代償

咲月 青(さづき あお)

 

 ある中年ちゅうねんの男がいた。

 男は独身どくしんで、古いアパートの一室に暮らしていた。仕事は単調たんちょうで決して高給こうきゅうとは言えず、毎日同じ事の繰り返しだった。無趣味むしゅみで友人もおらず、休みの日はもっぱら寝て過ごすか、近所を散歩するくらいしかすることがなかった。

 男には、3歳はなれた兄がいた。兄は男とは正反対で、学生時代から成績が良く、地元の一流企業いちりゅうきぎょうに入ってバリバリと働いていた。10年前に結婚して一軒家いっけんやかまえ、年老としおいた母を引き取って暮らしている。男はそんな兄に顔向かおむけできず、もう何年も地元じもとへ帰っていなかった。時折ときおり母から様子ようすうかがいの電話が入っても、男は不機嫌ふきげん二言三言ふたことみこと話してすぐに切った。


「ああ、何てつまらない人生なんだろう。こんなことなら、死んでしまった方がはるかにマシだ」

 夜、布団ふとんに寝転がりながら、男は深いため息をついた。すると突然、暗闇くらやみの中で奇妙きみょうな声がひびいた。

「良かったら、お手伝てつだいしましょうか」

「ええっ」

 男は吃驚びっくりして、電灯でんとうのスイッチに手を伸ばした。

「おっと、明かりはそのままにしてください。私の姿を見ると、あなたの目がつぶれてしまいます」

「何だって? お前はいったい何者なにものだ。泥棒どろぼうか」

「ご冗談じょうだんを。泥棒どろぼう目的なら、こんなボロアパートはねらいませんよ。私は、悪魔あくまです」

悪魔あくまだって? そんな馬鹿ばかな」

 男は頓狂とんきょうな声を上げた

「まあ、信じていただかなくてもかまいませんけどね。やみからやみへと渡り歩いていたら、あなたのなげき声が聞こえたのです。死ぬとは尋常じんじょうではない。こう見えても、私は人道主義者じんどうしゅぎしゃなのです」

 人ならぬものが〝人道じんどう〟とは、どういうことか。男はますます胡散うさんくさく感じたが、一方で自暴自棄じぼうじきにもなっていたので、この茶番ちゃばんに乗ってやろうという気になった。

手伝てつだいというと、俺のつまらない人生を変えてくれるのか?」

「変えて欲しいとおっしゃるなら、そうしますよ。ただし、私はかみではありませんから、奇跡きせきは起こせません。くまでも原因があってこその結果しか、み出すことはできませんが」

「どうもよくわからないな」

 男は首をかしげた。

「つまり死者ししゃよみがえらせろとか、石を黄金おうごんに変えてくれとか、もう一度10だい若返わかがえりたいとか、そういった願いはかなえられません。そんな芸当げいとうができるのは、神様かみさまだけです。恋人こいびとを見つけるとか、今より良い会社に就職しゅうしょくするとか、趣味しゅみを見つけるといった、現実的げんじつてきなことならばお手伝てつだいできます」

「ううむ。悪魔あくまという存在自体そんざいじたい非現実的ひげんじつてきだというのに、何だか矛盾むじゅんしているな。じゃあたとえば、世界中せかいじゅうの女にもてたいと言ったらどうなる?」

「それはむずかしいですが、あなたを今より少しスマートにして、髪型かみがた服装ふくそうのセンスを変えることはできますよ。そうすれば周囲しゅういの女性の何人なんにんかは、あなたを見る目が変わるんじゃないですかね」

