ひとりSTART

言の葉綾

ひとりSTART

「あれ、紗彩は?」

 そう、クラスの子達が言っているのを必死で無視して、私は廊下を足早に駆け巡る。昼休み、購買へ行く人、部活の自主練に行く人、他の教室に出入りする人、トイレで蔓延する女子でごった返す廊下。私はその人混みの間を縫うように、そして行き先が誰にもバレないように、階段までたどり着いた。

 ここから先は、私がずっと踏み入れたくても踏み切れなかった場所。

 今までの私とはおさらばするんだ。だけど、その決意はどこか脆くて、緩かった。そんなことはわかっているのに、この行動に出てしまうということは、私の心は限界に達していたんだと思う。ラインを超えていたんだと思う。

 一時の感情かもしれないけれど、私は逃げることにしたんだ。そう、改めて自分自身に言い聞かせ、飛ばし飛ばしで階段を踏みしめていく。我を忘れてよかった。

 あんな教室にはもう、行きたくない。

 いつもなぜか自由解放されているこの場所。でも案外来る人はいなくて、昼休みは教室が人口密度の高さとお弁当の匂いで充満する。だからこの場所は、いつも澄んでいて綺麗。私がいることで汚してしまって悪いなという良心が働きつつ、私は深呼吸をする。

 グラウンドにどこかの運動部員がいるだとか、そんなことを気にする余裕もなく、酸素を肺に送り込んだ私。

「ああ! もうなんなのよ! なんでみんな、そんなに悪口や根も葉もない噂に同調するの!? それで自分の意見を言ったらハブられて終わりでしょ!? なんなのよ、本当に! もう、あんな奴らとなんか‥‥」

 心の奥底で腐敗していた感情を曝け出している最中に、ふと足音が聞こえた気がした。怖気が増しながら背後を振り向くと、金髪をサイドで三つ編みにした綺麗な人が立っていた。

 なにかを抱えている。

「あの」

「え! あ、え、えっと‥‥」

 しどろもどろに視線を泳がせる私を、その人はじっと、美しい双眸で見ていた。

「ここでお昼食べたいんですけど、いいすか?」

「へ! どうぞ! わ、私、戻るんで!」

 この人は、見た目ではなかなか判断がつかないけれど、男子であるようだ。ラズベリー色のブラウスにジーンズという格好。ファッションセンスがあるらしい。

 と、そんなことを考える余裕はなかった。今までの不満が爆発しているところを、見知らぬ少年に見られてしまった、という羞恥で体は染め上がっていた。戻りたくないけれど、教室に戻るしかない、それとも校舎を徘徊するか。その選択肢しか、私には残されていないようだった。

「戻らなくていいですよ。座ったらどうです」

 少年は、あそこ、とでも言うように、少し離れた位置にある、ベンチを指さした。屋上にベンチがある、という話は、私も知っていた。

「それだけ叫ぶってことは、よほど鬱憤が溜まっていたんでしょうし。いったん落ち着きましょ」

 少年は私を奇異の目で見ることもなく、平然とベンチへ促してくれた。この状況を飲み込めていないのは、私の方であるようだ。少年はベンチに腰を掛けると、ふう、と息を吐きながら、いただきます、と丁寧にあいさつをしてお弁当箱を開けた。

 ずっと立っているのもあれなので、私も座ることにした。

「すみません、せっかくのお昼なのに、しかも公共の場所なのに、私情で叫んでしまって」

「俺はいいですよ」

 少年はおかずのたまごを箸で掬い上げながら、声のトーンを落とさずに言う。

「だけど、あの子」

 少年が再び指さす方向には、私たちの方をじっと見ているひとりの少女がいた。私が叫んでいた場所からちょっと離れた場所、だけど同じ屋上。先客がいたとは。彼女の存在に気付かず叫んでいた自分に対し、先ほどと同じ様な羞恥が湧き上がってくる。

