(2)
「あら! 今日もオーナーが来ているみたいね」
陶の弾んだ声に応えるように、運転席のドアが開いて、一人の青年が降りてくる。
緩く癖のある髪に、八頭身のスタイル。今日はばっちりと決まったスーツ姿ではなく、綿パンにカーディガンというシンプルな装いだが、雑誌から抜け出てきたモデルのような佇まいは目を引いた。
彼は四海奇貨館のオーナーこと、楚天華だ。
四海グループの会長一族で、現社長の甥に当たる。まだ役職にはついておらず、今は各部門を回りながら勉強中らしい。
若いながらも博学で、物腰柔らかくて謙虚で真面目で、重役達からは大人気。歴史や美術品に詳しくて話も上手だから四海奇貨館で賓客の接待を任されている、というのは陶からの情報だ。
晩霞が楚天華と出会ったのは、四海奇貨館に来た初日だった。ぜひとも新しく配属される晩霞に挨拶を、とわざわざ足を運んだそうだ。
以来、天華は毎日のように四海奇貨館に顔を出している。
どうやら四海奇貨館に久しぶりに新人が入ったことが嬉しいらしい。周館長や林主任、陶は、天華よりも一回り以上年上だ。天華にとって晩霞は初めてできた年下の部下で、何かと様子を見に来ていた。
にこやかに手を振る天華に、陶は「ああ、目の保養だわ」と噛み締めるように呟く。そういえば以前、ファンタジー時代劇に出てくる推しの国宝級イケメン俳優に似ていると熱く語っていた。
「うふふ、オーナー、ここのところ毎日来られてるわね。晩霞ちゃんが入ったおかげだわ」
「あはは……」
からかう陶に、晩霞は苦笑を返すことしかできない。その間に天華がこちらに向かってくる。
「こんにちは、陶さん、朱さん」
「こんにちは」
「オーナー、こんにちは」
二人で揃って頭を下げると、天華はなぜか笑みを曇らせた。何か粗相でもしたかと晩霞はひやりとするが、天華は遠慮がちに言ってくる。
「朱さん。できれば『オーナー』ではなく、名前で呼んでいただきたいのですが……」
「はい?」
驚いて見上げると、天華はひどく真剣な顔で晩霞を見つめていた。
「皆さんはそう呼んでくれますが、僕はまだ研修中の身で実際には役職についていません。なので、ただの『楚天華』と呼んでもらいたいのです」
「そ、それはさすがに……」
「……駄目でしょうか?」
天華は悲しそうに長い睫毛を伏せる。蜜色の目を潤ませて落ち込む姿は雨に濡れた子犬のようで、きゅーんと切なく鳴く声が聞こえてきそうだ。
う、と言葉を詰まらせる晩霞に、天華はさらに言い募る。
「どうぞ、天華でかまいませんから。親しいものは小楚や小華と呼びますよ」
いや無理でしょう、と晩霞は心のうちで突っ込んだ。
姓に『小』をつけるのはポピュラーな呼び方ではあるが、年齢も立場も上の人に対して呼ぶものではない。名に小をつけて呼ぶのは、よほど親しい間柄でないと無理だ。そもそも、『小華』では、前世の彼と丸被りではないか。
だが、断って天華の機嫌を損ねるわけにもいかず、晩霞は愛想笑いと共に提案する。
「じゃ……じゃあ、『楚先輩』はいかがでしょうか? 私は後輩になるのだし……」
晩霞の案に、天華は不満そうな色を残しながらも「わかりました」と頷いた。
「それでは、あなたのことは何と呼びましょうか。小晩? 小霞?」
打って変わって笑顔でぐいぐいと来る天華に対して、ときめきよりも不審が勝ってしまう。
「……ただの『朱』でお願いします」
晩霞が固い声で答えれば、天華は微笑みを崩さぬまま、しかしちゃんと了承した。引き際は心得ているのが、何だか憎らしい。
「では、小朱と呼びますね。改めて、これからよろしくお願いします、小朱」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
晩霞の緊張に気づくことなく、陶は初々しい若者二人を前に「あらあらまあまあ」とにやついた口元に手を当てた。
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