第12話 毒

 昨晩は、まったく夢を見なかった。


 リリーは一瞬で過ぎてしまった夜を名残惜しく思いながら、まだどこか気怠い体を引き摺って、ベッドから抜け出す。


「……? おい、なぜまたドレスなんだ。今日は部屋着をと言ったろう」


 昨日も見たような華美なドレスの山を抱えて入って来る侍女たちに、リリーが顔を曇らせる。


 そして、身を震わせた。なにか、よくは分からないがとても嫌な予感がする。最早野生の勘と言ってもいい。侍女らと共に入って来たセヴァは、唖然と立ち尽くす彼女の不安を裏付けるように、こんなことを言った。


「おはようございます、お嬢様。実は今朝から、王太子殿下がお屋敷にいらしていて……」


 言葉を濁した彼に、頭に纏わりついていた眠気が吹き飛ぶ。


 王子が屋敷に来ている? 彼女は目を見開いて、額に手を当てた。


「何故もっと早く起こさない!?」

「その、王太子殿下が決して起こすなと……」

「ど、どのくらい待たせたんだ……!?」

「一時間半……いえ二時間半ほど」


 その言葉に、彼女は頭を抱えた。しかし背後に立ったポーラは、そんな暇はないとばかりに容赦なくコルセットを当てて締め上げてくる。うぐぐと唸る彼女を余所に、身なりは手早く整えられていった。


 髪は低い位置でゆったりと結ぶ程度で、多少の後れ毛はわざと残した。


 彼女がお寝坊をしたことは王子も十分に知るところなのだ。敢えて気取らず、詰めを甘く見せようと仕組んだポーラの策は、見事に当たった。


「リ……リリー!」


 客間で彼女を待ち侘びていた王子は、やって来たリリーを見て、飛び上がる様に立ち上がった。普段よりやや柔らかい印象のある彼女へ、吸い寄せられるように歩みを進め、いつものように顔を綻ばせる。


「今日のリリーは、何だか珍しいな……そ、そんな色のドレスも着るんだね?」

「え、ええ。殿下がいつも明るい色をお召しになるので、私もたまにはと」


 嘘もいいとこである。


 明るい緑のフランセーズは間違いなくポーラの見立てで、リリーは何一つ意見はしていないし、唇に最低限薄く塗られたルージュも、同じくポーラの計算だ。


「お待たせしてしまって、本当に申し訳ありませんでした」

「い、いいんだ、僕が待ちたかったから。本当は、庭の散歩でもしようかと、思ったんだけどね。でも、折角だからリリーと歩きたくて。今日はいい天気だし」


 客間のバルコニーからも望める庭は、確かに、うららかな日差しを浴びていつもより青々として見えた。


 彼女は差し出された手を取って、王子と共に庭へ向かう。


 道中で二人は幾つかの雑談を交わしたが、そのどれもが他愛のないものだった。寧ろリリーの方が昨日の話題には触れまいと、積極的に様々な話を振っていた。


「この白薔薇は、王城にあるものと同じだそうですね」

「あぁ、うん。お祖父様が送ったんだって、聞いてるよ」

「ええ、有難いことですわ。花が開き、高貴なる色が庭を彩る度に心が癒されます」

「リリーは、昔から、花が好きだったよね」


 ゆっくりと穏やかな足取りで、二人はサロンへ向かっていた。


 しかしその背後を走り抜けたメイドたちの声に、思わずリリーの足が止まる。


 ――ギャヴィストン様が……!――


 耳を掠めたその名前に、彼女は反射的に振り返る。ギャヴィストン……バーナバスに何が? 目でセヴァにそう尋ねると、彼は王子の手前、一瞬は明言を避けたものの、すぐに彼女へ耳打ちをした。


「どうしたの? リリー」

「……バ、バーナバスが……、き、騎士の一人が、毒の呪いに侵されたと……」


 凍り付いたリリーを見て、王子はすぐに騎士のところへ行こうと告げた。しかし、彼女はすぐには頷かなかった。宿舎に王太子を連れて行くなど不敬に値するが、これだけ待たせておいてさらに蔑ろにするなどもっての外だ。そんな迷いを、王子は彼女の両肩を揺さぶって追い払った。


「リリー、心配なんだろう!? き、君ならすぐにでも飛んで行きたいはずだ! 僕だって、その人が心配だよ。……一緒に行こう?」


 王子の言葉に、彼女はやっと頷いた。


 彼に感謝を告げて宿舎へと急ぐ。人の出入りの激しい室内には、簡素なベッドの上で、汗を掻きながら苦しみ悶えるバーナバスがいた。


 人波を掻き分けてベッドへ飛びついたリリーは、ドレスが汚れるのも厭わずに、彼の枕元へ膝をついた。そんな彼女の背を追いそびれた王子は、扉の傍に立ちじっと彼女を見つめる。


「バーナバス……!」


 リリーは彼の体に触れて、その熱さに驚いてすぐに手を引っ込めた。傍らには桶があり、冷たい水に手巾が浸されている。汗で濡れたシャツや繊細な銀髪が、彼の体や顔に不快そうに張り付いている。