「俺が弁当食べる時、いつもここにいるんです。喋ったことはないんですけどね」

 少女はハムスターを連想させるかのように、ぷるぷると身体を震わせていた。愛らしい、という表現が、似合うような感じだ。

「あなたが叫んでいたの、聞こえていたと思います」

 少年は少女に手招きをする。その様子に警戒心が解けたのか、少女は私たちの方へ歩みを寄せてきた。

 少女は運動着姿だった。そして、胸元に名前が刺繍してある。

 大園れいか。よく私の別なクラスの友人が、口に出す名前だった。

『学校サボり』『不登校』

 あいつらの言葉が、反芻している。

「こ、こんにちは…すみません、プライベートな話を聞いてしまって」

「え、あ、私が急に叫んだのが行けないのであって、あなたが謝ることじゃないですよ!」

 うまく呂律が回らなかったけれど、大園さんが謝ることでは絶対になかった。

 むしろ、謝るのは私の方。

「いつもいるよね」

「あ、はい。あなたこそ…どこのクラスの方かは知らないですけれど、いつもここでお弁当食べていらっしゃいますよね」

 あいつらはよく言っていた。大園れいか、全然グループワーク来ないんだよ。体育もそうだし。いつも来ない。授業嫌なんじゃない? え、うちらのこと嫌いだから来ないとか? うちらの方がお前のこと嫌いだっつーの。バカじゃないの?

 言葉遣いが丁寧な子、おとなしそうで自己主張が控えめ、という感じの子なのに。あいつらが間違っている気がする。

 いつも、いつもだけれど。

「え、君、いつもここでお弁当食べてるの?」

 少年は、おかずのウインナーと睨めっこしながら、「うん」と素っ気なく言う。

「だって、教室嫌いだから。机とかお構いなしに占領されるしね」

 教室が嫌い。

「あなたも…あ、名前は」

「俺? 間宮息吹」

「息吹さん…息吹さんも、教室嫌いなんですね」

「そうだよ。さっき、この人が叫んでること、めっちゃ共感できた」

「わ、私もです」

 間宮くんと大園さんの視線が、私の瞳に集中した。不慣れな状況に、たじろいでしまう。

「名前は」

「わ、私? えっと、日下部紗彩」

「私も、息吹さんも、紗彩さんも、同じ気持ちなんでしょうか」

 大園さんは、地面を優しく視線でなぞっている。間宮くんは、お弁当をただひたすらに口に運んでいる。私は、叫んだ衝動とふたりに内容を聞かれた羞恥のせいで、喉がカラカラだ。

 今は、羞恥なんてないけれど。

「なんでみんな、悪口に同調するんだろうね。嫌って思っている人も含めてだよ。保身に走って、結局自分の想いは言えずに閉じ込めて、心で腐らせるの。バカバカしくない? 悪口いう奴は周囲のこと考えてないし」

 間宮くんが、ふとそう零す。大園さんの表情が、ちょっと引きつった気がした。

「私、クラスで疎まれてるし、隣の席の古賀さんって子が他の友達に私のこと言いふらしてるみたいです」

 古賀。私の別なクラスの友人、大園さんの文句をよくつらつらと言っている奴だ。自分のクラスで黙って弁当を食べていればいいのに、なぜか私のクラスに来て、私のクラスの人よりもでかい声を出している。

「他人に興味ある時間あるなら、自分のこと見つめ直せば? って思うわ」

「そうですよね」

「俺のクラスの奴ら、まじで自分を持っていないの」

 自分を持っていない。その言葉は、私の心の奥に突き刺さる。

「自分を持っていないから、他人にすぐ流されるの」

「でも、他人を流していく側も、果たして本当は何がしたいんだろうって思っちゃいます」

「それな。本当に」

 間宮くんは弁当箱の蓋をしめ、大きく伸びをする。

「自我を持ってる人がひとりでもいればいいんだけどね。他人に自分を委ねない人というか」

 間宮くんのその言葉を最後に、会話は途切れた。

 中庭から、女子たちの黄色い声が聞こえてくる。さっきは聞こえなかった声たち。私の叫びが聞こえたかなとも思ったけれど、なんだかどうでもよかった。

 自我を持っていない人が多い。自分という存在を、他人に委ねている。間宮くんの表現が、すごくしっくり来たと思う。私は語彙力がないからうまく言えなかったけれど。

 根も葉もない噂に保身のために同調。高校生のビタミン剤は、周囲の噂や気に食わない奴の悪口なのではないかと疑ってしまう。古賀は大園さんの悪口で誰よりも笑っているし、他の奴らもそう。

 自我が不安定で、個性が確立していない。

 他人に興味を示す前に、まずは自分を見直せばいい。

 本当に、その通りだ。私は沈黙のなかで、二度三度、頷いた。

「真の…自我が出来上がっている人同士、自分を持っている人同士の会話はきっと、美しいんだろうな‥‥純水のように」

 大園さんも、語彙力がある人だ。私はなんも喋っていないのに、ずっと喉が潤いを欲している。

「クラスに、自分を持っている人がいないから、私居づらいんです。逃げちゃうんです。気持ち悪くて。意味わからない理由ですよね…実際、結構裏では文句言われてますから、それを勝手に理由にして、授業サボってます」

