第14話 ずれていく
夜中、奇妙な時間に目が覚めてしまったリリーは、体の締め付けがないことに気づいて伸びをした。きっとセヴァだろう。彼ならそうしてくれるだろうとは、分かっていた。
彼女は眠りに落ちる直前の、『夜には王城の魔術師が来る』という言葉を思い出して、多少の余裕と落ち着きを取り戻していた。彼らなら心配はない。あとは単純に時間との戦いだった。
辺りはしんと静まり返っていて、呼び鈴を鳴らすのは憚られた。
彼女は燭台を掴み、冷たい床に素足を下ろして一人で部屋を抜け出す。向かうのは騎士の宿舎、バーナバスの部屋である。
その日は雲の多い
足音を潜ませてホールまで進む。宿舎までは一度外に出て、洗濯場などがある小さな庭と小道を抜けなければならない。リリーは炊事場の裏口から外に出ることにして、使用人らが使う小さな木戸を開けた。
数歩、炊事場の冷たい石階段を降りて、石畳の床を歩く。
隙間風が吹くと今にも蝋燭の炎が消えてしまいそうで、彼女はマッチを持ってこなかったことを酷く後悔した。同時に、靴下くらい履いてくればよかった、とも。
外に出ると一層風が強く、今まで以上に慎重に歩みを進めた。暫く歩いているとやっと宿舎の壁が見えて来て、一階の右から四部屋目からは光が漏れ出している。
吸い寄せられるように近づいて、彼女はどこからか注がれる強い視線に気づいた。
ひたと足を止めて、目で宿舎の壁を辿っていく。バーナバスの部屋から二、三個離れた部屋の前の暗がりに、男が立っているのが見える。
だが、向こうはもっと早くから、暗闇の中に揺れる炎に気づいていたらしかった。息を詰めて、目を丸くしたまま炎を凝視していた男はその正体に気づくと、
「嘘だろ、火の玉の正体はお嬢様か!」
と、体の力を抜いて壁に寄りかかった。
近づいてくるリリーを見て、溜息を吐く。
「お嬢様、寒くないんですか? そんなカッコで」
「寒い、靴を履いてくればよかったよ。バーナバスは?」
「中で魔術師に診てもらってますよ。……あー、俺、あいつのダチです。お嬢様の話も結構聞いてますから、まぁ、来ちまう気持ちも分かります……こんな夜中でもね」
「あぁ……えっと、名前は?」
「俺はイーサンってんです。あっと、口が悪いのはすみません。庶民上がりなもんで」
「気にするな。それより、中へは入れないのか?」
「窓から覗くことは出来ますけどねぇ」
視線でそう促され、彼女はバーナバスの部屋の窓を覗いた。
ベッドに横たわるバーナバスは、口に布を噛まされ、上半身は裸で酷く苦しそうにしている。数人の魔術師が周囲に立って、彼の素肌に呪いを浮き上がらせたり、それを解読したりしている。傍らには幾つかの薬草箱もあって、確かに、心配だからといって安易に飛び込める雰囲気ではない。
「……そういうことか」
「お嬢様は、やっぱりバーナバスがお気に入りなんですね」
その言葉に、リリーは真剣な顔でイーサンへ振り向いた。
「言っておくが、あいつの人柄を信頼してるんだぞ」
「人柄? ……それが嘘だとしたら? お嬢様に気に入られるための」
「そしたら、あいつはもう十数年も嘘を吐いていることになるな。それならそれで忍耐力を評価する」
「……ハッ、こりゃあ付け入る隙もねぇや」
男が、酒瓶の栓を歯で抜く。
「飲みますか?」と傾げられ、リリーは浅く頷いて受け取った。
「蜂蜜酒か。……ん、濃厚だな」
「そうなんです。俺の出身地では、濃い蜂蜜酒が名産でして」
「なかなか美味い……今度父上にも進めてみるよ」
「お口に合ったなら良かったです」
二人は声を抑えながら、不安を紛らわせるように、他愛のない話をした。
時々、バーナバスのくぐもった低い唸り声が聞こえてくる。祈るしかないことが酷くもどかしかった。
「……寒いな……」
「あぁ、部屋に入りますか? ってのは流石にアレだから……俺ので良ければ、何か上着持ってきますよ。あそうだ、マントなら洗ったばっかりですよ」
「すまない……ありがとう」
燭台の炎はいつの間にか消えてしまっていたが、もう心細さはなかった。
肩にマントをかけてもらったリリーは、それに包まって、暫く静寂に身を任せていた。どこかで梟が鳴く声が聞こえる。互いにちょっとした昔話を語りながら、イーサンが二本目の蜂蜜酒を空にした頃。バーナバスの部屋から大きな光が放たれて、二人は弾かれたように立ち上がった。
二人で部屋に駆け込むと、突然登場した男女に魔術師たちは大層驚いた。
だがその中の一人が、マントに身を包めた珍奇な女がリリーだと気づくと、慇懃に頭を下げてバーナバスの状況説明を始める。
