(4)


 準備を終えて部屋を出た晩霞は、最寄り駅に向かった。

 晩霞が住むのは、駅近の高層マンションで、新入社員が暮らすにはかなり良い、いや、良過ぎる物件だ。四海グループが所有しているため、社員に格安で貸し出されているらしい。

 新入社員は本来、会社から徒歩圏内にある物件を貸し出されるが、ちょうど空きがなく、晩霞は会社から五駅離れたマンションを宛がわれた。

 会社からの距離はあるものの、スーパーやコンビニ、商店街が近くて買い物に便利なうえ、広大な緑地公園が隣接する優良物件。初めてここを訪れた時、本当にここでいいのか何度も確認したくらいだ。引っ越しの手伝いに来た家族は、「さすが四海グループ」と妙な感心をしていた。

 現在、晩霞は実家から離れて一人暮らししている。四海グループの本社があるのは麗城れいじょう市。首都から高速電車で三時間ほどの距離で、鉄道路線が多く、幹線道路も複数ある。

 もともと洛陽や開封に次ぐ古都として知られており、かつては王朝の都が置かれたこともあったそうだ。歴史ある街並みが広がる一方で、交通の利便性から都市開発が進み、近未来を思わせる高層ビルやモダンなデザインのマンションが次々に建設されていた。近頃では、郊外の旧地区の古い建物をリノベーションして、カフェや雑貨屋などを開く若者も増えているようだ。

 晩霞の実家は首都近郊の街にあり、さすがに通勤は難しかったので麗城市に引っ越した。大学は実家から通っていたので、今回が初めての一人暮らしだったが、利便性の高い環境で何とかやっていけそうだ。


 慣れてきた路を歩いて駅まで行き、朝の通勤ラッシュで混む電車にぎりぎりで乗り込んだ。ドアを背にして手摺に掴まり、他の乗客と同じようにスマホを取り出して眺める。

 昨日読んでいた電子小説の続きを、とスワイプしていた時だった。


 ――バンッ!


 動き始めた電車のドアに、何かが激しくぶつかる音がした。


「っ……」


 晩霞はわずかに肩を震わせただけで、そのままスマホの画面を見続ける。他の乗客達もまた、何もなかったようにスマホを見ていた。

 いや、違う。彼らは気づいていないだけだ。


「……」


 スマホの暗い画面に反射して映るのは、窓一面にべっとりとついた黒っぽい液体と、何かの塊。

 塊の一つから伸びる細いものが曲げられて、かり、かり、と窓を引っ掻いている。その塊が手首で、細いものが千切れかけの指であることに気づいた晩霞は、こみ上げた吐き気を深呼吸で押さえ込んだ。


 ――三か月前、この駅で高速電車に飛び込んだ者がいるそうだ。その際、衝突で千切れた身体の破片はホームや向かいの電車に飛び散り、それは惨い状態だったらしい。


 窓に貼り付いた手は、しつこく窓を引っ掻いている。こちらに気づいてほしいと言うように動く指を、晩霞は無視し続けた。

 アプリを開いたり閉じたりしているうちに、いつの間にか塊も液体も消え去り、スマホの画面にはいつも通り流れる街の風景が戻っている。

 ほっと息を吐き出し、混雑した電車の中で体勢を直すふりをしながら、窓の方を見やる。


(次からはこの車両を避けよう)


 でないと、またアレを見てしまう。

 晩霞が悩んでいるのは、前世の記憶や夢だけではない。

 前世で呪妃が持っていた力は、今の晩霞にも引き継がれていた。と言っても、当時の呪妃が持っていた強大な呪力や呪具があるわけではない。あの頃は修行したり幾つも蠱毒を作ったりしていたが、現代でそんなことができるはずもない。

 ただ、普通の人間には見えないものが時折見えてしまう。それは、いわゆる霊の類や人間が纏うオーラのようなものだったり、その場に残った怨念や思念だったりと、よくないものだ。

 見ることしかできないため、晩霞はできるだけ関わらないようにしていた。呪妃のような力があれば、それらを取り込むか祓うかできるだろうが、今は無理だ。霊も怨念も呪いも、もう関わりたくない。


 現代で呪いなんて、と皆が聞けば笑うだろう。


 だが、昔も今も、割と身近にあることを晩霞はよく知っていた。


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