「いつもここで何してたの」

 間宮くんが、大園さんに優しく問いかける。

「四つ葉のクローバーを探してます」

「四つ葉のクローバー?」

 この時、私はようやく声を上げた。

「四つ葉のクローバーって、排気ガスとかを吸ってしまったことによる突然変異で生まれたものなんです。凄いですよね、たとえ他とカタチが違っても、頑張って生きようとするの」

 大園さんは優しく、緑の芝生に向かって微笑んだ。

 カタチが違っても、頑張って生きようとする。

「…いい趣味ですね」

 私の言葉は、オレンジの最後の果汁を振り絞った時の僅かなしずくが滴る音に似ていた。

「これが唯一、私が学校に行く意味かもしれません」

 大園さんは、きっと芯が強い人。たとえ教室が息苦しい場所でも、こうして意味を見つけて、学校に来る。

 私は結局、今日やっとあいつらのもとから抜け出せたというだけだ。しかも一時的なもの。

「ありがとう」

 間宮くんが大きくのけぞりながら言う。私も大園さんも、思わず間宮くんの方を見てしまった。

「俺、いつもここで教室嫌すぎて、気持ち分かち合える人もいなくて、この時間が有限であることに嘆きながらお昼食べてたんだけど…でも、今日はふたりと話せて、気持ち分かち合えて、嬉しかったよ。午後はサボろうかな」

「私こそ、ありがとうございます、声かけてくださって。友達いないから…気持ちわかってくれる方がいて、嬉しかったです。私もサボります」

 ふたりは、気持ちを言葉にできる人だ。だけど私は、さっきから言葉をうまく紡ぐことができない。ふたりの言葉に、うんうん、と頷いているだけ。納得できることだから、いいかもしれないけれど。

 

他人に、委ねている。

 

ふと、私は視界を空に向けた。


『自我を持ってる人がひとりでもいればいいんだけどね。他人に自分を委ねない人というか』


 言葉にしないと、いけない。ふたりの言っていることに頷くだけじゃなくて、自分の言葉で、自分の想いを。

 大園さんと間宮くんの前でも、同じクラスの不愉快な奴らの前でも。

「私、辛かった」

 自然と、言葉が零れた。大園さんと間宮くんの視線が混じり合う。

「皆が言うことに納得できなくて、でも皆同調してて、それが嫌なのに、私、どうしたらいいのかわからなくて」

 私は藻搔いていた。ひとつの行動を起こす勇気さえ、湧いてくるのに時間を要した。

「気分悪いのに、辛いのに、いたくないのに、教室にずっといた」

 ふたりより、語彙力はないけれど。

「なんでなんだろうって、よくわからないけれど、ずっと心では叫んでた。私の心の底から話せる相手なんてどこにもいないのに、なんでなんだろうって」

 湧きおこる、今までの苦しかった自分。

「大園さんと間宮くんの言う通りなんだよ、自我を持っている人同士の心からの会話はきっととても美しい、自我を持っている人がひとりでもいればいいのにって、まさにその通りだよ。きっとその人がいたら、私はその人と仲良くなれるのに」

 私は立ち上がる。ベンチの少し硬い木質の音が、はっきり聞こえる。

「だから、私たちがなればいいんだよ」

 大園さんと間宮くんの瞳孔が大きく見開かれたような気がする。

「自我を持っている、ひとりに」

 自分で、何を言いたいのか、まったく整理がつかないまま口にした言葉たち。案の定、よくわからない。張本人でも、よくわからない。

 でも、言葉にできた。支離滅裂でも。

 自分ひとりで勝手に叫ぶのではなくて、このふたりの前で。

 私はいつの間にか、ふたりに手を差し伸べていた。

「今からひとりになるけれど、友達!」

 今は心から、笑えている気がする。学校で心から笑顔になれるのは、いつぶりだろう。大園さんと間宮くんは、私の方を不思議そうに見た後、真の微笑みを浮かべて、私の両手を握りしめた。

「あ、改めて大園れいかです。れいかって、呼んでください」

「間宮息吹。息吹でも、いぶでも、なんでも」

「私は日下部紗彩。紗彩でいいよ!」

 地面に映る私たち三人の影が、新たな門出を、祝福してくれている。

「ひとりになるのに、ひとりじゃない」

 チャイムの音が鳴る。お昼休みの終わり。

 でも、私たちの始まり。


                                   (終わり)

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