第9話 父の企み

 ――リリーの礼拝堂探索より、少し前。


 父・ロイドは執務室の机に肘をついて、猛烈に頭を抱えていた。とんでもない事を言ってしまったという自覚は、ある。


 王子の観劇の護衛だなんて嘘っぱちもいいところだ。仕事にかこつければリリーが頷いてくれるのは分かっていたが、問題は王子の方である。


 どうにかしてリリーの代わりにデート観劇に誘わなければならない。しかしどうすれば良いのやら、彼にはさっぱりであった。


 王城の近衛騎士団団長であるロイドが、登城の際にベルナデッタ嬢とフィリップ王子がどうも急接近しているらしい、という噂を聞いた時は、それはもう酷く胸を痛めた。


 愛する娘のことを思えばこそ、王子と家柄や誓いに縛られるだけの主従関係ではなく、精神的な繋がりを持ってほしいのは当然のことである。それが男女の契りであるなら余計にいい。王族の影として生きるバラモア家だが、それでも愛娘に普通の女子としての人生を与えてやれるならば、こんなに幸せなことはないのである。


 だがそんな愛が暴走した末に口を衝いて出た嘘は、行き場のないまま宙を彷徨っている。リリーと偽って王子へ誘いの手紙を出すか、直接観劇へ誘うか。


 散々頭を悩ませた末に彼が選んだのは、玉砕覚悟の後者であった。


 それはある日、謁見の為に登城した昼のことである。



『やや、殿下。本日もベルナデッタ嬢とお茶会ですかな』

『え? いえ、彼女は今日は来ないですよ』

『おやそうですか! いや、最近お二人に関する微笑ましい噂を聞きまして……ところで殿下は、観劇などにはご興味はおありですか?』

『か! かんっ、観劇……! す、好きですよ、まだあまり詳しくはないのですが。興味は凄くあるのですが、一人では中々……』

『そ、そうですかぁ! いや実は、うちの娘は昔は大の観劇好きだったのですが、最近は家の仕事ばかりでめっきり……仕事熱心なのはいいんですがね。たまには息抜きもさせてやりたくて』

『あっ、リ、リリー嬢が観劇がお好きなことは、実は、ベルナデッタ嬢から聞いていますよ。幼い頃はよく観劇を強請ねだっていたとか……そうですか、息抜きを……そ、そそそその、り、リリー嬢はその……近々観劇なんかは……』

『え、ええ! ちょうど、とある劇団がこの町にやってくるなんて噂を聞きましてね! リリーはその劇を見るのを楽しみにしてて……なんでもあの子の好きな悲しい愛の物語だとかで!』

『そ、そうですか! もし差し支えなければ、リリー嬢が良ければ、その、』

『勿論ですとも! リリーも喜ぶでしょう、ずっと王太子殿下を気にかけていて、その……懇意になりたいと!』



 ……話はこうして、ロイドが思っていたよりも遥かにスムーズに進んだ。



 大きなドレッサーに映ったリリーは、その日ばかりはいつもの豪勇さを潜ませて、夜露に濡れた黒薔薇のように美しい乙女に変貌していた。


 すっきりと伸びた白い首から肌を辿って視線を下ろしていくと、滑らかな黒地に砕いたダイヤが縫い付けられ、フリルが何層も重なったフランセーズが柔らかな体を包んでいる。


 目元は憂いの影を落とす程度に色付けられ、唇は暗がりにも負けない濃い赤がのせられた。


 早朝から王家の象徴であるユリの花を浮かべた湯に浸かり、丁寧に丁寧に洗髪した髪を見事に編み込んだのは、彼女のヘア事情には人一倍詳しい侍女のポーラである。


「仮面は、金縁に黒塗りのこちらはいかがでしょう。昨晩、少し黒羽根の手入れをさせていただきました」

「あぁ、それがいいな。それは私も気に入っている」


 リリーが自身の服装について意見を述べたのは、このたった一度きりであった。


 すべての支度が終わり、ほぅ、と鏡越しに見える主人に感嘆の息を吐いたポーラは、暫くうっとりとその姿を眺めた。元々の素材もさることながら、繊細な化粧で彩られたお嬢様はまるで精巧に作られた人形のようだと零すと、同じくその場にいたセヴァと父も、うんうんと何度も頷きながら、その美しさを礼賛らいさんする。


