第九章 黄指部の村落

六十八話 漸進

 国境の関門を越えると、そこは草原だった。

 と言うことは、まったく、なかった。

 素朴ではあるけれど、賑わいのある邑の姿が、私たちの前に広がっていた。

 巨大テントが点在するような、いかにもな遊牧騎馬民族の移動集落を想像していた私。

 意表を突かれ、ほけーっとした顔で人や建物を観察する。


「なにか良い匂いがするな。肉でも焼いているのか」


 五感の鋭敏なことこの上ない翔霏(しょうひ)が、じゅるりと涎を飲んで香気の出どころを探る。

 とりあえず物見遊山で適当に歩いていると、日焼けしたおばちゃんに話しかけられた。


「おや、可愛い旅人さんたちだね。あんたたちも『素乾望楼(すかんぼうろう)』の市場に来たのかい?」


 着ているものが革のジャケットやズボン、毛の帽子とマフラーだ。

 やっと異国情緒を発見できて、少しホッとする。

 獣の革で作ったシンプルで丈夫そうな沓が、覇聖鳳たちの履いていたものと、よく似ていた。


「環家(かんけ)の使いっ走りで来たんだ。スカなんとかって、なんだい?」


 軽螢(けいけい)が当たり障りのない返事をする。

 国境を越えるための書類で後見人になってくれたのは、椿珠(ちんじゅ)さんだ。

 来訪目的は「商用」となっていた。

 私たちは戌族(じゅつぞく)の土地を移動する間、あくまでも「商人のおつかいで来た」と言う体裁を保たなければならないのだ。


「明日から市(いち)が開かれるところさ。東西から色んなものが集まるよ。ぜひ顔を出すといい」


 詳しく聞いたところ、素乾望楼と言うのはどうやら邑にある大きな建物の名前らしい。

 そこの広場で、バザールが開かれるようでござーる。

 パセリやセージ、ローズマリー、タイムなんかの香草類を買い求めれば、私にも素敵な恋人ができるだろうか。


「だから邑の中が、なんだか賑やかなんですね」

「そういうことさ。アタシも孫が着る綿入れを買おうと思っててねえ。今年の夏は暑かったから、冬は逆に寒くなるんじゃないかと思うのよ」

「それは、お孫さんも喜ぶでしょう」

「この歳でおばあちゃんになっちまうだなんて思ってもみなかったけどねえ、やっぱり孫は可愛いもんさね。目がくっきりとしてて、きっといい男になるよあれは」

「ハァ、それは楽しみですね」


 などなど、結構な長話を聞かされて、私たちは解放された。

 別れ際に飴ちゃんをもらった。

 カロッ、とすぐさま口に放り込み、翔霏が言う。


「食料を買い足すためにも、市場は見ておかなければならない。情報も得られるだろう」


 提案ではなく、断定、いや命令だった。

 翔霏の真っ直ぐすぎる眼差しが、明日の市場を見聞しなければいけないと、強烈に告げていた。

 私が豹の怪魔に食料の備蓄を差し出してしまったことに、強いわだかまりを覚えてるのかもしれない。

 うううう、ごめんね。

 でもあのときは、ああするしかなかったんだよ。

 明日のスカンボローの市では、思う存分、たくさんお食べ。

 とりあえず、今の空腹を埋めるために、芳香を漂わせていたミンチ肉の串焼きを、みんなで買い食いする。  


「市場ってことは、馬に乗って商売してる連中が、集まって来るってことだよな」


 道の端っこで、食べながら話し合う。

 美味しいけれど、なんの肉で作られているかは不明だ。

 軽螢の言葉に私は頷きながら考える。


「覇聖鳳(はせお)たちと鉢合わせるなんてことは、流石にないと思うけど」


 希望的観測であり、確証はない。

 覇聖鳳はまず根拠地に逃げ帰って、体勢を立て直す作業を優先すると思う。

 もちろんこれは、覇聖鳳と「まだ対決の機会ではない」と思い込んでいる、私の主観だ。

 そんな希望をあざ笑うかのように、物事は意図していないタイミングで、予測もつかない方向から、急にやって来るのだ。


「翔霏、もしも覇聖鳳に近い関係のやつがいても、早まったことはすんなよ」

「わかっているさ。ここで騒ぎを起こしても、相手を無駄に警戒させるだけだ」


 お腹に食べ物を入れたおかげで、ずいぶんと険の取れた顔になった翔霏が、聞き分けよく答えた。

