第13話 ひずみ
騎士宿舎から逃げ出した王子は、心臓を押さえて激しく息を乱しながら遮二無二走っていた。とにかくあの場から脱したい一心で、混乱した頭のまま前後もなくとにかく足を動かす。
自分以外の男に激しく心を乱すリリーを見たくない。嗚咽が零れ、ついに立ち止まると、足元の草の上に涙の雫が落ちて静かに葉を揺らした。
あんな男などいなければ良かったのに。
ベッドの上で苦しむ騎士を思い出して、王子はそう思った。しかしすぐに、そんな醜い感情を抱いてしまう自分へ激しい嫌悪が湧いた。
「ううっ、おぇッ、」
頭の中に、優しく微笑むリリーの姿が浮かぶ。彼女が誰に対しても優しいのは知っている。だがあの騎士に対しては、それだけではない深い愛情があった。
自分が彼女と向き合えるほど強ければ、同じように彼女の激情をこの身に受けられたのだろうか。泣き縋られたのだろうか。
噛み締めた唇から垂れた血が、ぼたぼたと音を立てて足元に咲いていた白薔薇に色を付ける。それを見て、彼はやっと少し冷静になれた。気づけば、庭まで戻って来ていたらしい。
王子は血の付いた薔薇の前に膝をつき、気持ちを確かめるように自分に問いかけた。
このまま諦められるような綺麗な恋ならば、ずっと前に捨てていただろう。
あの男のことは確かに憎い。昔からずっと欲しくて欲しくて欲しくて、喉から手が出るほど欲しくて夢に見るまで切望して、でも手に入れられなかったリリーの愛を、彼は持っている。
王子は地面に膝をついて、土を握り締めた。
それでも、リリーが好きだった。
彼女の瞳が誰を映していようとも、この想いは今更変えられない。愛に狂っているのだ。きっとずっと前のあの日――初めて彼女に出会ったあの日から。
自分の呪いを解くのはリリーだと分かっていたし、そうじゃないならいっそ死にたかった。
王子は、あの騎士を見殺しにしては駄目だ、と本能的に感じた。今あいつを見殺しにすれば、リリーの心の中には一生あいつが居座ってしまう。リリーの一番が一生あいつになってしまう。生きている人間には勝てるが、死んでしまった者には決して勝てないのだから。
そんな経緯で彼は、ロイドの執務室へ向かったのであった。
「――ふふふっ……」
王城に向かう馬車の中で、王子は意図せず零れた笑みに手で口元を覆った。誰に見られている訳でもないが、それでもこのように突飛に笑い声を上げることは
奇妙にも、心は晴れ晴れとしていた。
強力な呪いには違いないが、それでも王室付きの魔術師の手にかかれば、一晩もあればきっと解呪は済むだろう。それほどの腕でなければ城に仕える意味はない。何事も、必ずなんてことはないが。
呪いが命を蝕むのが先か、救われるのが先か。彼はある種賭けのような心持ちで、ただ一つ、リリーの心の安寧を神に願うのだった。
***
「お嬢様、お飲み物を……」
「……はいってくるな」
誰の顔も見たくない。そう突っぱねられたポーラが扉の前で立ち往生していると、速達を頼んで戻って来たセヴァが、代わってワゴンを受け取った。
「お嬢様、声が掠れていますよ」
小さく声を掛け、返事は聞かずに入室する。
リリーは床に膝をつき、ベッドに伏せさせて
「紅茶をこちらに置いておきます。ぬるいですから、どうぞ」
「カーテンを閉めてくれ……光なんか見たくない」
リリーが呟いて間もなく、重たいドレープカーテンの滑る音がする。
一片の隙間なく閉め切られたそれは、合わせが離れないように固く紐で結ばれる。そこまでしてやっと顔を上げた彼女は、沈鬱な気配を漂わせ、呆然としていて、虚ろな目は何も映そうとしなかった。
「……ありがとう」
蚊の鳴くような声で告げる彼女は、力の入らない腕で傍らに置かれたワゴンに手を伸ばす。すぐ、ガシャン! と音がしてカップが手から逃げた。セヴァは慌てて、その破片を彼女の手の届かない位置へ集める。ポーラが破片を片付けている間、セヴァが新しいカップに紅茶を注ぎ、それを自らの手でリリーの口元へと運んだ。
「お飲みください、心が落ち着きますから」
労わる声に、リリーは静かに
そっと傾げられたカップから香るのは、いつも飲んでいるのとは違う、強いフルーツの香りがするものである。それを嗅ぐと、不思議と心が落ち着いてくる。
「……バーニーが死んだ」
「まだそうと決まったわけではありません」
「でも……」
「夜までには、王城から魔術師が来ます。王太子殿下がそう取り計らってくださいました。嘆き悲しむのは、すべてが終わってからでも遅くはないでしょう」
