第15話 セヴァの恋心

 柔らかく抱き留められたリリーが彼の胸へ耳をつけると、とくとくと心地よい心音が聞こえた。髪を梳く指が気恥ずかしかったが、二人だけの夜はもう来ないかもしれないという言葉が、いつもよりリリーを素直にさせる。


「久しぶりにバーニーって呼んでくれましたね」

「……まぁな」

「嬉しかった」

「……そうか。そっちこそ、もっと一緒にいたかったって、言ってた」

「あぁ、本心ですよ」

「二人だけの夜はもう来ないかもって、故郷にでも帰ってしまうのか?」


 少し前から、彼と彼の父との間に持ち上がっている帰省の話は、リリーも聞き及んでいる。


 そもそもの話、ギャヴィストン男爵家の三男であるバーナバスは、子供の頃から騎士修行のためにこの屋敷に来ているだけだ。数年前にも一度帰郷する話は持ち上がっていたのだが、その時はバーナバスが戻りたくないが為に大慌てで手柄を立てて――団長リリーの父も少なからず手を貸した――見事手に入れた小隊の隊長という地位を言い訳に屋敷に残った。


 それから数年後の今、またしても同じ話が持ち上がっているのだ。


 最近、ギャヴィストン領の中で強盗が多発しており、彼の父は武勇に秀でたバーナバスが領に戻ってきて、憲兵騎士団を再興させ、治安を安定させることを望んでいる。


「いや帰りませんよ。親父の件は、団長に頼んで部下を何人か派遣させました」

「なぁんだ、じゃあいつでも二人で穏やかに語り合えるじゃないか」


 リリーは顎先を彼の胸板につけて、下からバーナバスを覗き込んだ。高い鼻と長い睫毛の向こうに、形の良い眉骨が少し隆起しているのが見える。


「馬鹿、俺たちはもう子供じゃないんですよ。そんな簡単な話じゃない。あんたは三柱の貴族、俺はギャヴィストン領家の三男。地位も何もかも違うでしょ。昔は無邪気な仲良しも許されたが、それもあんたが成人するまでだ。……今だって、団長がお優しいから俺はお咎めを食らってませんけどね……それでも結構、周りからの風当たりは強いんですから」

「ふぅん。じゃあ私が、皆にお前を責めるなと言えば済むか?」

「馬鹿馬鹿、そんなこと言ったらそれこそ、“ついにギャヴィストン男爵家の三男が、あのリリー嬢を落とした!” なんて冷ややかな目を向けられちまいますよ。俺たちはね、そろそろ互いの為に少し距離を取るべきなんです」


 冷静な彼の言葉に、リリーは拗ねた子供のように目を細めた。


「でも子供の頃、私の従者になると言ったろ」

「えぇ言いましたよ」

「それはつまり、ずっと私の側に居てくれるということだろう」

「そうですとも、それが俺の喜びですからね。……でもね、俺は……お嬢様みたいに純粋じゃないから、あんたがあの王子様や、そうでなくとも未来の旦那様と仲良くするのに耐えられなくなるかもしれないですよ。唇を噛みながら二人を見守り続ける日々にいつか嫌気が差して、旦那に毒でも盛っちまうかもしれません」


 バーナバスは下から見つめるリリーの前髪を掻き乱して、一身に注がれる視線を遮った。不安と嫉妬に駆られた今の自分の顔は見られたくなかったし、彼女が今、どんな顔をしているのかも知りたくはなかった。


「……そしたらまあ……私がお前を庇おう。仕方ないな」

「……狡いですよ。そういうの」

「だって。じゃあどうすればいいんだ」

「俺があんたから離れられないって知ってて……、それでも勇気を振り絞って嫌われるチャンスを作ったってのに、お嬢様は易々と俺を受け入れる。っどうすれば俺は、あんたを諦められるんです!? 今回のことだってそうですよ、あんたが、一緒にいた王子も放り出してあんな顔して飛び込んでくるから、泣いて俺の手なんざ握ってくれちまうから……俺はまた馬鹿みたいに期待する……!」


 バーナバスは自分の頭を掻き乱し、怒りと苦痛で震える呼吸をゆっくりと整えた。そして彼女の腰を引き寄せる。見下ろしてくるリリーの視線が不思議と心地よいのは、きっと昔からこうして見下ろされ続けてきたからだ。これが、当たり前になり過ぎているからだ。


 どうしても越えられない家柄や主従の壁を、バーナバスは幼い頃から受け入れていた。それどころか、未来のご主人様を守るために多くのことを考えてきたつもりだった。


 だがいつからか、彼女に向けるものは純粋な敬愛だけではなくなってしまった。


 いつかこうなってしまうことも分かってはいたが、どうしても離れられなかった。普段はどんなに冷たくあしらわれても、視線が交わればちゃんと、本当は嫌われていないのだと分かるのが嬉しくて。


「なあお嬢様。俺のこと嫌いになってくれよ……辛いんだ。あんたに微笑まれるだけじゃ満足できない。好きだから、もっとちゃんと触れたい」


 重なり合った手が、リリーの返事も聞かずに彼女を抱き寄せた。


 再び体にかかった重みと温もりが心地よい。頬に手を添えて、唇が重なるのを彼女は拒絶しなかった。柔らかいそこに触れると不思議と心が安らぐ気がする。だがリリーは何も言わないまま、するりと上体を起こして、バーナバスの腕の中から抜け出した。