「彼にかかった呪いは、一先ずは解けました。あとは様子を見ながら、残っている呪いがないか確かめていくことになるでしょう。……今晩で良かったですよ。明日には、呪いは心臓まで到達してしまっていた」
「……そ……そうか……あ、ありがとう。本当にありがとう……」
へなへなとしゃがみ込んだリリーは、説明してくれた男に精一杯礼を述べた。そして、気付く。見覚えのあるその魔術師は、満月の夜、いつも塔で見張りをしているあの魔術師であった。
「……バーナバス? まだ起きているか?」
汗ばんだ体を無防備に晒している彼の側に寄り、声を掛けてみる。
目を閉じているバーナバスはぴくりとも動かないが、その胸は安らかに上下していた。
「ほ、本当に生きてるんだな……! 良かった、はぁ、」
安心したリリーは、とりあえず私室に戻ろうと身を引きかけた。がその瞬間、何かにマントを引っぱられて、体がつんのめった。
見ると、バーナバスの指がマントの端をしっかりと摘まんでいた。彼は目を薄く開いて、何かを企むようないつもの笑い顔を浮かべている。しかし額にはまだ玉の汗が残っていて、その一つが、たらりとこめかみを流れた。
感極まったリリーが思わず彼に抱き着くと、流石にその反応までは予想外だったバーナバスは「うおっ」と構えながら、ちゃっかり彼女の体に腕を回した。
「心配、かけちまったな」
「っうぅ……ほ、本当に心配だった……っだいたい、なんで私に言わないんだ!? 友達じゃなかったのか!」
「友達って、俺のことあんなに嫌ってたじゃねーか……」
「それはお前が馬鹿なことばかり言うからだ……っでも、もういいんだ。お前が生きているだけで……昔と違って馬鹿で軽薄で不実なお前でも、生きていたらそれで……!」
「お目覚め一番にものっすごい罵倒されてますよね……俺。でもずっと言ってたでしょ、軽薄で不実に見えても、本気なんだって」
背中を支えていた手が、そっと後頭部に回る。
彼女を優しく引き寄せたバーナバスは少し首を傾げて、薄く開いた唇を――
「おーいお二人さん、俺らのこと忘れんの、止めてくんねぇかな」
その声にピタリと止まったリリーは、バーナバスと向き合ったまま、ぼぼぼっと顔を赤くした。今、自分がやろうとしていたことが信じられない。そう言って立ち上がろうとした彼女は、下から手首を引っ張られて再びベッドに倒れ込んだ。
マントの端がはためいて落ちる。バーナバスは腕の中にリリーを抱いたまま、平然と魔術師たちに礼を告げた。そして、その場に立っているイーサンに一言。
「いつまでいる訳? えっち」
「え、えっち、ってお前……」
「えっち!? 何をする気だこのっ、は、破廉恥男!!」
リリーの手が綺麗にバーナバスの頬を打ち、乾いた音が室内に響く。
慌ててベッドから逃げる彼女を生温かい目で見ながら、魔術師たちは手早く荷物を纏める。
その日、彼らは屋敷に泊まり、翌朝には一部を除いて王城へ帰る運びとなった。
彼女が魔術師たちを見送っている間、イーサンはバーナバスと何言かを交わしたあと、リリーをおいてさっさと部屋から出て行ってしまった。
「……さて。おいでよ、お嬢様」
「いや、いやいやいやいや私も帰るぞ」
「なん、ゲホッ……! ううっ、」
「えっ!? ど、どうした、大丈夫か!」
「肩が……傷口が、まだちょっと痛むんです」
彼が押さえるそこは、確かに呪いの侵入口ともあって生々しい傷を残していた。
痛ましげに顔を顰めたリリーが指先で傷跡をなぞる。彼女は、厭らしく笑うバーナバスにはまったく気づかなかった。
「治ったばっかで、まだ不安なんです。分かるだろ? 今夜だけ、側に居てほしい」
「あー、でも、その……誰にも言わずに、部屋を抜け出して来たんだ。せめてセヴァには伝えておかないと」
「イーサンが伝えに行ってくれたさ」
「……本当か? 嘘くさいぞ」
リリーは訝しげに彼を睨んだが、彼はどこ吹く風で、ゆっくりとリリーの手を引いた。
「いいじゃないですか、こんなにゆっくり話せる夜はもう来ないかもしれないんだ。たまには昔みたいに、二人でゆっくり語らいましょうよ」
再び、今度はゆっくりと彼の腕の中に戻ってしまったリリーは、彼の言葉を聞いて逃げ出す気が失せた。
どうせ、さっきまでぐっすり眠っていたからまだ眠れないんだ。彼女は夜明けまで、ここにいることを決めた。
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