「……殿下、が……?」
リリーはベッドに体を預け、目を瞑った。泣き叫び疲れてか、妙に体が重い。その額を優しく撫でたセヴァは、ポーラを下がらせると、扉の閉まる音を確かに聞いてから、彼女をベッドへ横たわらせた。
「……解きますよ」
彼女の上に跨り、小さく上下する胸元に手を伸ばしたセヴァは、ベストのポケットから小さなナイフを取り出した。
胸元を飾る華やかな
リリーの背中に片腕を滑り込ませて、そっと腰を持ち上げる。布の隙間から中を探ってコルセットの結び目を見つけ出すと、それを解いて体を緩める。光のない室内で、何にも照らされないセヴァの瞳には暗い影が落ち、眠っているリリーだけをただ静かに見つめていた。
「可愛い可愛いお嬢様……まるで人形のようだ。本当は昨日、あのドレスも私が全て脱がしたかったのに……」
体を一旦離し、何層にも重なったスカートの裾から手を忍ばせる。
細くしなやかな足首に、そっと手を添える。手触りの良い靴下の感触と、人肌で温まった空気が彼の心を僅かに擽る。
足首から膝へ手を滑らせて、大腿を撫でる。柔らかい足の付け根を辿って下腹部に辿り着く。硬いパニエを固定する紐を指先で探るが、どうしてか今日はそれが見つからない。
「……何でだ……っあ、」
一旦引こうとした指が、何か柔らかいものを引っ掻いた。
びくりと震えた主人の体に、彼は慌てて手を引き抜く。顔を確認すると、彼女は多少の身動ぎはしたものの目蓋までは開けなかった。
セヴァが動くと、ぎしりとベッドが音を立てて沈む。
捲り上げたスカートの中に頭を潜らせてみる。すらりと伸びる足は白い靴下に包まれて、宿舎で膝をついていたからか少しだけ汚れていた。
「これも、脱がせないといけませんよね」
セヴァは滑らかな布と柔らかい太腿を撫で、靴下を固定している紐を解いた。白い布をするすると膝辺りまで下ろすと素足が見える。息がかかってしまったからかはたまた外気に触れて寒かったのか、足がふるりと震えた。
彼は、やっと腰元のパニエに辿り着く。メイドたちも今朝は慌てていたのか、いつもならパニエの中に仕舞われている筈の紐が、仕舞いきらずに骨組みに絡まっていた。
「なるほど……こうなっていたからか」
セヴァは丁寧に紐を解き、そしてパニエを外へ投げ落とした。丁寧に左右の靴下も脱がせて、ついでに足にキスを降らせる。
「ん……」
冷えた肌を舌で舐め、温めていく。
水音が徐々に容赦なくなっていくと、
「んっ……あ……?」
「……お嬢様? 起きたのですか?」
スカートの中から身を起こした彼がそう問うと、ぼけっと天井を見ていたリリーが、その視線をセヴァへくれた。
「ん…………セヴァ、か……?」
「ええ。お嬢様の靴下が汚れていたので、今脱がせていたのですよ」
「あぁ……そうか……」
「まだ眠いのでしょう? お休みになっていて結構ですよ」
「ん……そうだな」
彼女が再び目を瞑ったのを見届けると、セヴァは靴下をポケットに仕舞い、露わになった爪先にキスをした。そして名残惜しそうに身を離すと、静かにベッドから降りる。
彼はその後も時間をかけてドレスを脱がしたあと、彼女へ夜着を着せて、暫くの間、広いベッドに寝転がって親が子供へするように、その体を抱き締めていた。
柔らかい髪を指で梳くと、子供のような寝顔で額を寄せてくるリリーが愛おしくて堪らなかった。
頬を撫でる。手を少し首元へ滑らせて、素肌を隠す髪を払う。そこは綺麗なままでなんの跡もついてはいなかったが、昨晩のあの様子だと余程の事をされたに違いない。キス、或いはそれ以上のことを。もしも、このスカートの中に王子の手が忍び込んでいたとしたら。
彼はそんな歪んだ空想に駆られて、リリーの首元にキスを落とした。彼女の肌と、ほんの少しの香水の匂い。それだけで、逆上せあがってしまうほど甘美だった。
そっと胸元のレースに触れ、胸の膨らみと鎖骨に頬を寄せる。温かい体が、神聖な体温が自分を温めていく。
「お嬢様……」
目を細め、その柔らかい肌に頬を寄せるセヴァは暫くその体温を楽しんでいたが、ふと我に返り、体を離した。肌に感じていた温もりが夜に溶けて冷えていく。
自分の冷たさを知り、今にも凍えてしまいそうだった。
彼は静かに頭を抱え、こんなに痛みを感じる時でさえ涙を流さない自分の心を恨んだ。
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