「ははッ、なんです、その顔は」

「分からないんだ。私はお前が好きだけど、お前と一緒に居るととても安心するけれど……それがお前の言う好きと同じかは自信がない」

「じゃあ俺をおいて、今すぐ逃げ出して」


 彼女を上目に見る、赤みを含むブラウンの瞳が自嘲気味に歪んだ。しかしリリーは動かなかった。悲しげに彼の頬に触れ、親指で何度か撫でる。


「今まで……私の我が儘をずっと聞いてくれていたお前だ。私の考える事なんか、とっくに分かってるだろうに」


 リリーは、力なく天井を見るバーナバスの唇の端にそっと口付けをした。黒い髪の毛先が、彼の首元を擽る。


「これからも私の為に生きてくれ」

「俺が苦しむと、分かっていても? それでも側に置きたいと仰るんですか」

「ああ。私はお前を嫌いにはなれない……愛想を尽かすならお前からだ」

「……本当に……我が儘で非道ひどいお嬢様だな……はは、俺だって、もう離れられませんよ。ねえ。あなたに最後までついていけるのは、きっと俺だけですからね」


 バーナバスは再び重なった彼女の体を抱き締めて、その華奢な体に縋った。結局言い包められてしまう自分にがっかりしつつも、こうなって良かったと心底安堵している。どうしても離れられない。どれだけの地獄が待っていても、彼女から必要だと言われるそれだけで、すべてを捨てて逃げてしまおうだなんて気持ちは呆気なく消えてしまう。


「この屋敷の中で……バーニーだけは私を一人の人間としてみてくれたよな。そんなお前は、かけがえのない宝物なんだ」


 彼の胸に頬をつけたリリーは、そう言って逞しい体に手を這わせた。


 暫くの沈黙が続いて、不意に身動ぎした彼女の指が胸を掠る。


 ぴくりと反応した彼はちらとリリーを見たが、リリーは彼を見ていなかった。温かい腕の中で目を瞑り、安らかな寝息を立てている。


 彼女を帰すのが名残惜しく感じられたバーナバスは、閉じた目蓋へ、一つキスを落とした。


***


 眠る彼女を横抱きにしたバーナバスが屋敷へ入ると、焦った様子のセヴァが暗闇の中から現れた。彼とその腕の中にいるリリーを見て、表情を厳しくさせる。


「お嬢様に、呪いをかけたのか……?」


 セヴァは彼女を見て、すぐにそう問うた。


「なんで分かった? 本当に少しだけ、素直になる呪文をかけた。変なことはしちゃいない」

「主人へ不当に呪いをかけることが、変なことではないと?」

「少しって言ったろ。それに、俺をここから追い出したらお嬢様が悲しむぜ」


 余裕綽々しゃくしゃくな彼の態度に、セヴァの顔には隠しきれない苛立ちが滲んだ。


「そう怒るなよ。俺は確かめたかっただけなんだ。……それで、今後ここに残るかを決めるつもりだった」

「女々しいな。迷わずご実家へ帰ったらいかがです」

「いいや、残念だが残ることにした。精々仲良くしましょーや」

「……まあ、子供一人が纏わりついたところで痛くも痒くもありませんが。少々不快ですけどね。……それより、お嬢様を早く返していただけますか?」

「あーはいはい、どうぞ」

「それ以外は何もしていないでしょうね」

「大丈夫だ。流石に俺だって弁えてるさ」


 疑わしげに彼を睨んだセヴァは、眠るリリーを受け取るとそのまま主人の寝室へと引き返した。


「そっちこそ、こんな夜中にご主人様の不在に目敏く気づくなんて、変だと思うがな」


 そんなバーナバスの言葉に、セヴァが振り向くことはなかった。


***


 静まり返った屋敷の廊下に、焦るセヴァの足音だけが響く。


 眠るリリーを見て、彼はゾッとした。彼女は呪いに耐性がなく、精神状態によっては多少の呪いでもすぐに気を失ってしまう。紅茶に混ぜた安穏あんのんの秘薬がまだ体に残っている状態で、程度は分からないにしろ、魔力の強大なバーナバスの呪いを受けたのは危険だった。


 足早に寝室へ滑り込んだセヴァが扉をしっかりと閉じると、今までの不気味な静寂とは違う、心地よい静けさが二人を包む。


「……本当に心配したんですよ」


 ベッドに横臥するリリーの、その足裏が酷く汚れているのを見つけて、清拭せいしきのために一度部屋を出る。


 お湯と適当な布を用意して戻るまで、セヴァの気分はずっと浮かなかった。


 日中、敬愛し守るべき主人に卑しい劣情を向けてしまったことが胸に引っかかるし、それに今だって、一言でも居場所を知らせてくれていたら、こんなに焦ることもなかった。


 心配で様子を見に行くくらいはしたかもしれないが、彼はつまり、リリーが自分の与り知らぬ所で、知らぬ誰かといるのが酷く不安なのだった。


 彼女が考えていることを一番よく知るのも、気を許して身を委ねるのも自分だけ。そんな自負はあれど、時々は昼間のように見境が無くなってしまう。


「あぁ。愛というのは、どうしてこう難儀なのでしょうか。私はただ、あなたに尽くしたい一心なのに」


 セヴァは彼女の片足を自分の大腿に乗せ、丁寧に拭きながら、思わずそう嘆いた。

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