(3)
仕事を終えて帰宅した晩霞は、ジャケットを放り出し、ソファに己の身体を投げ出した。
兄達が奮発して買ってくれた大きめの三人掛けのソファは、ほどよい弾力で晩霞をしっかりと受け止めてくれる。ごろりと仰向けになり、合わせて買ったクッションにもたれかかった。
クッションに入れてある香り袋から漂うのは、ラベンダーの落ち着くフレグランスだ。深呼吸して、留めていた髪を手で雑に梳いてから、ようやく人心地つく。
「あー……疲れたー……」
今日、楚天華が四海奇貨館を訪れたのは、次の企画展の打ち合わせのためであった。
四海グループが収集している文物で、今まで常設展や企画展でも出していなかった秘蔵の物をテーマに合わせて展示するそうだ。
そのテーマは偶然にも、晩霞が大学で研究していたテーマと重なっていた。唐代から宋代への変遷期、五代十国時代の各王朝や国の芸術、文化に焦点を当て、王朝の変遷や地方政権の十国の特色などに沿って展示する、というものらしい。
四海奇貨館では久しぶりの大きな企画だそうで、周館長も林主任も大いに盛り上がっていた。晩霞にとっては初めての企画展だ。
ちなみに、現在展示されているのは『宋代の五大名窯』の陶磁器である。『雨過天青(雨上がりのしっとりと水けを含んだ空の色)』と称される汝窯や、白磁の名窯として知られる定窯など、芸術的で個性的な陶磁器が生み出された時代の陶磁器は、やはり保存状態が素晴らしかった。
こういった見た目ですぐに美しさがわかる芸術的な展示の方が、賓客相手には受けが良さそうなのに、と晩霞は頭の片隅で思う。
五代十国時代は、悠久の歴史を持つこの国において、五十余年ほどの短い時代だ。その前後に繫栄した唐や宋、あるいは近代の文化芸術が成熟した清代に比べれば目立たない。
歴史好きならともかく、目の肥えた賓客のためにわざわざ企画展に取り上げることを不思議に思ったものだ。
とはいえ、オーナーである楚天華が決めたことである。四海奇貨館のメンバーが全員集まり、大まかなスケジュールの組み立てから始まり、展示する文物のリスト作成、展示レイアウトの作成などを誰が担当するか……と会議が開かれることになった。
幸い、今日は見学予定もなく時間は十分にあり、会議自体も緩やかなものであった。慣れているメンバーが談笑しながら役割分担をしていく中、初参加の晩霞はひとまず林主任の補佐役に……となったところで、天華が言った。
『貴女はこの時代の研究をしていたと聞きました。どうでしょう、展示する区画の一つを担当してみませんか? 僕が補佐に入りますので』
天華が言えば、周館長も林主任も『たしかに、ちょうどいい機会ですね』『いい勉強になるからやってみたら』と賛同した。陶も『大丈夫よ、オーナーがついていたら百人力だわ』と背中を押す。
入ったばかりの新人にそんな大仕事と晩霞は内心悲鳴を上げたが、頷くしかなかった。そして、天華はさっそく『レイアウトを確認しましょう』と二階の一画にある企画室まで連れ出し、小一時間ほど過ごすことになった。
楚天華は、実にスマートな青年だ。四海奇貨館を任されているだけあって、知識も豊富で説明も分かりやすく、充実した時間を過ごせたことは間違いない。だが、午後の時間いっぱい、変な緊張が続くことになった。
肉体労働とは異なる疲労が溜まった晩霞は、ふかふかクッションから離れるのを名残惜しみながら身を起こした。ここで迂闊にひと眠りしたら、朝まで寝てしまいそうだ。
手早く化粧を落として、軽くシャワーを浴びて、少しでも気分をさっぱりさせる。ご飯は作る気がしなかったので、ストックしていた亀ゼリーに練乳をかけて食べた。
特別好きなわけではないが「健康にいいから!」と引っ越し時に母が箱入りで置いていったものだから、少しずつ消費しなくては。
ベッドに移動してからも、タブレットで配信ドラマを見る気も起きず、ただ横になる。すぐに眠気がやってきて、頭の芯と身体がずしりと重く感じた。
マットレスに深く沈む感覚に、まずいな、と思う。
――こんな時は、決まって夢見が悪くなるのだ。
そう分かっていても、眠気に抗うことができない。晩霞の意識は、底の見えない沼に引きずり込まれるように沈んでいった。
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