 そんな周囲を余所に、リリーの視線は鏡の中の胸元に注がれていた。


 ドレスの襟首は、彼女が普段着ているシャツとは違い大きく開いている。


「ちょっと肌を見せすぎでは?」と心配性の父のような意見を述べるリリーとは真逆に、父は「何を言う、女子ならこれくらいが普通だ」と、まるで年頃の娘のように返す。


 手練れた大人から見れば、王子は少々純朴で初心すぎるところがある。これくらい張り切って行かねば、と一人息巻く彼は、既にやや疲れている様子の娘を元気づけるように、再度褒めちぎるのであった。


 さて可憐な淑女へと大変身を遂げたリリーであるが、“王子の護衛”という本懐を忘れた訳ではない。


 バラモア家の所有するドレスにはどれも、フランセーズのローブの隙間が広く開いていて、スカートの中に手が入るような造りになっている。そうして、隠し持つ武器を抜くことができるのである。


 リリーが正装をする場合にも、いつもガーターベルトの上に愛用の短剣を下げている。無論この日も、短剣の鞘は彼女の太腿の横で揺れている。


 本当は堂々と帯剣したいものだが、騎士でもあるまいに流石にそこまでは許されない。亡き母や知徳に優れた兄が言うには、『剣の代わりに小さな武器を忍ばせ、あとは色香で乗り切るのがバラモア家の淑女の嗜みである』らしいので、これで我慢しておくべきなのだろうと、リリーはそう思うことにしていた。


 彼女は馬車に揺られながら、劇場で敵襲を受けた場合のシュミレートをして、王城までの時間を過ごした。


 そして市街を抜けた先、大きく構えた城が徐々に近づいてくる。


 人知れぬ父の期待を乗せたバラモア家の馬車が城の敷地内に入ったのは、リリーが起床してから、実に九時間後のことであった。


 門の奥には既に、フィリップ王子が待ち構えていた。


 リリーは最初、遠目からでも目に付く美麗な男性が、あの王子であることにまったく気づかなかった。何しろ普段の彼は淡く明るい衣裳の印象が強く、リリーにとっては燦々さんさんと輝く太陽そのままの人なのだ。


 だからこそ、遠目からではやや退廃的な気配さえある暗い印象のその男性は、偶然鉢合わせた客人か何かだと思った。馬車が門扉の前に着き、その客人の輝く金髪とスカイブルーの瞳を間近に見たリリーは、彼が王子なのだと気づいて大層驚いた。


 今日は格好良く決めようと決心して待ち構えていた王子は、小窓の中に彼女の姿を認めると、緊張と興奮に全身を貫かれて息を詰めた。呼吸の仕方が分からない。目を見開いて心臓を上から握り締めていると、見かねた執事が馬車の扉を開けた。


 王子はすぐに姿勢を正して、綺麗に微笑んだ。それは決して作り物の笑顔ではない。


 思った通りゴシックな装いの彼女を見れば自然と笑みが溢れてくる。寧ろ、笑いが止まらなくて困るくらいである。王子は、一つ息を吸って心を落ち着かせた。


「リリー・バラモア嬢」

「は、はい」

「さぁ、手を」


 そう言って彼女に差し出された手は、ごく僅かだが歓喜に震えていた。


 王子の大きくしなやかな手を辿っていくと、ジュストコー上着ルの袖は黒いレースで飾られていた。リリーは目の前の男性が本当にいつもの王子なのか、いまだに少し自信がない。


 今日の彼は、彼女のドレスに合わせて重厚な黒い衣裳を身につけている。


 縁にレースが施された白い襟以外は、どこもかしこも黒やグレーが重ねられている。


 好きな異性が好む色を纏う、或いは相手の家の伝統色を纏うというのは、確かに色恋に鈍いリリーでさえ聞き覚えのある好意の伝え方であるが、ここまで揃うと最早そういう話でもない。


