第二話 四海奇貨館(1)



 研修が終わり、新入社員達の配属先がそれぞれ決まったのは入社して一か月が過ぎた、十一月の初めの頃であった。


 楊彩雅よう・さいがは、希望通りの広報に配属されていた。顔色も以前のように明るくなっていて、悪夢からは解放されたようだ。晩霞と同じグループだった同期の子達も、ほとんどがそれぞれの希望である営業や経理へ決まった。

 もっとも、希望の部に配属されなかった者もいるようで、悔しげに涙目で辞令の紙を見ている。横を通り過ぎようとして、なぜか睨まれてしまった。

 八つ当たりは止めてほしいと思いつつ、晩霞は辞令と共に荷物をまとめ、ひとり四海奇貨館へ向かった。



  ***



 四海奇貨館は、晩霞が借りているマンションに隣接する緑地公園内の奥にあった。

 電車で通勤する必要がなくなり、勤務する部署まで徒歩十五分。

 ……ここまで来ると、さすがに少し出来過ぎた話にも思えてくる。晩霞は、どこか落ち着かなくなるような、奇妙な予感のようなものが胸の奥底でざわざわと蠢くのを感じた。

 だが、もしかしたら最初から、学芸員の資格を持つ晩霞を四海奇貨館に配属することを見越して、このマンションを宛がったのかもしれない。

 通勤が楽になったことに苦情があるわけでもないし、度重なる幸運を素直に受け入れることにした。きっと、今生でようやく、前世の因果を断ち切ることができたのだろう。深い業への償いが終わったのだ。

 晩霞は嫌な予感を打ち消すように、そう自分に言い聞かせた。


 緑地公園の奥、プラタナスの林の小道を辿った先に、四海奇貨館はひっそりと佇んでいる。民国期に建てられたと思われる、レトロモダンな煉瓦造りの三階建ての洋館だ。周囲は高い鉄柵で囲まれており、門は閉じられていた。

 晩霞が近づくと、門に付けられた監視カメラが動き、小さな電子音が鳴って開錠される。

 恐る恐る敷地に入り、アプローチを辿って入口の扉の前に立った。扉の横には『四海奇貨館』と書かれた小さな銅板が目立たないように掛けられている。

 晩霞は、多少の汚れがついても目立たないベージュ色のブラウスに、黒のスリムパンツとジャケットを纏っている。髪は後ろで一つに纏め、メイクも控えめにした。博物館では力仕事も多いから、動きやすい格好の方がいい。

 よし、と一度深呼吸した後、看板の下にあるインターホンを押す。


「朱晩霞です。本日からこちらに配属に……」


 言いかけたところで再び開錠する電子音が聞こえ、艶のある木製の大きな扉を開けて老年の男性が出てきた。胸元に下がったスタッフカードには『四海奇貨館 館長 周徳しゅう・とく』と書いてある。

 白髪交じりの灰色の髪に、眼鏡を掛けた優しげな雰囲気はどこか懐かしく感じる。晩霞のいた研究室の教授と似たような雰囲気だからだろう。


「はじめまして、朱晩霞さん。どうぞこちらに」


 周館長は朗らかに笑い、中へと招く。


「いやあ、あなたが来てくれて助かりました。急に一人辞めることになってしまって……募集を掛ける前に、今年採用の新入社員に、学芸員の資格を持っている子がいると人事から聞きましてね。あなたが大学時代に書いた論文もアーカイブで読ませてもらいました。唐が凋落し、幾つもの王朝と地方政権が乱立したあの時代を、特に地方政権に焦点を当てて綺麗に纏められていましたね。素晴らしかった」

「あ……ありがとうございます、恐縮です」


 優しそうな上司に内心で安堵する晩霞を、周館長はロビーへ案内する。

 美しい大理石が敷かれた広いロビーには、ガラスケースの台が置かれていた。中に収められているのは玉の彫り物だ。

 緑や白、青に紫色の上質の翡翠を、牡丹の花や小鳥をモチーフに精巧に彫り上げたそれらは美しく、見るからに高価なのが分かる。ケースの台に使われている木材も、艶のある赤みがかった色が美しい。紫檀だろうか。

 ロビーに置かれた応接用のソファセットを示され、晩霞は腰を下ろす。

 周館長は入り口近くの受付へと引き返し、大きなバインダーを持ってきた。バインダーには『四海奇貨館』のパンフレットと業務マニュアルが挟まれている。


「すでに人事からこちらの業務内容は聞いていると思いますが、改めて説明を。ここは『奇貨』という名前の通り、四海グループが所有する文物や美術品を収めた、私設の博物館です。近年では、賓客の接待や、関係団体の社会見学などで開放しています」


 この辺りの説明は面談の際にも聞いていたので、晩霞は頷きながら話を聞く。


「業務は博物館とさほど変わりありません。朱さんには、展示物の管理や入れ替え、来客の対応、社会見学用の企画など、前任者が行っていた業務をそのまま引き継いでもらいます」

「はい、わかりました」

「一階と二階が展示室で、三階は保管室になります。二階には企画室があり、企画ごとに展示物を入れ替えます。展示室と保管室に、合わせておよそ五千点の収蔵物がありますが、四海グループの所有する文物は膨大で……実は、私もすべてを把握してはいません。時折、グループの会長一族の方がこちらに収蔵、展示する物の入れ替えに来られるので、その際に新しい者は登録証を作って管理します。登録証のナンバーはすでに一万を超えていますね」

「はあ……すごいですね」


 思わず感嘆の声を上げると、周館長は悪戯っぽく笑む。


「ふふ、数もすごいですが……ああ、これは実際に見た方が早いかもしれませんね。まずは、じっくりと見学して下さい」


 周館長は立ち上がり、受付の奥にある事務室に晩霞の荷物を置かせた後、さっそく展示室に向かった。重厚な赤いビロード張りの扉を開きながら、晩霞に言う。


「では、あらためて。朱晩霞さん、ようこそ『四海奇貨館』へ」





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