第16話 『一人で恋に落ちさせないで』
タラント王家の長男・フィリップ王子は今、とある書物にはまっていた。
それは最近女子を騒がせている甘く切ないロマンス小説、『一人で恋に落ちさせないで』、通称『ひと恋』。
幼い頃に将来を誓い合った姫と公爵家の話で、大雑把にいえば成長した姫が停戦協定を結ぶことになった隣国の王子と政略結婚を決められてしまうという、なんとも切ない物語である。
誌的な言い回しが多く、リリーを口説く際に参考になるかも、とベルに薦められたことで、王子はまんまとファンになったのだった。
「あ~っ、リリーが『メル姫』みたいに、優しく愛を囁いてくれたらなぁっ」
「……メル姫、とは?」
「ぎゃっ!?」
寝室の扉を開けっ放しにして本を抱き締めていた王子は、その入り口に立っているリリーを見て猫のように跳び上がった。慌てて口を押さえても、時すでに遅し。少し呆れた表情の彼女は、王子の手の中のそれを見つめて、ベルから薦められたのかと尋ねた。
「あっ、あぁ、うん! あでも、別にベル嬢と何かあるって訳じゃ、」
「分かっていますよ。私も彼女から同じ本を勧められたのです。……あらすじだけでお腹いっぱいで、まだ本編は読んでいませんが」
大体、近頃はそんな暇もなかった。
今日だって、礼拝堂に潜む魔術師の件で父と共に登城したのである。
とはいえ、ある程度話が込み入ってくると『ここから先は大人の話だ』と言わんばかりに部屋を追い出されてしまったので、仕方なしに王城を散策していた……というよりも、王子を探していた。
バーナバスの件の礼は勿論、二回目の満月の夜でも何度か王子に剣を向けてしまったため、痣が残っていないかを確かめたかった。
彼女がそう告げると、王子は美しい笑顔を浮かべて、痣はまったく問題ないと言った。
「寧ろ、も、もっとつけてほしいよ!」
「え」
「だって、リ、リリーから貰ったものはなんだって嬉しいから……!」
「あの、怪我は『貰った』とは言わないのでは?」
室内へ手招かれ、豪華なソファーに腰を下ろした彼女は、困惑ながらにそう告げる。
扉はわざと開けっ放しにしていた。万が一にも王子と二人っきりになったなどの噂を立たせるのは、彼の名誉にも関わると思ったからだ。
「き、君にも是非読んでみてほしいよ。メル姫……メルフィール姫は、ちょっとリリーに似ているところがあると思うんだ」
「……私に?」
「ま、まず、彼女は魔法の名手だけど、リリーは剣に優れてるだろう? 何かに優れている点では同じだ。僕だって剣の訓練はしてるけど、リリーと手合わせをしたら、もしかしたら負けてしまうかも。あとは……リリーは、ほら、意外と恥ずかしがり屋だったりするし……」
「はっ、恥ずかしがり屋!?」
「顔、真っ赤にさせること、結構多いよね?」
そんな顔をさせるのは誰だ!? と、リリーは内心で叫んだ。
彼女が、「殿下があまりにも積極的なものですから」と不敬にならない程度に彼を責めると、彼は何故か、かえって表情を華やがせる。
「わっ、分かってる! そうだよね。僕だけがリリーをああさせられるんだ……リリーは僕以外の奴と、あ、あんなことしないんだって……そういうことだよね? あの顔は、僕だけに見せる顔なんだよね?」
「なにか、物凄い勢いで話が食い違っている気がしますね……まぁとにかく、バーナバスの件で、魔術師を手配してくださったのだと聞きました。本当にありがとうございます。……それに、あの時は酷く取り乱してしまって申し訳ありません」
深々と頭を下げた彼女に、王子は穏やかな声色で「顔を上げて」と告げた。
声につられておずおずと顔を上げる。一身に浴びる視線には何一つ不満の棘はなく、まるでそうするのが当たり前かのような態度で、王子は微笑んでいた。
なんて懐の深いお方なのだろうと、リリーはそう思わずにはいられなかった。
そして温情に痛み入り、内心では益々、彼の幸せに貢献することを誓う。だが彼女の気配が決意によってぴりりと引き締まったのを感じた王子は、また難しい事を考えてるのだなと、その肩にそっと手を触れた。
