第10話 観劇デート
客で賑わう劇場内の裏通路を通り、案内された席は王族用の一等観覧席であった。
非常に見晴らしの良い席で、赤いドレープカーテンに囲まれた二人掛けの席に座った王子は、呼吸の仕方をなんとか思い出しながら、リリー側の手を彼女の腰に回してもいいかどうか迷っていた。
そんな王子の横で、早速オペラグラスを取り出したリリーは客席をくまなく見回し始める。
「な、何してるの?」
「怪しい人物がいないかを確かめております」
「ふふっ、おかしなリリー……そんな人はここにはいないのに」
互いの顔が見えづらいことや、彼女の可愛らしい冗談――少なくとも王子はそう思った――で、彼は徐々に落ち着きを取り戻し始める。
暗がりに溶けるリリーのドレスから、白い肌が覗いている。それが舞台からの光を受けてぼんやりと浮かび上がる。デコルテを飾るペンダントが微かな光を反射して輝くのを眺めながら、彼は再び口を開いた。
「安心して、リリー。今日は沢山護衛を潜り込ませているから。そ、それよりも、手……て、手を握ってもい、いい?」
「……手ですか? えっと、ええどうぞ」
そう言って差し出された手袋に守られた手を、王子は感激して両手で包み込んだ。握るというよりも最早、鑑賞するような手つきでそれを眺める。
「あぁリリー、爪を綺麗に整えているね……いつもは狩りをしているらしいけど、とても柔らかくて優しい手だ……この手が剣を握っているだなんて本当に驚きだよ……ちょっと頬ずりしてもいい?」
突然饒舌になった王子へ、リリーはお好きにどうぞと片手を差し出しながら、オペラグラスで会場を見続ける。彼は彼女が見ていないうちに、こっそりと指先に唇を押し当てた。
「リ、リ、リリーは、今日、僕と劇を観に来るのは、嫌じゃなかった?」
「いえ? 観劇は久しぶりですし、何より殿下のお側で殿下を守れるというのは、バラモア家の人間にとってはなによりの誇りですから」
「それじゃあ、これからも僕とずっと一緒に居てくれる?」
「私の心は常に殿下と共にありますよ」
「じゃあ、僕のお願いも聞いてくれる?」
「ええ、なんでもお申し付けください」
「じゃあ……ちょっとだけ指を含んでもいい?」
「ええ、なんでもお好きに……え?」
思わずグラスを外した彼女は、指先を包むぬめりとした感触に、全身を跳ねさせた。薄い唇の隙間から伸びる舌が、黒いレースに包まれた指を舐め上げた。
暗がりに浮かび上がる瞳は、熱く潤んで、じっと自身が掴む手を凝視している。
彼女の爪先を再び口に咥えると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「やっとこっち向いてくれた。ど、どうしたら気を引けるかと思って、少し悩んだんだ……」
「だっ……だ、だだだだからって……!」
「リリーはこういうこと、したことある? 誰かと触れ合ったことは?」
王子は嬉しそうに彼女の手のひらへ頬ずりしながら、上目遣いでそう問いかけた。
「な、ない……ですが」
「君の、友人たちにも言っていない秘密はある? 僕だけに教えてほしいな。僕にも、沢山秘密があるんだ。でもリリーが教えてほしいっていうなら、何だって教えてあげる」
「そっ、それは……結構ですが、あの、手を……」
「ねえ、リリーの秘密は?」
「え、いや、ありませんよ。隠し事なんて」
「そう?」
王子は首を傾げると、微笑んで、そっとリリーのフランセーズの隙間に手を伸ばした。指先が、ガーターベルトの紐を撫ぜる。
「バラモア家の女性は、ここに武器を隠しているんだってね。今日は何を持ってるの?」
「! そ、それは……何故それを、」
無意識に身を引くリリーを、王子は更に追い詰める。
「昔、隣の国の王子を招いた晩餐会があっただろう? あの時、リリーがドレスの隙間に手を入れているのを見たんだ。不思議に思って君の父上に尋ねたら教えてくれた」
それの話は、リリーも確かに覚えがあった。
十四歳の頃、客人の中に不審な男がいたので警戒していたのだが、父からは不用意に武器を抜こうとするなとこっ
ただの勘違いで剣を向けたとなれば取り返しのつかない外交問題に発展しかねないし、そもそも武器を隠し持つのは護身の意味が強い。どこで誰が見ているのか分からないのだからと、まあ長いお叱りを受けた苦い思い出である。
「う……み、見てらしたのですか」
