第17話 最後の夜

 王子の命が呪いによって尽きてしまうなんて、彼がいなくなるだなんて思いもしなかった。


 リリーは馬車の中で窓に頭を預け、手の中のペンダントをぼんやりと眺める。


「……」


 暫く、向かい合う親子の無言の時間が続く。


 だがリリーの頬に涙が一筋落ちると、ロイドは堪え切れず、彼女の小さく震える手を握った。


「……リリー……考えすぎるな」

「お父様……」


 普段は敬愛する兄を真似て『父上』などと自分を呼ぶ彼女が、幼少に戻ったように不安げに零した言葉に、ロイドは一抹の不安を覚えた。彼女がここ最近弱っていることは彼も無論知っている。


「私が、もっと早くに王子を愛していたら、こんなことには……」

「今までは愛していなかったのか?」

「いえ……ですが、だって……ずっと、嫌われていたと……思って」


 去り際の王子の、あのすべてを諦めた顔が脳裏にこびりつく。


 今更、どうして王子に愛を伝えられるだろう。何を言ったってもう本気に思われることはない。彼を死なせたくないが故の嘘だと、そう思われてしまうだろう。


 リリーはあと数ヶ月のうちに王子の命が燃え尽きてしまうことの重さに、とても耐えられなかった。それだけではない。国王まで居なくなってしまったら、この国は一体どうなるのか。多くの人々が支え、作り上げてきたこの国は一体……。


 彼女は後悔と混乱の淵でぽつりと、「重い……」と零した。


***


 馬車がバラモア邸に滑り込み、屋敷に残っていたセヴァは魂の抜けたリリーを見て、いつかのデート後のように彼女を横抱きにして寝室まで運んだ。


 椅子に座らせた彼女のドレスを、侍女たちが数人がかりで脱がしていく。


 その間にセヴァは香りの良いお茶を用意したが、リリーは一口も口をつけなかった。


「少しでも飲まなければ」

「飲みたくない……」


 ベッドに入り、背中を大きな枕に預けた彼女は、ずっと握り締めて離さなかったペンダントを、ただじっと見つめていた。手のひらに強力な魔力が伝わる。それこそ、王子の魂がそのまま入っているような。


 美しいスカイブルー、王子の瞳がそのままここにあるようだ。透き通って輝く、清廉な青色。


 リリーは声も上げずに、胸の苦しみに泣いた。王子が今までどんな覚悟で生きてきたのか、どんな思いで自分と会っていたのか、それを考えるだけで今にも胸が張り裂けて、死んでしまいそうだった。


「お願い……一人にして」


 大粒の涙を零し、セヴァへ静かに懇願するリリーの姿は間違いなく、愛の痛みを知った大人の女性であった。


 初めて恋の苦しみを知った彼女に何があったか、セヴァはリリー本人からもロイドからも聞かされていない。だがその悲痛な姿を見て、追及する気にも到底なれない。


「何かありましたら、すぐに呼び鈴を鳴らしてください」


 彼がそう告げて一旦下がり、部屋の中にはリリーだけが残った。


 彼女は膝に顔を埋め、一頻ひとしきり泣いた。顔を上げた頃にはすっかり日も陰っていて、泣き疲れて呆然としていると、少ししてセヴァが入ってきた。


「お嬢様、ご夕食の支度ができました。シチューでございます」


 何も言わずとも部屋に運ばれたそれは、まだ湯気を立てていて、まろやかな香りがリリーの鼻孔を擽った。膝にトレーが置かれ、セヴァがスプーンをシチューへ浸す。


「いい……セヴァ。自分でやる」


 彼女の言葉に、セヴァは一瞬動きを止めた。しかし力ない手に静かにスプーンを握らせると、黙って側に待機する。


 リリーはいまだ茫然としつつも、不思議と頭が冷静になりつつあるのを感じていた。


「……どれだけ悲しくてもお腹は空くんだな」

「そうですね」

「セヴァ……次の紅月まではあと五ヶ月か?」

「え? ええ、そうですよ。お嬢様が成人なさる時も近いですね」


 リリーは片手の中のペンダントを見る。


 考えることに疲れて目を閉じると、幼き王子の怯えた顔が脳裏に浮かんだ。だがあの人は恐怖を越えて、それでも自分を好きだと言ってくれた。リリーは、今度は自分の番だと強く思った。