「あまり深刻に考えすぎないで……僕はリリーを助けたかった。あんなに動揺して、取り乱している君を見るのは、辛い。リリー。……ぼ、僕は、その、あの、『あ、あなたの優しさに包ま――」
「フィリップ王太子殿下、少しよろしいですかな?」
突如割って入った男性の声に王子はまたしても、今度は天井に頭がぶつかるほどの勢いで跳び上がった。
口から心臓が飛び出かけた。彼が口と心臓を押さえながら扉の方を見ると、怪訝な顔をしたロイドと国王が立っていた。
「あっ、ははははい、どどどどうしたんでしょう?」
先ほどの、『ひと恋』から引用した台詞を聞かれただろうか。
だが恥じらいつつ心配する王子を前にしても、あくまで理性的な表情を崩さないロイドは丁寧に頭を下げるだけであった。
「お邪魔してしまったようで大変申し訳ございません」
「いやフィリップ、彼を責めるんじゃないぞ。私が直接行こうと言ったのだ。お前どうせ、また部屋で読み物にでも耽っていたのだろう」
「父上! こ、このリリーが見えないのですか!? 僕は今彼女と語らって……」
「あぁすまんすまん、また仲が戻ったようで安心したよ。わはは、一時はどうなることかと思ったが」
陛下の
少々気まずそうに口を閉じた国王は、視線を彷徨わせてリリーを見ては、また少し視線を逸らすというのを数度繰り返す。そしてやがて、困ったように頭を掻いて、リリーに向き直った。
「すまなかった」
「……え? いえ国王陛下、突然何を……」
「八年前、私はフィリップの呪いを解くことを焦り過ぎていた。……幾ら仲が良かったとはいえ、まだ幼い君を、野獣に変わってしまった我が子と同じ部屋に閉じ込めたこと……本当に後悔している」
父の懺悔に、王子はギクリと肩を揺らした。
幾度となく苛まれた罪悪感が再び胸を刺す。王子が俯いたのを横目に見たリリーは、自身の胸に手を当てて、ゆっくりと首を振った。
「国王陛下、私はあの夜に感謝しているのです。あの夜、殿下と二人きりにならなければ、獣になった殿下の孤独なお心には気づけなかったことでしょう。……それに私は、あの夜があったからこそ決心ができたのです」
「決心?」
「はい。殿下の呪いを必ず解いてみせる、と」
リリーの言葉に、王子は目を見開いて固まった。自分でも夜が明ければ忘れてしまっていた孤独を、彼女はあの日に既に覚っていたのか。
王子は彼女の思いに胸を打たれて瞳を潤ませた。父は娘の成長を感じ取り、国王の斜め後ろで深く頷いていた。しかし国王だけは、厳しい表情を緩めなかった。
「なにも、うちの息子に縛られることはない」
予想だにしなかったその言葉に、ロイドもリリーも、そしても王子も驚きに目を見開いた。
「……っ父上!?」
咄嗟に抗議の声を上げた王子を一瞥して、国王は難しい顔のままリリーを見つめる。そこには王たる威厳も含まれていたが、なによりは一人の父としての、厳しい眼差しがあった。
「君がもし三柱貴族としての義務や、フィリップへの情けだけでそうしているのなら、その必要はない」
「そんな……わ、私は……」
「君が提案してくれた鎮静薬の開発は、少しずつではあるが上手くいっていたよ。ありがとう」
「あ……え、いえ……」
「君に魔力はないようだが、しかし魔術という難しい学問を学び、呪文まで読み解けると聞いた」
「はい、いざという時……少しでも殿下の救いになれば、と」
「だが君のその頑なな態度には、フィリップに対する情熱はないように見受けられる。君は、魔女の残した言葉を覚えているかね」
それは、少し前にもセヴァに言われたことだ。彼女は勿論と頷く。
だが続けて、不敬を承知で「それはあまりにも不確かです」と意見を述べた。
「殿下と私は、愛し合うにはあまりにも……正反対です。それに、今までは互いに顔さえも合わさなかったのです」
リリーは慎重に言葉を選びながら、しかし真実を告げた。
「うむ、そう思う気持ちも分かる。だが魔女の残した言葉こそが全ての鍵なのだ。もうそれしか残っておらんのだよ……呪いは強力で、今も王子を蝕み続けている。赤ん坊の頃から王城の魔術師たちが研究を続けているが、それでも読み解けない
その意見は、尤もだった。
普段は口論に強いリリーも、今回ばかりは返す言葉が見つからず黙り込んだ。
