最終話 王子の願い
「が、ァ、っリリー……!!」
王子が制止の声を上げた瞬間には既に、リリーは迷わず階下へと飛び込んでいた。
屋根を駆けていく足音が、やけに耳に響く。
駆けるリリーの強く引いた剣が、一息に魔女の胸に突き立てられる。同じくして光る魔女の手のひらが、彼女に強い呪いを浴びせた。途端、ペンダントが浮かび上がって眩い光を放つ。白く光る視界の向こうにリリーが見たのは、屋根の上を転がっていく魔女の姿だった。
彼女はペンダントを強く握り締めた。光が治まると、それはまるで役目を終えたかのように色が抜けていた。
屋根の淵で倒れている魔女の前に立ちはだかり、胸を押さえていた彼女の喉元へ剣を突き付ける。すぐ側の瓦が、ガラガラと音を立てて遠い地上へ滑り落ちていった。
「動くな。お前にはまだ聞きたいことがある」
リリーは鋭い眼差しでその姿を見下げた。剣先で、唇を噛み締める魔女のフードを持ち上げる。ぱさりと乾いた音を立てて、フードが背中へ落ちる。しかしその下に隠れていた顔は、まったく見覚えのないものだった。
「……何者だ? どこの国から来た」
「ハッ、その傲慢な物言い……お前は本当にトアテアに似ている……」
「質問にだけ答えろ」
リリーが彼女の顎を剣で持ち上げると、彼女は憎悪の目を向けた。笑顔に歪んだ口元がもごもごと動いたのと、リリーが咄嗟にその体を後ろへ突き落したのは、ほぼ同時であった。
落ちる体と、空中に伸ばされた手だけが残像のようにリリーの視界に残った。
そして
「……ハッ……殿下……!」
彼女はその場に剣を落とし、呻く王子に駆け寄った。毛むくじゃらの頬に手を添える。毒の苦しみで乱れていた呼吸は、あの魔女が死んだ証拠なのか少しずつ落ち着き始めている。
「殿下……フィリップ殿下……!」
「り、リリー……来て、くれた、……どう、して」
彼女の頬に、大きな手が触れた。鋭い爪が髪を梳く。彼女は大粒の涙を零し、王子の首元へ抱き着いた。
「殿下……っ、私は……、私、っ」
「いい、よ……なにも……言わないで……。君が来て、くれただけで……僕を、救ってくれただけで……充分……」
「そんなことっ……! 殿下、私はずっと、あなたのことを愛していたのに……!」
彼女は泣き縋り、王子の鼻先に唇を寄せた。
彼の手が彼女の体へ回ったその瞬間、王子の心臓から激しい光が射す。
目を開けていられないほどの強い光が王子を包み、思わず下がったリリーが腕を翳す。光が徐々に弱まって再び目を開けた時、人に戻った王子の全身からは、霧のような無数の黒い粒子が噴き出していた。
――呪いが全て消えてしまうと、気絶した王子の体がゆっくりと横へ倒れた。慌ててリリーが支える。マントで体を包み、どうやって彼を塔へ連れ戻そうかと考えあぐねていると、塔の窓から声が聞こえた。
「リリーお嬢様ぁ~~!! ただいま参りますよぉー!!」
鎧を脱ぎ捨ててすっかり身軽になった近衛騎士が、ととと、と屋根を伝ってやって来る。王子を横抱きにした彼と、よろよろと立ち上がったリリーは、そのまま塔へと戻るのだった。
***
あの魔女にやられた見張りの者たちも、彼女が死ぬとすっかり呪いは消え去った。彼らによれば、死後も残るような呪いというのはかけるのにも相応の時間がかかるのだとか。顔を見るなりすぐに攻撃された彼らは、薄れゆく意識の中で、リリーの足音を聞いて安堵したのだと言った。
そして解呪の反動からかいまだ目覚めない王子は、彼の寝室にて安らかに眠っている。傍らに控えたリリーは魔力を失ったペンダントと共に、王子の手を握り締めながら回復を待っていた。
そこへ、静かに寝室の扉が開く。
「リリー、大手柄ですね」
いつも通りゆったりとした足取りで入室した王妃は、慌てて立ち上がろうとする彼女を手で制し、穏やかな面持ちで王子の寝顔を眺めた。
「
泣きそうな笑顔を浮かべた王妃は、そう言って彼女に頭を下げた。
「それから……ごめんなさい。国王があなたに言ったこと、私も聞きました。彼は……ロナウド王は、あなたを焚きつけることで、あなたに自分自身の本心を知って欲しかっただけなのです。本当にごめんなさい。今夜、あなたは来ないかもしれないと心配していたのですが……来てくれて本当に良かった……」
安堵して俯く王妃に、リリーは一度王子の手を離して彼女と向き合った。
「国王陛下のお言葉は……どれも確信をついておりました。陛下がああ仰って下さらなければ、私は今もまだ、殿下への想いに気づかずにいたでしょう」
「そうね……フィリップの呪いが解けたということは、リリー。あなたも彼を愛してくれていたのね」
真正面からそう告げられて、リリーは少し頬を染めた。しかし、はっきりと頷く。
「はい。……その、あの八年前の夜以来、殿下からは避けられていましたから……。ですから、遠くから見守ることを決めたのです。殿下は私を見ると、とても苦しそうにするので」
「ふふふ……それはねリリー、恋の苦しみというものなのです。ふふ、フィリップは幼き頃、あなたを
「……なりました。殿下が死んでしまうと聞いて、私まで死んでしまいそうで……」
「愛する者を失う苦しみこそが、恋の苦しみなのです。うふふ、二人の結婚式はいつにしようかしらね。ロナウドも喜ぶわ」
そう言って、王妃は再び夫婦の寝室へと戻っていった。なんでも、国王も呪いが消えた影響で気を失っているらしく、元々