 そう、逃げ足の速い覇聖鳳に対して必殺を期するのであれば、環境、場所、条件を十分に見計らってからでなくては。

 明日の市場で、ひょっとすると覇聖鳳とは別で動いている青牙部(せいがぶ)の面々が、物を売りに来る可能性はある。

 かと言って万が一、そいつらと私たちがもめ事を起こしたら、逃げた覇聖鳳の警戒心をますます強くしてしまうだけだからね。


「明日の予定と心構えは決まったし、寝るところ探そうぜェ」

「メメェ……」


 軽螢と白ヤギが、今日はもう働きたくないという意志を表明した。

 寒風吹きすさぶ北の大地、その真冬に差し掛かる今にあって、そろそろ野宿は厳しい。

 屋根と壁のあるところで、最低限の寒さをしのぎたいと思い、邑の中を散策していたら。


「八畜(はっちく)が天の下を平らかにし、官を定め六十四の氏族を分かちたもうた!」


 通りかかった建物の中から、そんな声が聞こえた。

 声変わり前の男子が持つ、高く可愛い声だ。

 内容は、昂国(こうこく)で尊ばれる歴史と神話の教典、恒教(こうきょう)の序盤である。


「学堂か。こんな夕方まで熱心に勉強しているとは、立派な子たちだ」


 翔霏が感心して言った。

 どうやら子どもを預かって勉強させる教室らしい。

 学校と塾と学童保育の、中間的性格を持った施設だろう。

 先生と生徒が一緒に恒教を読み下して、文字の読み書きや歴史を学んでいるのかな。

 

「戌族の黄指部でも、恒教を教えてるんだねえ」


 私は素朴な感想として言った。


「そりゃあ、戌族だって八畜八氏には違いねえし、恒教くらい読むだろ」

「ここは特に昂国八州に近い土地だからな」


 軽螢と翔霏にそう言われて、私は今までの前提認識を大幅に修正するのだった。

 国境を越えたからと言って、いきなり馬で羊を追って暮らしている民がたくさんいるわけじゃない。

 人々の暮らしぶりや街並みの変化は、グラデーションのように、ゆっくり、じんわりである。

 その段階的変化の端っこにいる、覇聖鳳という男。

 やつがなにを考えて生きているのかは、その中間を探って行かないと、わからないのだ。


「なら六十四氏の中で、人の歴史として最初に八州を一つにした氏族は、わかるかな?」


 学堂の中では、先生役の若いお姉さんが、子どもたちに質問する。


「司天(してん)氏」


 立ち止まって中の様子を見ていた私は、小さな声で回答を呟く。

 翠(すい)さまや玄霧(げんむ)さんの実家である司午(しご)氏の先祖と伝わる、亥(いのしし)の氏族。

 そこから同祖分派した、司天という一族が、泰学(たいがく)に登場する歴史上で最初の王朝だ。

 司天氏の王が、バラバラだった八州、太古では八国と呼ばれていたこの土地を統べる存在、天子であることを宣言したのだ。

 古事記や日本書紀で言うところの、神武天皇的な人がいたわけですな。


「最初の大王さまは、腿国(たいこく)司天氏の、光建王(こうけんおう)さまー!」


 子どもたちのうち一人が、元気よく正解を述べた。

 おお、よく勉強しておるな。

 ハテ、と首をひねっていた軽螢よりも、歴史をちゃんと知っているじゃないか。


「学堂は夜になれば人はいなくなる。ここで宿を取っていいか話してみよう」


 翔霏がそう言って門の前に行き、先生役のお姉さんと交渉してくれた。

 入り口から子どもたちが、なにごとかと様子を見に出て来る。


「あ……」


 軽螢がその子どもたちを見て、なにかを言いかけて、やめた。 


「どしたの」

「いや、なンでもねえよ。気になったことがあったんだけど、気のせいだった」


 私が聞いても、そう言ってごまかした。

 実は私も、軽螢がなにに気付いてなにを思ったのか、彼の視線の先を追って、わかっていた。

 年端もいかない子供たちの群れに、見知ったような顔がいたのだから。

 でも、いるわけはないのだ。

 石数(せきすう)くんは、もう死んでしまったのだから。

 半分焼けた彼の骸を、私はこの手に抱いたのだ。

 他人の空似ってあるんだな。

 そう思いながら、私は久しぶりに、必死で涙をこらえるのだった。

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