 まるで双子の合わせ衣裳のようにお揃いな服に、彼女は何か気の利いた冗談でも言った方がいいのか、或いはスマートに流したほうがいいのか、そもそも王子は何を思ってこのような服を着たのか、まったく意図が読めなかった。しかしながら、夜の色も似合うことへの称賛は、素直に述べたい気もした。


 彼女は王子の手を支えにして、自分の馬車を降りて王室専用の馬車へと乗り込む。


 わざわざ王城から二人揃って劇場に行くのは、他でもない王子がそう所望したからである。


「……殿下はいつも明るい色を纏っておりますから、まさか黒をお召しになるとは思いませんでした」

「まあね。せ、折角、リリーと一緒に出掛けるから……その、どうかな」

「ええ、勿論、とても良くお似合いですよ」


 朝からの準備でやや疲れていたリリーではあるが、彼女は今日という日を、八年間の溝を埋めるいい機会だと前向きに捉えていた。


 今までは無理に距離を縮めようとは思っていなかったが、いつだったか父が言っていた、「主人と真の信頼関係を結ぶことは大切だ」という言葉を思い出して気が変わったのである。


 そうした部分を無視しがちな彼女からしてみれば、今日は間違いなく絶好の機会であった。


 馬車の扉が閉まると、さっそく二頭の白馬が歩き始める。


 王子は隣に座したリリーからふと香ったユリの匂いに、目を瞑って密かに震えていた。堅物な彼女がわざわざこれを纏ってくれたのかと思うと、今すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られる。


 しかしこの八年間、彼女への愛の重さと彼女から嫌われたという恐怖心ゆえに距離を取り続けてきた王子には、その肌に触れることはおろか、この至近距離で横顔を盗み見るだけでも精一杯であった。


 距離が近すぎて、心臓が爆発しそうだ。


 彼女のドレスの裾が足に触れて緊張する。そんなことを思って胸を押さえる彼だったが、正面からリリーを眺め続けて不審に思われるよりはいいか、とも思った。


 そもそも王子にとって、これはまたとないチャンスであった。


 想い人の父から直々に外出を許可され、それも場所は薄暗く人目にもつき辛い観劇だなんて。なによりもあのリリーが、それを喜んで許可し、あまつさえここまで完璧に美しく着飾ってくるなんて。


 ――大丈夫だ、フィリップ。勇気を出すんだ、いけるぞ。

 彼は隣を盗み見ながら、震える心を叱咤して口を開いた。


「その、きょ、今日は良いお日柄で……」

「そうですね。ですが午後からは雨が降るかもしれませんよ。向こうの雲が暗雲ですし、鳥が低空飛行しています」

「リ、リリーは、そういったことにも、とても詳しいんだね」

「とても、とは言えませんが、遠乗りに出ている時や森で調査をしている時なんかは、ある程度の空模様を分かっていた方が便利ですからね」

「と、遠乗りも趣味なんだね! それなら僕も好きだ……あっいや、観劇も木彫りも魔道具調査もす、好きだけど……」

「魔道具調査……殿下がそんなことをされるとは、少々意外ですね。ですが私もつい、物珍しいものを集めてしまいます」


 話は概ね弾んだ。


 少なくとも、王子が恐れていた気まずい沈黙は訪れずに済んだ。


 それどころか、揺れが少なく広くてゆったりとした馬車内は非常に居心地が良かったのか、リリーはその無表情に、ごく僅かな笑顔を浮かべてさえいた。


 彼女の機嫌を鋭く見抜いた王子は、外の景色を眺めていた彼女の手を引き寄せようとして……結局手を宙へ彷徨わせるだけで終わった。


「その……ば、馬車が気に入ったみたいで、良かった」

「え、顔に出ていましたか?」

「えっ、う、うんまあちょっと、ちょっとだけ。僕じゃないと気づかないくらいね」

「そうですか。殿下はよく人を見ていらっしゃるのですね」


 君だからだよ、とまでは流石に言えず、王子は心の中で一人そう呟いて、羞恥に顔を赤くした。いつか、これを堂々と口に出して言えるようになりたい。そんなことを考えているうちに、馬車はいつの間にか劇場前へ到着していた。

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