日々の仕事を済ませていた。

 そこに一人の下僕が加わったのは、十日前のことだった。


 呪妃が気まぐれで助けた、美しい少年である。

 助けたというよりは、色好みの凌宇殿下への嫌がらせで少年を奪い取っただけ。そして奪ったものの、その後のことを呪妃は考えていなかった。

 勝手にどこかで野垂れ死んでくれればよかったが、少年はしつこく呪妃の後を追いかけてきて、ついには後宮にある黒天宮までついてこようとした。

 後宮は王以外の男子禁制であり、少年が入ることはできない。だが、『どうかお側に仕えさせて下さい』と縋る少年に、呪妃は残酷な選択を突き付けた。

 ひとまず姿を眩ます術で少年を黒天宮まで連れて来た後、彼に投げ渡したのは粗末な襦裙だ。


『それを着て常に女として振舞い、私に仕えることができるか?』

『それは……』

『あるいは、宦官になるかだな。それが私に仕える条件だ。……わかっておろう。ここは本来、王以外の男は入れぬ。お前のような者が居る場所ではない』


 呪妃の言葉に少年は目を瞠り、さっと頬に朱を走らせる。

 女装して女として振舞うことも、男の証を斬り落とされることも、どちらもさぞ屈辱的なことだろう。突き付けられた選択に少年は俯いて、乾いた唇を噛みしめた。


 ……これで諦めるだろう。そうしたら、先ほど使った姿消しの術を使ってやって、王宮の外に出してやってもいい。


 王宮を出た後のことは知らないが、気まぐれで手を出した責任くらいは取ってやろうと、呪妃は珍しく寛大に考えていたが――。


『……わかりました。それでは、“女”としてあなたにお仕えいたします』


 顔を上げてきっぱりと答えた少年に、呪妃は再び呆気に取られることになった。




 そうして少年は、今も呪妃の目の前に居る。

 未発達のほっそりとした身体は多少骨ばってはいるが、襦裙を身に付けて髪を二つに結い上げた姿は、元がいいだけに完全に美しい少女に見えた。

 もっとも、年が長じてくればそうもいかない。五年もすれば傾国の美女になるどころか、身体つきが男のものへと代わって、いくら美しくとも女装姿は滑稽に映ることだろう。いっそ強制的に宦官にした方が少年のためであったかもしれない。

 早く諦めて出て行けばいいものを、と他人事のように考えながら、呪妃は少年と顔を合わせる度に皮肉を言っていた。

 それに対し、少年はいつも困ったように眉を下げる。ぐずぐずと泣き出すこともなく、どこか大人びた笑みを幼い顔に浮かべた。


「仕方ありません。呪妃さまが仰られたのですから」


 彼の柔らかな苦笑に傷付いた様子は無く、呪妃の言葉がまったく効いていないようだ。

 終始この調子で恐れる様子を見せない少年は、すっかり呪妃の側仕えとなっている。他の者が呪妃に近づかないせいもあっただろう。呪妃を恩人と思い込んで、その恩を返すべく健気に仕えていた。

 鬱陶しく思う反面、なかなか便利ではあった。

 朝夕の身支度や食事の用意など、少年は甲斐甲斐しく呪妃の身の回りの世話をする。

 元々、身支度はいつも一人で行っていた。後宮に入るまでは身の回りのことは自分でしていたし、何なら人に仕えてもいたから、特に不便と思うことはなかった。

 むしろ、入ったばかりの頃に侍女数人がかりで着替えや化粧をさせられたり、庭を歩くだけなのにまるで行進のように付いて来られたりと、常に側にいられる方が煩わしく思っていたくらいだ。多くの使用人達が去って、残った者も近づいて来ない、一人で過ごす方がいっそ気楽であった。

 とはいえ、少し手を洗いたい時や茶が飲みたくなった時、自分で用意するのは少し手間だ。それを今は少年が率先して行っている。呪妃を恐れる他の使用人達との連絡係のようなこともしており、呪妃よりも彼らに重宝されているようである。

 着々と黒天宮で居場所を作る少年が、机に水差しと盥を置く。どうぞ、と促されて呪妃は溜息をつきながら起き上がり、寝台から降りた。


「おはようございます、呪妃さま」


 改めて挨拶をしてくる少年――小華は、花が綻ぶように微笑んだ。



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