「うん。君が手を抜く時、ちょっとだけ靴下に包まれた足が見えて……どうしてリリーはそんなに僕を誘惑するのが上手なの? 僕の心はずっと君に揺さぶられてばかりなんだ」
すっかり彼女へ圧し掛かった王子が、切なげにリリーの頬に手を添える。ずっと君が怖かった。ずっと君に嫌われていると思っていた。でも、ずっと君から目が離せなかった。そう言った王子は、リリーの首筋に小さく口付けを落とす。
同時に、会場の騒めきが消えた。舞台の幕が上がり、明るい壇上に俳優たちが躍り出る。
彼はリリーの手を引いて起こし、二人で並んで座った。その横顔は嬉々として観劇を楽しむ爽やかな青年そのものであったが、対するリリーは羞恥のあまり混乱し、とても舞台に集中できそうもなかった。
***
「はぁ、面白かったね……!」
「は、はは……そうですね……」
劇場を出ると、空にはリリーが言った通り暗雲が立ち込めて始めていた。
馬車に乗り込んだ彼女は、やっとあの薄暗くて狭い空間から逃げられたことに安堵する。馬車だって狭いことには変わりないが、周囲が明るいだけまだましである。
劇が始まると、最初は腰に王子の腕が回っている所為でいまいち集中できなかったリリーも、気付けばすっかり物語にのめり込んでいた。その少女のように輝く横顔は、隣で彼女を見つめていた王子の胸にしっかりと刻み込められている。
しかし中盤に差し掛かって、遠目にも美麗な俳優が出てくると――リリーの輝く視線がその男へ一心に注がれ始めると、王子の心中は穏やかでなくなった。ふと悪巧みを思いついて、彼女の耳に唇を寄せてみる。
「劇が終わってしまうのが惜しいな……もっと一緒に居たい」
「っ、え!? あ……え、」
頬を染めて跳び上がったリリーの視線が自分に向けられたことで、彼は目元を綻ばせ、
体に回った腕の先、彼女の手を包む王子の指が、すりすりとレース越しの手の甲を撫ぜる。
「でもっ、その、今日はお時間が……」
「あぁ、今日は夜に少し執務が残っているから……また今度誘ったら、一緒に出掛けてくれる?」
「そ、それは……まあ」
時折出かけることくらい、何てことはない。
リリーはどんどん近づいてくる王子の胸を押し返しながら、何度か激しく頷いた。
それからも、王子の攻撃は止まらなかった。観劇中、重なった手はずっと指が絡まり、リリーが悲哀の話に涙を零せば、彼女の仮面をそっと外した王子の唇が、頬や顎を這って溢れた涙を拭い取った。
劇が終わる頃、リリーの顔はドレープのカーテンに負けず劣らず真っ赤に染まり、予想外の状況に膝が震えてさえいた。
「可愛いリリー、耳が弱いんだね」
何より彼女を困らせたのは、
――馬車が走り出すと、彼女は王子に背を向けて窓に張り付いた。
「ど、どうして、そんなに離れるの……?」
「で、殿下のお側にいると、とても身が持ちませんので……」
窓に反射するリリーの伏せた顔は、劇場でのことを思い出しているのか紅潮し、耳も首筋も、ほんのりと赤みを帯びている。
いつも雨に濡れた鉄のように冷たく頑なな彼女の意外な一面を発見することは、昔から、王子にとっては何よりの喜びだった。だが今日は特に、絶対に忘れられない記念日になった。
いつも、遠くから眺めていた。彼女の弾けるような笑顔を見た時は、そんな風にも笑うのかと少し意外に思ったし、訓練中、子供用の剣を持って周りの大人に飛び掛かったやんちゃっぷりには、彼も人知れず笑みを零したものだ。
そんな彼女が少女と大人の狭間で酷く困惑している姿に、王子は深い喜びと興奮を覚えた。
ニヤつく唇を噛み締めながら、後ろからそっと彼女を抱きしめる。髪やうなじに口付けて耳に息を吹きかけると、熱く燃える彼女の体がぴくりと震えた。
「ねえ……今日はリリーの新たな一面を沢山見れて、とても嬉しかった。今の君なら、あんまり怖くないな……寧ろとても美しくて可愛くて……どうしてそんなに魅力的なの? 頭がおかしくなりそうだ、こうして君を抱いていると……」
止めどなく流れ始めた王子の愛の言葉に、リリーはまたも為す術なくただ唇を噛んで耐えた。
いい息抜きになったと零す王子に対して、彼女は全身を擽られるような耐え難い羞恥心と戦いながら、必死に平静を保とうとするのだった。
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