六十九話 遺伝子と模倣子

 戌族(じゅつぞく)は黄指部(こうしぶ)の邑。 


「子どもたちが帰ったら、使っていいそうだ」


 翔霏(しょうひ)の交渉は上手く行ったようだ。

 私たちは邑にある学堂で、一泊の屋根を借りることができた。


「本当にありがとうございます。助かりました」


 教師役をしていた背の高いお姉さんに、深くお礼を述べる。

 

「いえいえ、知人には親切にせよ、知らない人には、もっと親切にせよ。昔から伝わることわざです。私たちを頼ってここにいらしたのも、なにかの縁でしょう」


 聖人か~。

 私が癒されていると、横にいた軽螢(けいけい)が、なにか張り切って言った。


「お姉さん、俺、翼州(よくしゅう)から来た応(おう)ってんだ。一宿の恩だしな、なにか困ってることがあンなら、力になるぜ」


 謎のドヤ顔で頼れる男アピールをする軽螢に、ふふふと柔らかく笑って、お姉さんは答える。


「ありがとうございます。私は邑の豆腐屋の娘の、糖藤璃(ととり)と申します。夕方だけ学堂で子どもたちの番をしているんです。今いま困っていることは、特にありませんけど」


 そこにパタパタとチャーミングな足音を鳴らして男の子が寄って来る。

 もう会えなくなった顔なじみによく似た、可愛い子だ。


「この子は多汰螺(たたら)、私の弟です」


 糖藤璃さんに紹介されて、きょとんと私たちの顔を見る多汰螺くん。

 そうか、豆腐屋の、せがれなのか。


「坊主、よろしくな!」


 弟にもしっかり、いつもより気合いの入った笑顔で挨拶する軽螢。


「外のでっかいヤギ、食べるのかー?」


 多汰螺くんにとっては、私たちよりヤギが気になるらしい。

 ところで、まさかとは思うけど。

 軽螢、貴様。


「背の高い女の人が好きなの?」


 糖藤璃さんが子どもたちを家に送るために、いったん離れたタイミングで、私は聞く。

 おそらく今の私、ものすごく渋い顔をしている。


「え、な、なんのことだよ。知らねーよ、そんなの」


 明らかに目を泳がせていた。

 翔霏が棍の汚れを丁寧に拭きながら、ボソリと呟く。


「背丈と尻の、大きい女が好みなんだよな」


 ケツ派だったかー。

 冬服の上からそんな部位、意識もしねーわ。

 軽螢は着衣の上からでも女性のプロポーション、特に尻のシルエットが細かくわかる、きわめて特殊な能力持ちか?


