第3話 中田のおばちゃん

 竹林が欝蒼と生い茂る切り通しの下を、僕と姉は母に連れられて急ぎ足で歩いていく。

 そこを通るのはいつも夜だった。

 ひとつしかない街灯が、ぼーっと暗い夜道を照らして、何度通っても好きになれない道だった。

 僕が子どもの頃、母は父と大喧嘩をすると、きまって僕と姉を連れて中田のおばちゃんの家へ行った。

 喧嘩の原因はいつも父だった。

 でも、喧嘩の最中に母をかばえば父はますます怒りだし、もう手がつけられなくなる。僕と姉は、  そういう時いつも父の見方をした。そうすると少しだけ父の怒りがおさまるのだ。

 しかし、それではおさまりのつかない母は、黙って僕等の手を引いて家を出た。

 それでも次の日にはちゃんと、酔いの覚めた父から電話があって1日だけの家出は終わる。

 そんなことが、年に1、2回はあったように思う。

 おばちゃんはいつも玄関の前で僕たちを待っていてくれた。

 母とおばちゃんは昔からの幼馴染みで、その頃の母の一番の話し相手だった。

 おばちゃんには子供がなく、おじちゃんも船乗りだったのでほとんど家にいることはなかった。

 だから余計に僕等を可愛がってくれたのだと思う。

 おばちゃんの家は古い昔風の家で、玄関に入ると真っ黒い大きな柱時計があった。

 その下でくつを脱いでいると、 決まって廊下の向こうから、おばちゃんちの白い猫がすーーっと長いしっぽを立てて歩いてくる。

 僕の顔もすっかり覚えていて、僕の足に何度も身体をすりよせてくる。

 目が海のように青く、とても人なつっこい猫だった。


 しばらくテレビを見たあと風呂に入れてもらい、布団を敷いて僕と姉は床についた。

 でも、僕はおばちゃんの家ですぐに眠れた記憶がない。

 いろんな思いが頭の中に入り交じって、なかなか寝つけなかった。

 「どうして、とうちゃんはあんなにお酒を飲むのだろうか?」

 「どうして、お酒を飲むと怒り出すのだろうか?」

 「どうして、かあちゃんを叩くのだろうか?」 

 僕は、子どもながらにそんな父のようには、絶対なりたくないと思っていた。

 心の底から憎んだこともあった。

 真っ暗な部屋に、襖から漏れてくる隣の部屋の明りが一本の線になって差し込んでいる。

 僕はそれを眠れないまま布団の中でじっーと見ていた。

 ボーン、ボーンと柱時計が鳴った。

 襖の向こうで、母とおばちゃんが話す声が聞こえる。

 最初笑いながら話しているのに、最後は決まって母が泣く。

 僕は、布団の中にすっぽりと顔まで入った。

 そうすると眠れるような気がした。


 次の日の朝、食事を済ませた僕は縁側で猫と遊んでいた。すると、中田のおばちゃんが来て僕の隣にすわった。手にはカルピスを持っていて、それを僕にくれた。

 しばらく二人で猫と遊んだ。

 「たーくんは、とうちゃんのこと好きね、嫌いね?」

 おばちゃんは猫を撫でながら、そう僕に聞いた。

 「喧嘩する時のとうちゃんはすかん。かあちゃんば叩くけん。」

 「そうねー。叩いたりしたらいかんよねー。」

 「でも、おばちゃんねー、昔からあんたのとうちゃんのことは、よー知っとるとよ。」

 「あんたのとうちゃんね、昔、若い頃ね、絵本ば描く人になりたかったとよ。」

 「ふーーん。」

 「東京に行って、有名か先生の弟子にもなっとったとよ。」

 「そうね・・・」

 「たーくんは、もし本当にやりたいことの出来んかったら、どんがん気持ちやろうねー?」

 「・・・・・・」

 「おばちゃんは、悔しかよー。」

 「きっと、悔しゅうして悔しゅうしてたまらんよー。」

 おばちゃんはそう言うと、ニッコリ笑って僕の手から空のコップを取るとお盆にのせた。


 しばらくして電話がなった。

 おばちゃんの口調で父からだと解った。すると、向こうで僕を呼ぶ母の声がした。

 家へ帰るのだ。

 「またなー」

 僕は猫に挨拶をして、急いで帰る支度をした。

 帰り道、僕は母に聞いた。

 「とうちゃんは、絵本を描く人になりたかったと?」

 すると、母はびっくりしたような顔で僕を見た。

 「そうよ、あんたのとうちゃんはねー、新聞で賞を貰ったりしたとよ。」

 「ふーーん」

 「でもね、五島のお爺ちゃんが急に亡くなってね、こっちに帰ってきて働かないといけんようになったのよ。」

 「その時、とうちゃん、悔しかったかなー?」

 「へっ?」母はポカンと口をひらいて僕を見た。

 そして、笑い出した。

 げらげらと大きな声で母は笑った。

 「そうねー、悔しかったやろうねー。だから、お酒を飲んだらその悔しいのが出てくるとやろうねー。」

 それから母は昔の父のことをいろいろと話してくれた。

 僕らは家までの道を笑いながら帰った。

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cats @Nejishiki_Neco

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