「魔術師は!?」

「呼んでおりますが、到着にはあと一時間はかかると……」

「その声……お嬢様か……? な、んで、ここに……」

「あぁ私だ、リリーだ……この前の毒なのか!? 何故こんなになるまで……っ」


 彼女は伸ばされた手を素直に握り、彼を覗き込んだ。


 すると痛みに藻掻き苦しんでいた表情が僅かに緩み、視線が彼女に向く。


「なんかおかしいとは……思ってたんだ……ハァ、……牙が刺さったのが、案外深くてな……」

「お前に限って、こんなになるまで放っておくなんて……、なぜ黙ってたんだ!?」

「俺だって……ご主人様や、騎士団の奴らには……言ったさ」

「なっ、なんで私には……」

「お嬢様は、ハァ……俺なんかに構ってる場合じゃ、ないでしょ……。ほら、行けよ……王子が待ってる。……綺麗ですよ……今日の……あんたも」


 振り絞るように囁いた彼を、リリーはいつものように冷たくあしらうことはできなかった。


 力が抜けてシーツの上へ落ちようとするバーナバスの手を、それでも必死に握る。彼の熱い指先を額をつけて神に祈る。女神でも何でも良かった。とにかく、彼を失いたくなかった。


「……死ぬなっ、嫌だ……!」


 酷く取り乱しているリリーの背を見ながら、王子は呼吸も忘れ、足は縫い付けられたようにその場から動かなかった。


 胸が痛い。鉛になったように重たい手で服の上から心臓を握る。何かで後頭部を強く叩かれたようだった。彼女があんなにも何かに必死に縋る姿は、一度も見たことがない。


「お嬢様、お気を確かに……」


 王子の手前、セヴァはバーナバスから彼女を引き離そうと、震える肩に手を伸ばした。しかし背後の床が軋んだ音を聞いてその手を止める。振り返ると、さっきまでいた筈の王子の姿は既に消えていた。


「死なないでっ、バーニー……!」


 指先に垂れた熱い雫に、バーナバスは、再び彼女へ目をやった。


「リリー、お嬢様は……やっぱ……泣き虫だな」

「い、嫌だ……っそんな顔で笑うな! そんな、……っ」


 彼の弱々しい笑顔に、リリーは泣き縋った。幾つも溢れてくる涙が手の甲を伝い、腕を濡らしていく。その頬を指先で掠めるように撫でたバーナバスはいつの間にか、口元だけの微笑を崩し、今にも泣きそうな顔をしていた。


 色々な思いが、胸に迫っていた。幼い頃に交わした『ずっと守る』なんて陳腐な約束さえ守れなくて、すまないと謝りたい。最後に彼女の顔が見れて良かったことだって伝えたいし、泣きじゃくるほど心配してくれたことへの感謝もある。


 そしてこんな時でも感じてしまう、王子より自分を優先してくれたことへのちっぽけな優越感。それだけでもう充分幸せな気がした。だけど本当は、もっと

「もっといっしょに……いたかったよなぁ……」

 眠るように呟いた彼は、そのままぱったりと手を落とした。


「ば、バー……、ニー……?」


 うわぁああん! というリリーの叫び泣きが響く。


 彼の傍に伏したリリーを、使用人たちは痛ましげに見つめる。やがてセヴァの指示によって無理矢理彼女を引き剥がすと、そのまま寝室へと引き摺っていったのだった。


***


「シャナとリアラはここに残り、ポーラはお嬢様をお願いします。それ以外の者たちは急いで王太子殿下を探してください」


 離れたくない、と手を伸ばして泣き叫ぶリリーの声が遠退くのを聞きながら、セヴァは使用人たちへ指示を飛ばした。バーナバスの脈を確認したあとで、自身も王子を探して屋敷中を走る。門前にまだ王室の馬車があるので、敷地内にいることは確実だった。


 セヴァは必死だった。


 確かにリリーとバーナバスは立場を越えた強固な絆を築いている。だがそれを、王子はどんな風に見るだろう? 彼はどうしても、彼女が長年積み上げてきた王子への献身が、この一件で失われてしまう気がしてならなかった。


 そんな不吉な予感に焦るセヴァが、リリーの父・ロイドの執務室の前を通った時。


 僅かに開いた扉から話し声が漏れていることに気づいて、彼は慌てて足を止めた。


「――ではその毒が……」

「ええ、そうです。王都の魔術師に手紙を出していたのですが、中々連絡がつかず……」

「何故すぐに王城へ連絡をしなかったのです! リリーがあんな顔をするくらいなら、城の魔術師なんかすべて送らせても良かった……!」

「申し訳ありません、殿下……我々も気が動転していて――」


 落ち着きなく数歩動いた足音が、くぐもった絨毯に吸い込まれて消える。


「とにかく、今すぐにでも城から魔術師を呼びましょう。事は一刻を争う」

「かたじけない……」


 王子はロイドの執務机へ腰をかがめて、手早く羽根ペンを走らせた。封蝋の代わりにサインを書き残し、矢のように部屋を飛び出していく。


 そこへ、戸口で聞き耳を立てていたセヴァが彼を引き留めた。


「速達は私が出しましょう。王太子殿下は、リリーお嬢様のお側にいては?」


 その言葉に足を止めた王子は沈痛の色を浮かべ、奥歯を噛み締めて首を横に振った。


「いや、僕は一旦城へ戻る。僕が今のリリーにしてあげられることは……きっとない」


 彼は伸ばされたセヴァの手に手紙を置くと、重い足取りで屋敷を後にした。

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