12 道標(完)
――自分は何に心を奪われたのだろうか。
遙か昔に聴いた歌を思い返しながら、吟遊詩人は考えた。
帰らぬ精霊。三番目の楽句こそは、確かに哀悼歌のようだった。いや、逝ったものを悼むだけではなく、残された者を慰めるような。
黄金の精霊を死者になぞらえ、彼らは生者には行けぬ美しい場所にいるのだと言っているような。
あれは遠い記憶。美しい状景の記憶は、薄れ出していた。大事に抱き続けようと思った景色は、もうぼんやりとしてしまっている。
だが、いまの彼であれば、年に一度の夜にあの森をひとりで訪れても、あのときと同じ術を自分に行使できる。蝶が現れるかは判らないが、黄金の花を見て記憶を新たにすることはできる。
しかし、訪れて何になる? 魔物を見たがった魔術師はもうおらず、デンも既に亡く、コトもまた、サルフェンを出て遠くへ去った。
時間は流れた。あの少年もいまでは、デンと同じくらいになっているはずだ。それとも、もう死んでいるかもしれない。
時間は、流れたのだ。
彼以外には、平等に。
詩人は
不意にあの歌を思い出したのは、あとにしてきた
この世のものでありながらこの世のものではないような世界。どこか似ているとも思った。
こうして人混みに帰ってくると、ほっとする。
砂漠は心を落ち着かせてくれるし、〈忘れられた町〉は彼の疲れ、それと痛みを少しだけ癒してくれる。それでも彼の属する世界は雑多な人々の間だった。
(属する、世界)
(もしまだ)
(僕にそんなものがあるとしてだけれど)
吟遊詩人は隣の若者を見やった。
浅黒い肌に、黒い髪。この東国では珍しくない外見だ。クラーナのような薄い肌色の者も珍しくはないが、この付近では少数派になる。
これは、リ・ガンの〈鍵〉。ただし、彼のではない。
クラーナは、シャムレイの第三王子にして〈砂漠の子〉と呼ばれる若者が、賑わいに戸惑っていることが判った。親しみのあるものに対して戸惑う自分自身にまた、戸惑っていることも。
「シーヴ」
クラーナは今期の〈鍵〉を呼んだ。
「気にすることないよ。運命の転換点を迎えてきたんだもの。これまで見ていた世界が違うように見えたって不思議じゃない」
「ずいぶん、ご存知なんだな」
シーヴと呼ばれた若者は、じろりとクラーナを見る。その強い視線に押されることなく、詩人は平然とうなずいた。
「そうさ、いろいろ知ってるって言ったろう」
「だが俺には話せない、制約がある、と。ご立派だな」
青年はそう言うと、周囲を見回した。見覚えのある大通りを見つけたか、ひとり納得するようにうなずく。
「それじゃここでお別れだ、
「そりゃつれないな、ちょっと待ってくれよ」
クラーナは少し慌てて言った。この〈鍵〉ときたら、なかなか動き出そうとしなかったオルエンに比べて、どうにもせっかちではないか?
「僕と一緒に行こうって気持ちはないの?」
「ないね」
きっぱりあっさりと、シーヴは即答する。
「道しるべならもう要らないんだ。俺には行く先が判る」
詩人は計るように青年を見た。はったりだろうか? 判らない。彼は〈鍵〉ではないのだから、〈鍵〉が何を見るのかは想像するしかないのだ。少なくともオルエンはそのようなことは言わなかったが、あのときといまでは、定めの輪の事情が異なる。
彼自身が――乱したから。
「どこに行くっていうのさ」
その思いは秘め、ただクラーナはそう問うた。
「言わなくたって知ってるんだろう」
いろいろご存知なんだからな、と第三王子は答える。余計な手札を渡してしまったかな、と詩人は少し後悔した。
「長の言葉を忘れたのかい? 僕を信じるように言われただろう」
「……お前の目的が判らんからな、
目的。それは、狂った歯車の、修正。定められた、クラーナ自身の道を行くこと。そして、シーヴの進むべき道を示すこと。
「ううん。それを言われると痛いなあ」
内心を走り抜ける悔恨をきれいに隠し通し、クラーナはにっこりと笑った。
「君のためになるように、と言う言葉じゃ足り」
「足りないに決まってるだろうが」
シーヴは彼の言葉にかぶせるようにしながらまたも即答をする。
砂漠の若者と言葉のやり取りをしながら、詩人は思った。
奇妙だ、と。
この〈鍵〉は、まだ出会っていない。彼のリ・ガンと。
いや、出会っているのに、出会うようにし向けたのに、彼らは互いを認識し合わない。あの完璧なる繋がりを見誤るなど有り得ないのに。
では、それほども狂っている。あの美しい定めの輪は、いまではねじれて表裏の見分けがつかない〈ドーレンの輪っか〉のようになってしまった。或いは、それ以上に。
直さなければ。六十年前に〈鍵〉を失った、これはかつてリ・ガンだった彼の、贖罪なのだから。
行かなければ。南へ。遠く、翡翠の宮殿へ。
だがあのときのようにクラーナが道を指し示すことはできない。それはリ・ガンの役割で、彼はもうリ・ガンではない。〈翡翠の女王〉のくびきに繋がれた、ただの道標。
(遠いな)
彼は思った。
遠い。宮殿も。あの日も。あの森も。
(でも)
(行かなけりゃ)
あの日は取り戻せない。だが、果たされなかったオルエンとの約束は心に残っていた。「翡翠の件に片がついたら」またサルフェンを訪れようと。
帰らぬは、黄金の精霊。
あれから五十九回、クリエランは小さな花をつけた。「翡翠の件」を終えることのなかった彼と彼の〈鍵〉が目にすることのないまま。
「片がついたら」自分がどうなっているのかは判らなかった。死んだ彼の〈鍵〉と同じところに?
判らない。
それでも、行かなければ。
彼の定めの道は、いまや彼のものではない。いつか彼の自身の手に取り戻すときは、この命とも言えない命を終わらせるときであるのかも。
それでも、行かなければ。
〈変異〉の年は巡る。
彼にとって二度目の、その年が。
小さな森に月の花が咲く日を越え――狂った歯車が直される日に向けて。
彼とてその直し手のひとりであること、犯した罪のための罰を課せられたのではなく、道標たる役割に相応しいものとして選ばれていたのだと吟遊詩人が知る術は、このときまだ、なかった。
「月の花」
-了-
月の花 一枝 唯 @y_ichieda
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