 その夜は、まだしっかりと動いてくれない頭を休めるためにも早く就寝した。


 次の日はバーナバスから二度目の礼拝堂調査について話されたが、今の自分では足手まといになるからとそれを断った。そして部屋に篭って、魔道具を装着してペンダントにかかった呪文の解読に没頭した。満月は翌々日に控えている。


 王族は代々髪の色素が薄いため、王子や国王にも多大な魔力があるのだろう、とは、リリーも常々思っていた。


 内包する魔力の強さは髪の色に現れる。バーナバスのような銀髪が最も魔力が高いのだと、本人が言っていた。だが、彼はあえて魔術を学ばなかったとも聞いている。


 片目に大仰な装置を掛けたリリーは、スコープの向こうに、輝くスカイブルーの粒子を観察した。それは無重力空間に無数の星の砂粒が浮かんでいるような光景で、石の内側で魔法の粒子がぶつかり合っては光を飛ばし、互いを弾き、パチパチと動き続けている。


「美しい……なんの呪文をかけたのだろう」


 リリーはその日からずっと、食事といえば簡単なスープやパン、そして多少の果物を取るだけで、それ以外の時間をすべてペンダントの解析に費やした。


 そして二日後の午後、やっと呪文を読み解いた彼女はすべてを打ち捨てて立ち上がった。だが同時に――大勢の侍女やメイドたちが、次々と部屋になだれ込んできた。


「お嬢様っ、今夜は満月でございます! さあ食事を取って精をつけ、そしてお風呂にお入りください!」

「ダメだっ、今すぐ王城に向かう! セヴァはどこへ行った!?」

「お嬢様……私はここですよ」


 浴室から顔を覗かせたセヴァの奥からは、轟々と水の流れる音がする。


「そんなことしている場合か! 今すぐ城に行きたいんだ、馬を、」

「それならば、まずは相応の支度をなさってください」


 夜になれば会えるのだから、と彼女を浴室まで引っ張ったセヴァは、目を見張る早業で夜着を剥ぎとり、バスタブへと浸からせる。すかさず侍女が寄り、彼女の四肢を磨いた。


「今日は剣が振れる格好で行くぞ」

「ええ分かっておりますよ。しかしその分、お肌はしっかり磨きましょうね」


 黒い髪を丁寧に泡立たせ、迅速かつ丁寧に全身を磨く侍女たちに、こんなに早く動けたのかとリリーは少し感心する。


 食事を取り、着慣れたシャツに男物のキュロットと靴下、ブーツというお馴染みの格好をした彼女は、剣を腰のベルトに差して部屋を飛び出した。


「おお! 殿下に会いに行くんだな!」


 ちょうど執務室から出て来たロイドが、数日振りのリリーの姿を見て慌てて足を止めた。


「勿論です、父上! あの方は私を待ってくださいました、待たせすぎてしまったほどに……ですから、今夜は徹底的に話し合うつもりなのです」


 そう言って剣の柄を握る彼女に、ロイドは唾を呑み込んで何をするつもりだと心配したものの、愛娘を信じて何も言わず見送ることにした。


 馬の用意が出来たと声がかけられると、彼女はマントをはためかせ、二人の近衛騎士と共に、王城へ馬を走らせるのだった。


***


 長い長い石の階段が、その日は余計にじれったく感じられた。


 リリーは足に絡みそうになる剣を押さえながら、必死に螺旋階段を駆け上る。


 辺りは既に暗く、空には雲に紛れて月が辺りを薄く照らしている。


「あれ……? 今日は王子の声が聞こえませんね……」


 重い鎧の所為でヒーヒーと息を切らしながら彼女について走っていた騎士が、不意に上階へ耳を澄ませてそう言った。確かに、そろそろ王子の咆哮が聞こえてもいい筈だ。


 彼女は不穏な予感に急き立てられて残りの階段を一気に上る。


 そして見えた光景に、思わず叫んだ。


「誰がこんなことを……!!」


 見張りに立っている筈の魔術師たちが、腹から血を流して呻いている。皮膚を食い破ったような青黒く丸い傷口は、つい最近にもバラモア邸の騎士宿舎で見たことがある。


