第8話 初めての夜

 調査を終えて屋敷へと戻ったリリーは、バーナバス小隊と別れて、早めに寝支度を済ませた。殆どの使用人を下がらせて、ベッドの中で分厚い魔術書を捲っていると、残っていた一人が蝋燭を片手におずおずと尋ねる。


「お嬢様、蝋燭を換えてもよろしいでしょうか?」

「ああ」


 リリーは本に視線を落としたまま、短く返した。


 彼女が片時も視線を外さないその本は、長年の湿気と埃を蓄えて、ページを捲る度に硬い羊皮紙のしなる音が響いた。彼女はその中の第十五項、『毒魔術について』を熱心に読んでいた。


 魔術師のかける呪いには幾つも種類があるが、それらは必ず、六つのどれかに属する。


 火に作用する呪い、水に作用する呪い、草木に作用する呪い、気体に作用する呪い、物質に通ずる呪い、そして、精神に作用する呪い。毒は特異で、一部を除けば水に作用する呪いに属する。


 専門的になればなるほど呪いの効力は高まるが、膨大な時間を知識の吸収と実験に捧げなければならない。魔術師が特定の分類にのみ秀でているのはその所為で、すべての魔術を極めようとすれば千年はかかるとまで言われている。奥深く、妖しく、そして危険な学問なのである。


 そんな怪しい学問へ傾倒するリリーを、良く思わない人は多い。


 だがその日から数日、彼女はメイドの目も憚らず、一心不乱に魔術書を読み込んだ。


 しかしやはり毒に対するはっきりとした対処法は見つからず、唯一確実なのはマーリーンが言った通り、そしてすべての呪いがそうである通り……身体に埋め込まれた複雑な術式を、正確に読み解き切ることであった。


 ――さて礼拝堂についての報告書は、小隊長であるバーナバスが父へ上げた。


 リリーは、あれからめっきり再調査の話を聞かない。なんでも魔術師の手配に難航しているようで、複雑な呪いを解けるのは高名な魔術師しかいないが、そうした者は命を危険には曝したがらず、結局王城に魔術師の派遣を依頼したそうだった。


 バーナバスともあれから顔を合わせていない。


 毒の術式は確かに複雑で、興味本位で魔術を齧っている程度のリリーでは簡単な呪いを読み解くのでさえ一苦労だ。どんよりとした停滞感が屋敷全体を包み、どこか落ち着かない朝。リリーの元に、王子からの私的な手紙が届いた。


 彼からの手紙はこれで二度目である。


 開けると、そこには次の満月のことと、約束の観劇がとても楽しみだという旨が記されている。便箋を静かに折り畳んだリリーはやや荷が重そうに、傍らのハーブティーを飲み干した。


「おかわりはいかがなさいますか?」

「いや、いい……」

「どうなされたんです?」


 傍に控えていたセヴァが、浮かない様子の彼女を見て不思議そうに問いかける。


「あー……。劇を……観に行く日のことなんだが」


 その一言に、手直しするドレスの幾つかをクローゼットから取り出していたメイドたちは耳を大きくさせて、セヴァもぴくりと反応した。これだから嫌なのだ、余計に話しづらい。


 彼女はこほんと咳ばらいをすると、

「演目に合わせた衣裳を適当に見繕っておいてくれ」

と指示をして、それ以外のことは、すべてセヴァに丸投げしたのだった。


***


 魔獣調査や観劇デートの支度等々、忙しく奔走するリリーの下へ、次の満月はすぐにやってきた。


 剣を振るうのに邪魔でない格好として乗馬服に身を包んだ彼女は、足元はヒールではなくブーツを、腰には刃を潰した例の剣を差し、城へ参上した。


 勇ましい足取りで、彼女は王子の待つ塔へと急ぐ。


 螺旋の石階段の先、相対した扉の奥からは、獣の呻き声が響いていた。


「……フィリップ王子、リリーです」


 手紙に書いてあった通り、返事が無くとも気にせずに中へ入る。


「がぁうぅうう、グァアアッ!」


 ガキィィン! と、剣と牙の当たる音が響く。飛び掛かってきた獣の大口を何とか受け止めた彼女は、凪いだ瞳で王子を見据えた。


「殿下、お気を確かに」

「ぐ、ぐぁがぁ、」


 王子の瞳が、確かに彼女を捉えて揺れる。


「リ、リー……」

「ええ、お久しぶりですね」


 慌てて飛び退いた王子が、自身の行動に頭を掻き毟りながら唸り、ウォン、ウォーーンと悲しい遠吠えを響かせた。リリーは剣を下ろして、ゆっくりと歩みを進める。


 そのブーツの音に、彼は酷く怯えていた。


「殿下、ご自分を傷つけるのはおやめください」

「うぅ、あ、僕は……また……っ」

「殿下!」


 自責に駆られ、再び理性を失いかけた彼の振り上げた手を、リリーが剣先で鋭く突く。すると目をぱちくりさせた彼が、彼女を上目に見た。


「私は殿下がどれだけ暴れても、それに対抗することができます。ですから安心してください。殿下は私を傷つけられませんし、私はあなたを恐れていない」


 これは、彼を落ち着かせるための虚言である。


 本当に力の限り暴れられたら、自分にそれを押さえ込める力などはない。しかしながら彼女は動揺の見えない顔で床に剣先を突き、ゆっくりと王子の前にしゃがみ込んでみせる。


「殿下。私はあなたと共にいる為に、己を鍛えました。なにも不安に思うことはありません。私はもう、あの頃の幼いリリーではないのですから」


 噛みつかれる覚悟で、彼女は獣の頬を撫でた。


 彼はまた雄叫びを上げると、今度はそのまま床に伏して泣いた。


 泣きじゃくる王子が嗚咽の合間に吐露したのは、たった一晩でもここに閉じ込められることの孤独や、こんな自分が憎くて堪らないこと、そして物に当たらなければ到底抑えきれない、この世のすべてへの苛立ちであった。


