第11話 リリーとセヴァ

 王城からの帰りの馬車では、目まぐるしい今日という一日に疲れ果ててぐったりと項垂うなだれていたリリーであったが、屋敷に戻った時にはいつも通りを装おう、と心に決めていた。


 見送りの時でさえ、

「行ってらっしゃいませ、お嬢様!」

 と、いつになく気合を入れて頭を下げられたのだ。自分を迎える使用人たちの瞳がいかに輝いているか、自惚れを抜きにしても想像に難くない。


 だが実際にリリーを迎えた使用人らが顔を上げ、一様に向けられた無数の瞳を見返した時――彼女はボッと火がついたように顔を赤くするだけで、頭の中に用意していた言葉の、何一つも発することができなかった。


「よい休日を過ごされたようで、何よりでございます」


 立ち尽くす彼女へ、侍女のポーラが気を使って微笑む。それを聞いたリリーはとうとう立っていられず、情けない顔を両手で覆いながら、傍らに控えていたセヴァへへなへなと体を預けた。


「へ、部屋まで運んでくれ……」

「かしこまりました。お飲み物は?」

「……例のを」

「承知いたしました。ポーラ」


 セヴァの指示を受けたポーラは、依然朗らかな笑みを浮かべながら下がる。


 普段は男性のような装いが多い彼女の、こんなにも淑やかで初心な姿を見たのは、セヴァを除けば誰もが初めてである。


「お嬢様は、相変わらず初心でいらっしゃいますね」


 彼女を寝室のベッドに座らせたセヴァは、そのドレスを緩めながら微笑む。


「煩いぞセヴァ……お前も不意打ちを食らってみろ、今日の殿下はいつもとは全く違っていた……なんなんだ……」

「恋をすると、男性は分かりやすく変わるものですよ」

「いや、あれはもう別人だった!」

「ほう、一体なにがあったんです?」


 その質問に口を窄めたリリーは、広がったフランセーズの裾を握り締めながら少し逡巡したあとでただ一言、手を握られた、とだけ呟いた。彼女にとって大っぴらに言える今日の出来事は、このただ一つだけであった。


「……少女じゃないんですから」

「煩い! おっ、お、お前だって大した経験はないだろう! ……そうだよな!?」

「落ち着いて下さい、お嬢様」


 細められた瞳が横へ滑る。同時に背後の扉が開き、ワゴンを引くポーラがメイドたちを伴って入室してきた。


 彼女らが来たことで、セヴァはリリーの寝支度を整えるのを止め、静かにその役目を譲った。


 勤続年数の長いセヴァが主人の衣服に触れることについては、誰も何も言わない。それはリリー自らがそう望んでいるからで、男女間の面倒な礼儀を少々軽視しすぎている彼女は、信頼するセヴァへ、聞けば誰もが驚くほどすべてのことを任せていた。


「では失礼いたします」


 綺麗なお辞儀を見せて退出した彼にはまだ聞きたいことがあったが、彼女は一旦、黙って見送った。一先ずはこの息が詰まりそうなコルセットを外し、部屋着に着替えることが最優先である。


「ハァ、疲れた……明日はもう何もしたくないな……」

「最近は何かと忙しくされていましたからね」


 すっかり寝支度を済ませた彼女は、燭台を引き寄せ、ベッドの中でうとうとしながら本を捲っていた。その横ではセヴァが、彼女の為の特別な紅茶にミルクを注いでいる。褪せた若草色の髪といつも変わらない穏やかな笑顔が、蝋燭の炎に照らされていた。


「久しぶりですね。こうして甘い紅茶を所望されるのは」

「甘い物は嫌いだからな」

「ご友人とのお茶会では焼き菓子を召し上がられているのに?」

「……甘い紅茶が嫌いなんだ」

「そうですか」


 セヴァがそっとカップを差し出すと、彼女は本を閉じ、それに口をつける。


 優しいミルクの香りが少しずつ心を落ち着かせていく。八年前、獣姿の王子に襲われた時も、寝る間際に、こうしてセヴァを部屋に呼んだ。


 その時にミルク入りの紅茶を出されて以来、彼女は暫く、酷い不安に駆られるとこの紅茶を求めた。


 だが成長するにつれて、徐々にこの紅茶を飲むことも、彼を部屋に呼ぶことも無くなった。寂くなかったと言えば嘘になる。しかしいつまでも甘えては駄目だという思いが、彼女を頑なにさせていた。


「セヴァ……お前歳は幾つだ」

「私ですか? ……何故ですか?」

「いや、出会った頃からまったく見た目が変わらないなと思って」

「ふふっ、昔からよくそう言われます」


 細い瞳が更に細められ、弓なりに曲がる。愉快そうに笑う彼はしかし、それ以上なにも明言はしなかった。沈黙の中に、かちりと、カップがソーサーへ戻された音がする。


「……その……セヴァは、お、女と……その……ふ、触れ合ったことは、あるのか?」


 蝋燭の明かりが、シーツを握り締めてそう呟いた彼女の戸惑う瞳を照らしている。ちらりとその視線が向くと、セヴァは薄く微笑んで、彼女の小さな手に触れた。


「そんなにきつく握ると、爪が折れてしまいますよ」


「そ、そんなことは、今はどうでもいい! 私は今日で、殿下のお心が分からなくなったんだ。殿下は私に怯え、ずっと避けていた。今日、確かにずっと怖かったと言われた。だが同時に……その、~~…だとも、言われた」