「急いで城の衛兵を呼べ!」


 やっと階段を上り切った騎士たちは、その指示を聞いて転げ落ちるように下っていった。


 リリーは剣を抜き、王子の部屋の扉に触れて慄いた。鍵が掛かっていない。もしも城内や町に向かってしまったら――。


 そんな恐怖を握り潰し、意を決して扉を開く。


 バンッ! と音を立てて入ったが、しかしそこには静寂だけが広がっていた。


 正面の窓の、切り裂かれたカーテンが風に揺れている。彼女はハッとして窓に近づく。割れたガラスの向こう、広い王城の屋根の上に、一匹の影が見えた。


「殿下!!」


 リリーは窓枠に足を掛け、外の縁に爪先をかけた。


 下に目をやると、暗く吸い込まれそうな奈落に木枯らしが吹き荒んでいる。彼女は慌てて顔を上げた。見るのはただ一つ、王子だけでいい。


 慎重に、しかし急いで縁を渡って、渡り廊下の屋根の上に飛び移る。


 その間にも、王子は遠吠えと共に更に奥へと進んでいく。


「待ってください! 殿下!」


 叫んだ声は、強風に呑み込まれてしまい届かなかった。不安定な足元を確かめながら走る。


 壁をよじ登って屋根に立ち、王子が消えた方を見て彼女はやっと、自分が追っていたのが彼だけでないことに気づいた。


「で、殿下……?」

「ガァ、グゥルルルル……!」

「ハハハハハ! それで威嚇のつもりか? 哀れな王子よ……」


 王子と相対するように立っていたその者は、魔術師の外套を纏い、フードで顔を隠していた。背丈では分からないが、少なくとも声は女性のものである。


 彼女は、リリーにも気づいているようだった。


 振り向いた彼女と視線が交わると、王子もつられるようにリリーの方を向く。


「忌々しいバラモアめ……やはりもっと早く始末するべきだった」


 魔女の手のひらがリリーに向けられた。


 揺れるフードの下の口角は不敵に吊り上がっている。口内で素早く呪文を唱えた彼女の腕に牙を剥き出した王子が飛び掛かったが、次の瞬間には、王子は魔女の足元にうずくまっていた。


「ハハハ……毒を食らって尚立ち上がるとは流石、王の血統は伊達じゃないな」

「ぐ……ガァ……ッ」


 体を押さえてのたうち回る王子は、魔女を仰ぎ見た。剥き出しの牙が怒りに震えていたが、伸ばした手が彼女に届くことはなかった。


「死にぞこないの獣に用はない……リリー・バラモア、私が殺したいのは貴様だ」


 その言葉に、リリーは剣を構えた。だが切っ先の鈍い剣に、魔女は嘲笑を響かせる。


「ただの鉄の棒で何ができるのか」と馬鹿にするその言葉は尤もだった。


 しかしリリーは洋瓦を踏みしめると、一足飛びに魔女へと駆け出す。


「馬鹿め!」


 待ち受けた魔女が素早く呪文を唱えた。間近に迫ったリリーが光を放ちかけた手のひらを横へ薙ぎ払う。すかさず足元を掬うと魔女の体が転がる。リリーは迷わず、その上に剣を突き立てた。


 ガチン! と剣先が瓦を突いて、手には痺れだけが伝わった。


 間一髪で逃げた魔女が再び呪文を唱える。だが次に動いたのは、呻き苦しんでいた王子だった。


 大きな獣に飛び掛かられた魔女は、受け止めきれず二人で屋根を転げ落ちる。


「殿下!」


 慌てて下を覗き込む。二人は屋根の上で揉み合っていた。だが怒り狂う王子の振り上げた腕に、魔女の手から飛び出した毒蛇が絡みついて、毒の滴る牙を立てた。


「あの蛇は……やはり……!」


 屋根の上のリリーを見上げて、魔女が笑った。


「この王子はもう長くない……まさかお前たちが結ばれるとは思わなかったが、なんとか間に合ったようで良かった」


 そう言った魔女は、再びリリーへと手を翳した。

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