 絶望に飲み込まれて酷く惨めな気持ちになること。激しい自己嫌悪や、自分をこんな場所へ監禁する両親への恨みなどを、王子は拙い言葉でゆっくりと打ち明けていく。それは彼自身、今までは目が覚めると忘れてしまっていた、悲しい夜の記憶であった。


 リリーは伏せている彼の頭を、毛並みを整えるように撫ぜながら、黙って話を聞いていた。やがて王子は落ち着いてくると、鼻を啜り、じゃれつくように彼女の手に頬を押し当てる。


「あ、そういえば……ま、前に手紙に書いた、睡眠薬……どこへやったかな……」


 彼は起き上がって、大きな体を丸めていそいそと部屋中を探し始めた。そして部屋の隅にびりびりに破かれた自分のベストを見つけると、内ポケットを探って落胆する。


「割れてる……!」

「つ、次からは私が預かりましょう」

「そうだね……」


 立ち上がったリリーは、部屋をゆっくりと見回って、やがて唯一座れそうなベッドを見留めた。


「座っても?」


 うんうんと頷いた彼は、ベッドに腰かけた彼女に続き、自分も隣へ大きな体を縮こめて座った。


「殿下。随分と落ち着いているようですし、折角ですから、今晩は体を休めてみませんか」

「……休める?」

「はい。今までは一人で一晩中暴れていたのでしょう? 今日は、私が側におりますから」


 彼はそうして促されるまま、破れたシーツと羽毛の山の中へ横たわり、毛布の切れ端を体へかけた。


「……起きたら……リリーは、どこかに行ってしまう?」

「いいえ、ずっとお側におりますよ。殿下がそう望まれるのであれば」

「僕が、望むなら……。な、なら、リリーは……好きにしていい……っがぁっくしょん!」


 舞い上がった羽毛が鼻先を擽り、一つ豪快なくしゃみが出る。


「な、何か、話してほしい」

「え、話……ですか。えー、っと……私の事でも、構いませんか?」

「! リ、リリーの事が、いい!」


 嬉しそうに尻尾を揺らした王子に、彼女は兄のことを話してみた。


 勇ましい兄を尊敬していることや、幼少期の兄との思い出を語ると、王子は愛しそうに目を細めて、それを黙って聞く。しかし話に区切りがつくと、ふと寂しそうに呟いた。


「僕が、こんなじゃなければ……リリーと、もっと仲良くなれたのにな」

「……これから、互いを知っていけば良いではないですか」

「でも……! ち、小さい頃の、あのリリーには、もう会えない……ずっと話したかったんだ……本当は。リリーのあの可愛い声を、近くで、聞きたかった、のに……ウ、あぁ、あ」


 自己嫌悪に顔を歪めた王子は、衝動的にシーツを切り裂いた。


 悲しい遠吠えが響き渡る。


 やはり、一筋縄ではいかないか。リリーはそう考えながら再び剣を取り、遠い夜明けを待つのであった。


***


 破れたカーテンの隙間から朝日が差し込んで、リリーの目元を強く照らす。ベッドの上に伏せていた彼女は、顔を擽る動物の毛がないことを不思議に思いながら、ゆっくりと目を開けた。


「!? っあ、で、殿下……」


 すぐ隣で、白く滑らかな胸板が、穏やかに上下している。


 リリーは慌ててその体から顔を背けて、部屋の扉の側に置かれている彼の衣服に目をやった。簡単なシャツや肌着、キュロットしかないが、肌を隠すにはそれで充分である。


 そっとベッドを下りて、シャツを彼の体にかける。


 すると手元で、何かの身動ぎする気配を感じた。


「ん…………リリー……?」

「あ、殿下……! お、おはようございます。さあこれを、お召し物をお受け取りください!」

「え? ……あぁ、うん」


 急かすようなリリーの声に、彼は自分の体を見下ろして、すぐにそれを受け取った。寝ぼけ眼のまま、自分に背を向けるリリーを見つめながら服を順々に身につけていく。


 もういいよ、と声を掛けられたリリーが振り返ると、そこにはすっかり見慣れたいつもの王子が、ベッドに腰かけていた。


「……私、その」

「ねぇリリー……まだここにいて」


 まだ少し寝ぼけている様子の彼は、彼女へ手を伸ばして腕を掴むと、そのまま羽毛の山に背を倒した。真っ白い羽根が舞い上がり、二人の顔の上に落ちていく。


「うわっぷ、は、羽根が、」

「もうひと眠りしよう……?」

「ですが殿下、もうお時間が……」

「……うーん」


 彼は腕の中のリリーを抱き寄せて、花の香りのする髪に頬ずりをする。


「昨日は、とても安らげた……あんな夜は初めてだったよ……ありがとう、リリー」

「殿下……まだまだこれからですよ。共に、もっと良い夜を探していきましょう」


 悲しむ必要などない、穏やかな夜を。


 彼女はそう言って、王子の温かな体温に誘われて静かに目を瞑った。

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