再び二人だけになった部屋で、彼女はもう一度王子の手を握る。そしてふかふかのシーツに頭を伏せて、疲労困憊の体を少しばかり休めるのであった。
***
「……リリー……、僕のリリー……」
優しく頬を撫でる感触に彼女がゆっくりと目蓋を持ち上げると、目の前には頬をバラ色に染めて美しく微笑む王子がいた。
「お、起きていたのですか! お怪我はっ、」
「落ち着いて。僕はもう大丈夫だよ」
彼の言葉は本当のようで、周囲では使用人たちが遠慮なしに慌ただしく動き回っていた。リリーの反対側に立つ魔術師は王子の腕を離して、「魔力は既に回復し始めております」と告げた。
「魔力……っそうだ、あのペンダント! 殿下、あれはまさか殿下がご自分で呪文を?」
「うん……僕が死んでもリリーを守れるように、しっかり願いを込めたんだ。ふふっ、もしかして解析した? 少し恥ずかしいな……でも、あれが一番リリーの為になると思ったんだ」
あの日、リリーが宝石の中に見た呪文はこんなものだった。
『 最愛の君へ 僕の魂をここへ刻む 』
縦横無尽に漂う星の粒子たちに刻まれた呪文は、言葉にすれば短いが、それこそ命のすべてを必要とするほど膨大な魔力が込められていた。彼女はいまだ繋がれている王子の手を額に当てて、感謝の言葉を述べる。
「殿下のお気持ちがなければ私はここにはいなかった……本当にありがとうございます」
「いいんだ、君があれを付けてくれて嬉しかったよ。……それに安心した」
二人は握り合った手に顔を寄せる。互いの無事にどちらともなく笑顔が零れる。
そうして笑い合う彼らへ、眩しい朝日が燦々と降り注いでいた。
***
さてロナウド国王が目を覚ましたのは、その日のまだ明るいうちのことであった。
彼はリリーへの謝罪を述べると二人を心から祝福し、また、御見舞いに駆け付けたベルやソニアも心の底から二人の無事と幸福を祝った。
王子はその後、リリーの側を離れたくないと散々駄々を捏ねて彼女と夕食を共にした。
バラモア家からロイドとセヴァが迎えに来た時には自分も着いて行くとまで言い出した彼であったが、国王と王妃に咎められると、渋々次に会う予定を取りつけて引き下がるほど情熱的であった。
ロイドは帰りの馬車の中で、毒の魔女が口走ったという『トアテア』の名を聞いてやや眉を顰めたが、それ以上の反応は見せなかった。勿論リリーは食い下がったが、目下の問題を片付けるのが先だと言い包められてその話は終わった。
今、国王や三柱貴族らが直面している目下の問題――。
それは毒の魔女の身元を割る為、見るも無残な遺体を修復できるか試すことであったり、当初の調査目的であった魔獣の脅威――つまり毒の魔女の脅威――が去ったことで閉鎖していた学校を再開させる手続きであったり、リリーとフィリップ王子の婚約発表について話し合ったり、である。
遺体の修復は魔術と医療に明るいフィンガル家が、学校については元々多大な出資していたベルセリア家が請け負い、バラモア家は礼拝堂などから毒の魔女の痕跡を辿り各所へ暗躍している。
そして、リリーとフィリップは――
「リリー、指を出して」
「指? どうぞ」
王城の温室のサロンにて、リリーはフィリップへ手を差し出した。
彼は顔を綻ばせながらそれに触れ、ゆっくりと薬指を撫でる。
「次の休みにでも、指輪を見に行こう?」
「いけませんよ、剣を振るっている時に無くしてしまったら大変ですから……」
「そんな……それじゃあ、指輪は結婚するまでとっておこうか。でも、何か他の贈り物をさせて」
王子は彼女の手を愛おしげに撫でながら、指先に軽くキスをした。
「心配なんだ。直に学校も再開するから、変な虫がつかないように対策しておかないと」
「大丈夫ですよ。殿下との婚約を公表した今、下手にちょっかいを出す者などいないでしょう」
「でもベルナール帝国からの留学生も来るんだよ? あんまり仲良くし過ぎないでね」
「え、あの国からですか?」
リリーはつい、興味深げに身を乗り出した。
ベルナール帝国といえば、我が国が積極的に国交している隣国である。不安げに眉を寄せた王子を後目に、リリーはそわそわと漏れ出そうになる好奇心を隠す。
「あーっ目が離せない……! だって彼に会ったらリリーが何をするか、僕にはすぐ分かる! 心配だ……リリーは隙が多いから……っ!」
頭を掻き乱して伏せる彼に、リリーは呆れがちにその手を引き寄せた。
「殿下、ちょっとは私を信用してください」
「うぅ……っ、でもまあ……う、浮気も心配だけど……やっぱり魔女に狙われないかが一番心配だよ。あの日僕たちを襲った魔女は、僕に呪いをかけた人とは違うそうだから。……だから、これを受け取って」
彼がポケットから取り出したのは、一度力を失ったはずのあのペンダントであった。しかし飾られている石の色は、再び美しいスカイブルーに輝いている。
「ま、まさかまたあの呪文を? 魔力が戻ったとはいえ、まだ力が安定してないとあんなに言われたではありませんか……!」
「大丈夫大丈夫、体調に影響がないように、今度はもっとゆっくりじっくり、沢山の呪文を唱えたんだ。リリーのことを思って沢山、ね?」
陽光を受けて輝く金髪を揺らした王子は、そう言って幸せそうに瞳を細めるのであった。
ベラドンナの娘 郡楽 @ariyama
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