 口篭もって聞こえなかったその部分は、きっと愛の言葉でも囁かれたのであろう。頬を染めて視線を外す彼女を見れば、ここにいたのが例えセヴァでなくとも容易に想像がついた。


「人の心とは、複雑なものなのですよ。それに、お嬢様のようにはっきりと口に出せる感情ばかりを持ち合わせている者は、とても少ないでしょう」

「おい、それでは私が単純な人間みたいだ」

「褒めているのですよ」

「私だって、なにも考えていない訳じゃないんだぞ」

「分かっておりますとも。お嬢様には自分と向き合う強さがあるのだと、そう言っているのです」

「…………それで、それが何だっていうんだ。殿下は、とても複雑な人だと?」

「ええ、可能性として、そういうお人柄なこともあるでしょう。何しろあの事件より以前は、お二人はとても仲が良かった訳ですし。王子の心情については、私とて不憫に思います。勿論、お嬢様が辛くないと思っている訳ではありませんよ」


 セヴァの言葉に、リリーは緩く頷いた。


「……私だって、殿下を責めたことは一度もない。責めようと思ったことなども……。ただ、今まではあんなに避けていたのに、ちょっと急すぎじゃないか? 私には殿下のお心が分からん……」


 大体、殿下は自分が怖いのではなかったのか。だから今日だって、その形の良い唇から紡がれる言葉は時折よどみ、戸惑っていたのではなかったのか。


 リリーは、王子の低く穏やかで、しかし時折躓いてしまう声を思い出す。


 彼がいつも酷く緊張しているのは彼女にも伝わっている。だが、それがなんだろう、愛を囁く時のあの饒舌さは。


 彼女は蝋燭に照らされる自身とセヴァの重なる手を眺めながら、はたと思い出した。


 饒舌な時の王子は、どこか幼き日の彼を思い出させる、嬉々として無邪気な雰囲気だった。まだ顔を合わられていた頃の彼そのものだ。そこまで考えて、彼女の胸は後悔と寂寞せきばくに陰る。


 やはり自分が、王子を苦しめたのだろう。


 あの日の自分があんなにも弱くなければ、王子の心に憂いを落とすことも無かった。孤独だった彼の心を深く傷つけたのは自分だ。彼の心を曇らせた、自分が悪いのだ。


「お嬢様は、呪いを解く方法をお忘れなのですか?」


 リリーは首を振った。


 “互いを心から愛し、無私の愛を捧げ合うこと”。それは勿論知っている。


 魔術師は呪いをかける時、必ず呪いを解く方法を教え、どこかにその方法を記す。それが呪いの掟だからだ。つまり理屈で言えば、解けない呪いはない、のだが。


「王子は少し前まで、私を酷く恐れていた……恐怖は、愛とは程遠い感情だろう? だから、それはベルやソニアや、他の女性たちに任せると決めていたんだ。……元々そういうのは得意ではないしな。そういう意味で、私は殿下のパートナーになるつもりはなかった。殿下だってそうだったはずだ。でもベルと上手くいかなかったから……仕方なく私を愛そうとしているんだろう」


 少し困惑した様子の彼女は、そう俯いた。


「だがな、それよりも鎮静薬の開発の方が現実的だ。……言葉を交わせない獣を前にして、愛だなんだを囁く暇はない。殿下が暴れなければ塔に囚われずに済むかもだろうし、そしたら彼の悲しみも幾分か減る……でもそれより、私が獣の殿下を打ち倒し、魔術師と共に呪いを解読する方が遥かに早い気もする」

「なんて男らしい考えでしょう、惚れ惚れいたしますよ」


 セヴァはその白々しくも聞こえる言葉の通り、心底から関心していた。


 実際に彼女は、今言ったことを実現させようとしている。


 鎮静薬の開発はソニアに任せているが、それに必要な素材の収集はリリーが行うことも多い。魔力を持たないにもかかわらず呪いを読み解けるのは、恐らくリリーくらいなものだろう。剣の腕だって無論、決して口だけではない。


 八年振りの夜は見事王子を打ち倒したし、二度目の訪問時も王子は比較的穏やかだったと、セヴァは聞いている。


 ここまで行動に移せるのは立派な愛だろうとセヴァは思うが、しかしこの様子では、リリーが素直になって王子と向き合うのはまだ難しそうである。話を聞く分には、少なくとも王子の方は、正攻法で呪いを解くつもりであるらしいが。


「セヴァ。殿下の呪いが解ければ、殿下は正式に王位につけるだろ? 私はな、半年後の成人の儀に間に合わせたいんだ」

「ええ、きっと上手くいきますよ。そしてそのお気持ちは、きっと王子にも届くでしょう」


 彼の言葉に、しかしリリーは笑って首を振った。認められたい訳じゃない。ただ太陽のように美しい王子の笑顔が曇らなければ、それで良いのだ。


 そう言った彼女は大きな欠伸をして、ベッドに潜り込んだ。


「手を……握ってもいいか」

「ええ、どうぞ」

「ふわぁ~あ……。結局……私には、殿下のお気持ちを知るのは難しいな……」

「ははっ、それはお嬢様がいつか、ご自分でお気づきになりますよ」

「やっぱり……ならお前は、知っているんだな、セヴァ……」

「ええ。……おやすみなさいませ」


 大きく温かい手を握りながら、彼女は耐え切れず目を閉じる。


 その目蓋に薄い唇が触れたことは、微睡みに落ちた彼女には分からなかった。

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