国王は焦燥のあまり魔女の言葉に固着しているのだと、リリーのみならず、ベルやソニアもずっとそう思い込んでいた。だが実際は、それに固着する以外、本当に打つ手がなかったのだ。小娘が考えつくことなど、大人たちはもうとっくにやっているに決まってる。
ショックを受けたリリーが、沈黙を保ったまま国王を見つめ返す。元々少しやつれていた様子の彼の目元はこの短時間で酷く落ち窪み、顔も青白くなっていた。
だがリリーが体調を心配するより早く、国王が再び口を開く。
「本当にフィリップの呪いを解いてやりたいと思うなら……どうか、我が子を愛してやってはくれないか。一人の父として、あまりに出過ぎた願いだとは分かっている。だがもう時間が無いのだ。この子の命は……くっ」
国王はすべてを言い切る前に、心臓を押さえて倒れ込んだ。
傍に立っていたロイドがその体を支える。しゃがみ込んだ彼は唸りながら、何度もすまない、すまないと
「リリーっ、使用人を呼んで来い!」
「はい!」
「僕は母上を呼んできます」
慌てるリリーやロイドと違い、王子は冷静な態度を保っていた。
彼は王妃を呼ぶと、二人で国王が運ばれた寝室へと急ぐ。中では顔を青くしたリリーとロイド、そして深刻な面持ちの医者と魔術師が、豪華絢爛なベッドを囲んで立っていた。
「父上の容体は……?」
「今は一時安定しておりますが、いつまた呪いが作用するか……」
それまで黙っていたロイドが、「ちょっと待て」と口を挟む。
「呪い? 国王陛下にも呪いがかかっているのか?」
それに答えたのは、この事態においても落ち着いた態度を崩さぬ王妃であった。
彼女はいつも通りのゆったりとした口調で、厳格に語る。
「ええ。決して外部に漏れぬよう、細心の注意を払ってはおりましたが……こうなってしまっては致し方ないでしょう。あなた方もどうか、このことは胸に秘めておいてください」
彼女の言葉に、バラモア家の二人は驚愕しながらも、深く頷いた。
「本当のことを……伝えなければなりませんね。我が息子、フィリップにかけられた呪いには続きがあるのです。
『 王子が大人になるその時まで、あるいは真の愛に救われるその時まで命は削られ続け、やがて
「い、命が削られる、なんて」
「成人の年の紅月、って……あ、あと半年もないではないですか……!」
ロイドの恐怖に満ち満ちた声を聞きながら、リリーは咄嗟に王子を見た。
彼がまた自分を責めてしまうのではと思ってのことだが、しかし窺い見たスカイブルーは、この場には不似合いなほど凪いでいた。
そこで彼女は、やっと理解した。
王子は知っていたのだ。このままでは近く、自分の命が尽きてしまうことを。
「な、なんで……何故、教えてくださらなかったのです」
思わずよろよろと詰め寄った彼女を、王子は横目に見るだけで何も動かない。
「言ったら……君はどうしたの。僕を生かす為に、僕を好きになった? そんな虚しいもの、僕はいらない」
リリーはまたしても言葉を失い、その場に立ち尽くした。
彼らは知っていた。運命に諍えずに打ちひしがれて、ただその時を待っていたのだ。そんな悲しいことが、あっていいのか。それとも、自分がもっと早くに王子と向き合っていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
絶望に顔を引き攣らせたリリーを、王子は諦観していた。
そしてただただ、焦って口を滑らせた父を恨んだ。
「リリー……もう良いんだ。この話を聞いた君はきっと、頑張って僕を愛そうとする。……分かるんだよ。でも無理に手に入れた愛でなんて呪いは解けないし、嫌だ。もういいんだ。君の心が手に入らないなら……それなら、生きる意味なんかないんだから」
王子は力なく項垂れている彼女の手をとって何かを握らせた。
そして一言、「どうか僕のことを忘れないで」と言って、静かに部屋を出て行った。
彼の温もりが手から去って、リリーはその場に膝をついた。その手の中にあったのは、スカイブルーの石がはめ込まれたペンダントだった。
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