「翔霏も余計なこと言うなし! やらしーんだよ二人とも! 覇聖鳳(はせお)を倒すための厳しい旅の途中なんだぞ!」


 必死になって、自分の性癖を誤魔化し通そうとする、十六歳の男子がそこにいた。

 そもそもお前が一番、今回の旅において真剣じゃねーだろ、と私は激しく心の中で突っ込んだ。


「マァ、年頃の男子ですからネー。潤いを求めても仕方ないですネー」


 棒読み口調で、私は軽螢からずいぶん離れた場所に、枕となる荷物袋を置き直す。

 言われてみると、翔霏はスポーティースレンダーで、私は脂肪も筋肉も少ない単なるちんちくりん。

 豊満でケツのデカい、どっしりとした地母神土偶タイプの色気とは、かけ離れている。

 後宮には、何人もいたけれどね、そういうお妃さまや侍女たちが。

 毛蘭(もうらん)さんとか、呂華(りょか)美人とか、背も高いしお尻も大きいし、軽螢にはドストライクかも。

 みんな、元気にしてるかな。


「お待たせしました、寒かったらいけないので、これ、使ってください」


 冷ややかな沈黙が私たち三人の間に流れる中、糖藤璃さんがやって来た。

 三人分の毛布と、大きな陶器製の水筒を抱えている。


「いやいやそんなことまで! 言ってくれれば運んだのに! ヤギが」

「メェ!」


 ダッシュで駆け寄り、大荷物を受け取る軽螢。

 フットワーク良いなぁおい。

 自分で運ぼうとしないあたりは流石だなと思った。

 ヤギも入口の土間部分に入れてもらい、ミルクと干し草まであてがわれ、心なしか上機嫌に見える。


「本当に申し訳ありません、突然押しかけてきて、こんなにご迷惑かけて」

「恩に着ます」


 私と翔霏も糖藤璃さんから毛布を受け取り、いくばくかの謝礼を包もうとした。

 質素な旅を続けてはいるけれど、決してお金に困っているわけではないのだ。

 環家(かんけ)の放蕩息子、椿珠(ちんじゅ)さんと言うスポンサーもついたことだし。


「そんな、いいんですよ。それより麗央那(れおな)さんは、泰学(たいがく)の書生さんなんでしょうか?」


 私の荷物から顔を覗かせる、恒教(こうきょう)と泰学の、二冊。

 その分厚い本を見て、糖藤璃さんが聞いてきた。

 いつだったか、同じ質問をされたことがあったなあ。


「いえ、ちゃんとしたところに通って習っていたわけじゃないんですけど。自分なりにのんびり読んでいるだけです」


 あのときはこの質問に「知らない」と答えるしかできなかったけど。

 私自身もこの半年ほどの時間で、いろいろ変わったものだな。

 感慨深く思っていると、糖藤璃さんが申し訳なさそうに、恥ずかしそうに言う。


「私、この学堂で邑の子どもたちに恒教を読んで聞かせているんですけど、泰学のことまでは詳しくわかっていないので、少し、教えていただけないかと……」


 バイトかボランティアで預かり保育をやっているだけだろうに、勉強熱心なことだなあ。

 泰学は恒教の内容を拡大、補足した書物であり、恒教の注釈書みたいな性質も持っている。

 恒教を読んでいないと泰学に進んでもあまり意味はないし、泰学を読まないと恒教の内容を深く理解するのは難しい。


「と言っても、私も人に教えられるほどのものじゃないので」


 私が躊躇していると、冷めた目で翔霏が軽螢を見て、言った。


「こちらさんはお困りのようだぞ。力になれるなら今じゃないのか」

「え? た、泰学はね~、いやまあ、俺も、ちょっとはかじったけどな? ま、まあ、わからんところがあるなら、試しに聞いてみなよ」


 ええかっこしいを的確に追い詰める翔霏、グッジョブである。

 口でも暴力でも、人を攻撃するのが本当に上手だよな、翔霏は。

 三人寄ればなんとやらと言うので、軽螢が役立たずでも、私と翔霏で力を合わせて、なんとかしてみせましょう。


「助かります。あ、飲み物、冷めないうちに召し上がってください。お口に合うかどうか、わかりませんけど」

「かたじけない、頂きます」


 真っ先に翔霏が、陶器から注がれる乳白色の飲料を杯で呷った。

 私もそれに続いて、まだ温かいその飲み物を口に含む。


「甘酸っぱくて美味しい」


 小学生並の感想が出た。

 なにか動物の乳と、なにかの穀物、糖分のミックスだろうか。

 若干の乳酸菌的な酸味、コクが奥に潜んでおり、飲みやすいけれど複雑な味わいで、これは良い。


「羊の乳とキビの汁を寝かせて、繰り返し継ぎ足しながら作るんです。うちの店で、豆腐と一緒に売ってます」

「こりゃうんめーよ! 出発する前に糖藤璃さんのとこでたくさん買い溜めしていこーぜ! これを買わずに邑を離れたら絶対に後悔するって!」


 軽螢は多少のスケベ心から言ってるんだろうけど、意見自体には私も同意である。

 旅に水分糖分は絶対に必要なのだから、せめて美味しいものを用意するのは大事だよね。


「気に入っていただけてなによりです。それで、泰学の『知見』の項目についてなんですけど……」

 

 そうして、夜が更けるまで糖藤璃さんと座を囲んで、私たちは恒教と泰学の談義に励むのだった。

 知ることの第一歩は、まず見ること。

 泰学で言うところの「見る」は、文字通り目で見たり、耳で聴いたり、あるいは匂いを嗅いだり、触ったり、データを調べたりということも含む。


「五感を使って表面的に見聞、体験することが『見』で、それを基に頭を働かせて理解を深めることを『知』であると、泰学では言ってるんですよね」


 私の解釈を真剣な眼差しで聞き、ふむふむと糖藤璃さんは相槌を打つ。

 これ、姜(きょう)さんや別の人から教わったことの受け売りなので、偉そうに講義するのは恥ずかしいな。

 でも、そうだとしても。

 いろいろな人から教わったことを、今度は私が、別の誰かにバトンのように受け渡す。


「こんな自分でも、遺せるものがある」


 あの人は、そう言ったっけ。

 先の満月の日、私が金持ちの不良息子に夜這いを仕掛けられたあの夜。

 牛に五体を引きちぎられて、もうこの世からオサラバして行った、私の恩師。

 彼から教わったことは国境を越えて、今もこうして遺され、広がって行くのだった。


「頭、痛いナリィ」


 翌朝。

 私は寺の鐘が脳内で鳴り響いているかのような頭痛に苦しみながら、目を覚ました。


「あれだけ飲めば、そうなる」


 最初の一杯しか、乳糖飲料を飲まなかった翔霏が、ケロッとした顔で言った。


「酒だってわかってたなら、言えよ~……」


 うえっぷとえずきながら、軽螢が恨み言を言うのであった。

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