「なんだそれは。それじゃ全然魔法まほうとは言えないじゃないか」

 男はあきれて、憤慨ふんがいした。

「だから言ってるでしょ。奇跡きせきは起こせません。私はしがない下級かきゅう悪魔あくまなんですから、そう無茶むちゃ言わないでくださいよ」

 悪魔あくまは、なさけない声で言った。

「だって、それじゃたいして人生が変わるとは思えないじゃないか」

「そんなことはありません。刺激的しげきてきな人生をおのぞみであれば、海底かいていに眠る古代こだい財宝ざいほうを発見するなんてどうです? 場所を教えてあげますから、あとはもぐって引き上げるだけですよ。または思い切ってこの国を飛び出し、世界的規模せかいてききぼ一流企業いちりゅうきぎょうで働くというのは? 偶然ぐうぜんよそおって役員やくいんおんでも売れば、そうむずかしいことではありません」

 男はなやんだが、ダイビングの経験けいけんはないし、語学ごがく才能さいのうもなく、今さら努力どりょくする気力きりょくもなかった。元来がんらいがものぐさなのだ。男がいつまでっても結論けつろんを出さないので、悪魔あくましびれを切らした。

「そろそろ決めてくださいよ。私もひまではないんですから」

 そうかされて、男はついに決断した。

「わかった。じゃあかねだ、かねが欲しい」

 どんなねがごとでも、結局けっきょくかねがあってのことだ。かねさえあれば仕事なんかしなくても良いし、兄をかえすような立派りっぱな家も建てられる。かねちになれば、女なんて向こうから寄ってくるに違いない。

かね、ですか。具体的ぐたいてきいくらくらいですか?」

「そりゃ、あればあるほどいい。この部屋へやがいっぱいになるくらい、たくさん欲しい」

 男がいきおんで言うと、悪魔あくまはため息をついた。

「あなたがた人間は、結局けっきょくいつもそこにくんですね」

「なんだ、これも出来ないって言うのか?」

「いいえ、出来ますよ。ただし、金額に見合った代償だいしょうは必要ですが。最初に言った通り、原因があっての結果としてしか得ることはできません」

 男は、少し不安になった。

「まさか、俺のいのち代償だいしょうだなんて言うんじゃあるまいな。死んでからかねが入ったって、何にもならないぞ」

「いいえ、そんなインチキはしません。かねはきちんとあなたの手元てもとに入りますし、自由に使うこともできますよ。これから準備じゅんびに入りますから、どんな代償だいしょうになるかはまだわかりませんけれどね」

 男は、それを聞いて安心した。どうせつまらない人生だ。いのちかねさえあれば、後はどうにでもなる。

「じゃあ、早速さっそく頼むよ」

「念のため確認しておきますが、本当にいいんですね? あなたはつまらない人生だと言うが、仕事と住む家があって健康でいられるだけでも、結構けっこうな人生だと私は思いますがね」

「うるさいなあ。こんなみじめな人生なんか、もうウンザリなんだよ!」

 男がイライラと声を張り上げると、悪魔あくまはまた小さくため息をついた。

「それでは、1週間以内には結果を出しますから」

 悪魔あくまはそう言って、どこへともなく消え去った。


 5日後、男は横断歩道おうだんほどうの途中で、車にねられた。

 相手が大企業だいきぎょうの会長のまごであり、無免許むめんきょかつ飲酒運転いんしゅうんてんによる事故じこだったため、男には慰謝料いしゃりょうくわえて口止くちどめ料として莫大ばくだいな金が転がり込んだ。それこそ一生いっしょう遊んで暮らしても、あまるほどの大金たいきんだった。


 男は、現在病院びょういん特別室とくべつしつにいる。治療ちりょうに当たる医師いし看護師かんごしも、全て優秀ゆうしゅう人材じんざいが集められている。24時間選任せんにんのスタッフが付いており、望めば専用のリムジンでどこにでも行けるし、彼らにあれこれと命令めいれいを与えることもできた。もちろんそれらにかかわる費用ひようも、すべて事故じこ加害者かがいしゃがわ負担ふたんすることになっている。

 いまや男は、手にした大金たいきんで何をるのもどこへ行くのも、全て自由じゆうだった。


 ただひとつ、自分のちからでは一生いっしょう身体からだを動かすことができない、という点をのぞいては。

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代償 咲月 青(さづき あお) @Sazuki_Ao

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