(5)


 麗城市の高層ビル群の中に、四海グループの本社がある。朝日を受けて煌びやかに輝くビルに入るのに最初は緊張したが、一か月も経てばだいぶ慣れた。

 駅の売店で買ったペットボトルを手にしながら、晩霞は社員用のエレベーターホールに向かう。手前の改札機に社員証をかざし、守衛に挨拶しながら通った。ちなみに、ビルの一階から七階までは飲食店やアパレル店、雑貨屋が入っていて、一般の人でも利用できる。スポーツジムや外国語教室も入っており、終業後に通う社員も多かった。

 エレベーターホールには、社員達がそれぞれの部署のフロアに行く機の前で列を作っている。研修で見知った顔がちらほらとある中、晩霞が並ぼうとした列の最後尾にいた女性が振り向き、にこりと笑った。


「おはよう、朱さん」


 顔立ちのはっきりした美人でスタイルの良い彼女は楊彩雅よう・さいがといい、晩霞と同じく新入社員だ。

 研修では違うグループではあるが、彼女は新入社員の中で一目置かれていた。美人なこともあるが、はきはきとした明るい性格でリーダーシップがあり、すぐに皆の中心人物となっていたのだ。人気のある社外広報部を志望しているそうで、彼女なら余裕で配属されるだろう。当たり障りない程度の人付き合いしかしていない晩霞にも、こうして気負いなく挨拶してくれる。


「おは――」


 挨拶を返そうとした晩霞だったが、ふと動きを止めた。彩雅が肩にかけたバッグから、黒いもやが滲み出ていたからだ。


「朱さん? どうしたの?」

「あ……ええと、少し寝不足で、欠伸が出そうになっちゃって」


 口元を片手で押さえながら何とか誤魔化して、彩雅の後ろに並ぶ。彩雅は「そう? 実は私も寝不足なの」と苦笑した。


「最近、変な夢ばかり見ちゃって……」

「夢?」

「眠っていると胸の上に誰かが乗って、何かずーっとぶつぶつ言ってるのよ。そのせいで、何だか疲れが取れない感じで……おかしいわよね、ただの夢なのに。あっ、実は潜在意識でプレッシャーがかかっているのかしら?」


 おどけたように言うものの、彩雅の綺麗に化粧がされた白い顔の中、目の下には隠しきれなかった隈の名残りがある。彩雅の笑顔にも、いつもの溌溂さの中に翳りが見えた。

 話している間に順番が来て、二人ともエレベーターに乗り込んだ。

 エレベーター内では他の社員もいるため、何となく無言になる。その間、晩霞はちらりと彩雅のバッグを見た。

 二十代の若い女性に人気のブランドの、シンプルな白い革のバッグ。収納ポケットが多く、荷物の整理がしやすいとネットで見たことがある。目を凝らせば、その外ポケットの一つの底の部分が、墨を零したように滲んでいた。


(……あそこか)


 いつもなら、見て見ぬふりをするが――。


 晩霞は、バッグと一緒に抱えていたペットボトルの蓋をこっそり緩ませた。エレベーターが目的の階に到着する。

 扉が開き、皆がぞろぞろと出ようとした時だ。


「あっ」


 後ろの人に押されたように、晩霞はよろめく。

 その衝撃でペットボトルの蓋が外れ、満水だったため勢いよく中身が零れ出る。ばしゃりと水がかかった先は、彩雅のバッグだった。透明な飛沫が、彼女のブラウスの袖とバッグを盛大に濡らす。


「きゃあ!?」

「ごっ、ごめんなさい!」


 晩霞は急いでハンカチを取り出して、彩雅の濡れた袖を拭いた。


「本当にごめんなさい、その、私……」

「大丈夫よ、ちょっとかかっただけみたいだし」


 彩雅は言うが、強張った笑顔には少しだけ怒りが見える。

 それはそうだ。朝っぱらからバッグと服を濡らしてしまったのだから。買っていたのがミネラルウォーターでまだよかった。コーヒーやジュースだったら大惨事だ。

 エレベーターから降りる社員の邪魔にならないよう、二人はフロアの隅に寄った。バッグの中も濡れているかもしれない、と晩霞がハンカチを渡すと、彩雅は水のかかった外ポケットを探る。ふと、その眉間に皺が寄った。

 外ポケットから引き出されたのは、赤い小さなお守り袋だ。


「……何、これ?」

「楊さんのじゃないの?」

「違うわ。……やだ、何か気持ち悪い」


 自分で入れた覚えのないお守りが入っていれば、確かに気味が悪いだろう。

 彩雅はハンカチで袋を摘まんで遠ざける。晩霞はすかさず、ハンカチごとそれを受け取った。


「じゃあ、ついでに捨てとくよ」

「あ……ああ、うん、ありがとう」

「ううん。バッグ濡らしてしまってごめんなさい」

「もういいわよ」


 謝る晩霞を残して、彩雅は研修室へ向かおうと身を翻す。ちょうど到着した別のエレベーターから降りてきた、彩雅と同じグループの仲の良い新入社員が彼女に話しかけた。「どうしたの?」「もう、朝から災難よ」と遠ざかる彼女達の会話が聞こえてくる。

 残された晩霞は、ほっと小さく息を吐いた。

 ハンカチの上にある赤いお守り袋からは、より濃い、黒い靄が滲み出ている。これが彩雅の悪夢の原因であることは間違いなかった。

 中に入っているのは髪か、爪か。はたまた血文字の呪いの札か。

 美人で明るくて才能のある楊彩雅。彼女に憧れる者もいれば、羨む者もいるし、妬む者もいる。その中の誰かが、負の気持ちを抱くだけでなく、彼女に悪いことが起きるように願い、実行した。

 犯人も動機も知りたくもないので、晩霞はハンカチにしっかりと包んだそれを、ゴミ箱へと放り込んだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る