エピローグ
きれいな月……。
立ち止まり、アリッサは夜空を仰ぎ細いため息をこぼす。
月の明るい夜だった。
カインと初めて出会った夜も、こんな皓々と月の輝く夜であったことを思い出す。
これからどうしよう。
物心ついた時から暗殺者として育てられた自分の境遇を、不幸だとか、かわいそうだとか思ったことは一度もなかった。けれど、当然ながら幸せだと感じたこともない。
アリッサにとって、一座での生活はあたりまえの日常で、与えられた仕事をこなすこともアリッサにとってまた然り。
だが、カインと出会って人を愛することを知り、女性としての喜びを知った。
アリッサの世界は変わった。
カインは自分と出会ったことにより、カイン自身も回りも大きく変化したと言ってくれたが、変わったのは自分も同じだ。
イゾラの旅一座とは別れを告げた。
子ができた。
もはや、暗殺者としてこの先一座で仕事を続けていくのは難しい状況となった。
もっとも、自分がいなくなったところで〝イゾラの娘〟候補として育てられた娘は何人もいる。
これからの仕事に一座が支障をきたすことはないだろう。
子ができた以前に、一度はカインに怪我を負わせ、危険な目にあわせてしまった。
何があろうとカインを守ることを優先しなければならなかったのに、自分を守ると言ってくれたカインの言葉と行動に、女としての感情がでてしまった。
暗殺者として、大きな失態だ。
まずはこの国を離れ、どこか静かな場所でひっそりと暮らそう。
この子のためにも。
アリッサは自分のお腹に視線を落とし、そっと手をあてた。
当面暮らすには困らない金は、一座からもらえた。
さいわい仕事柄いろいろな国の言葉を覚えさせられたから、どこへ行っても困ることはないし、たいていのことは一通りこなせる。
貰った金を元手に何かするのもいい。
たとえば、子どもたちを集めて剣でも教えようか、と思いかけアリッサははっと気づいて苦笑する。
いくら何でも、暗殺の剣を教えるわけにはいかないよね。
こんなことなら楽器のひとつでも覚えておけばよかったかな。でも、そっちの方はまるで才能がないってみんなから呆れられたし。
一座に身を置いていたときは、自分は一生この世界で生き、死ぬのだと思っていた。
こうして自由の身となった時のことを考えたことは一度もない。
だから、正直どうしたらいいのかわからなかった。
これから何をしたいのかさえも。
ゆっくり考えていこう。
時間はたくさんある。
とにかく今は元気な子を産んで、しっかり育てることだけを考えなければ。
そのためにも、早く落ち着けるところを探そうと視線を上げたその時。
「つれないな。俺に黙ってどこかに行こうなんて」
背後からかけられたその声に、アリッサは振り返り目を丸くする。
そこに立っていたのは、端整な顔に艶やかな笑みを浮かべ、妙な色気を振りまく長身の青年。
「イーサ! どうしてあんたがここに」
「どうしてって、アリッサが一座を抜けたと聞いて、慌てて後を追いかけてきたんだけど」
「しばらく仕事で遠くに行ってるって聞いたよ」
「そんなの、さっさと済ませて戻ってきた。間に合ってよかった」
見ればイーサは旅装姿。手には竪琴と小さな荷物。単純に別れを言いにやってきたという雰囲気ではない。
まさかとは思うが……。
「あんたまで一座を抜けてきたなんていわないよね?」
しかし、イーサの様子からして、そのまさかのようだ。
「よく座長が許してくれたね」
アリッサは呆れたように言う。
イーサは一座の中でも優秀な暗殺者だ。そのイーサをそう簡単に一座が手放すとは思えない。
「許したも何も、勝手に抜け出してきたから。戻るつもりもない。アリッサのいない一座にいても意味がない、つまらない、仕事もやる気がしない」
「あんたって……」
ずいぶんと勝手な理由だ。
「それに、アリッサ一人では心配だと思ってね。その身体では何かあったときに困るだろう? 代わりに俺がアリッサのことを守ってあげるよ」
近寄ってきたイーサの手がぽんとアリッサの頭に置かれた。
「どういう意味?」
「今が一番大切な時なんだろう? 無理をしてはいけない」
「何で知っているの?」
子どものことは誰にも話していない。
一座を抜ける時だって、感づかれた様子はなかった。
「何でって、自分で気づいていないんだね。そうやってお腹に手をあてて、幸せそうに微笑んでいるのを」
イーサに指摘され、アリッサは自分の手に視線を落とす。
幸せそうに笑っていたかどうかは自分では分からないが、確かに右手がお腹のあたりに添えられていた。
その手をおろし、アリッサは上目遣いでイーサを見上げる。
「相変わらず、男のくせにめざといね」
「まあ、あんな仕事をしていたからね。注意深く人を見てしまう癖があるのはしょうがない。それに、好きな女の身体の変化に気づかないわけがない。それよりも、どこへ行くつもりだった?」
アリッサはさあ、と肩をすくめた。
どこへ行くつもりだったと訊ねられても、これからそれを決めるのだ。
「一緒に暮らさないか?」
「誰と?」
「俺とだよ」
突然この男は何を言い出すのかと、アリッサはイーサを見上げる。
「俺が、その子の父親になってもいい」
「あんたが、父親?」
そう、とイーサは笑ってうなずいた。
どうやらその目は、冗談で言っているわけでもなさそうだ。
「断るわ」
即座にアリッサは切り返し、頭に置かれたイーサの手を振り払う。
「こう見えて、俺は子どもが大好きだ」
「あんたとは長いつきあいだけど、そんなの聞いたことないよ。初耳ね」
「きっと、よい父親になれる」
「聞こえなかった? 断るって言ったでしょ」
「それに、その昔、知り合いのお姉さんのお産の手伝いをしたことがある。俺が側にいるとアリッサも心強いだろう?」
「それって」
アリッサは目を細めてイーサから離れる。
「ん? 何? 何かな?」
「自分の子どもだったんじゃないの?」
「……」
「……」
夜の静寂に、落ちる奇妙な沈黙。
「はは、ずいぶんきついことを言うね。アリッサもそんな冗談を言えるようになったんだ。一座にいた時は無口で、近寄りがたい雰囲気を常に放っていたのに。少し驚いたよ。だけど、違うから」
「どうだか」
「だいたい、この俺がそんな失態をするわけがない。そのへんは徹底してぬかりなく……」
「知らないよ! いいから、あんたはどっかに行って。ついてこないで。あたしはひとりでもじゅうぶん生きていけるから」
「アリッサはそんなに俺のことが嫌い?」
「嫌いじゃない。だけど、好きでもないってだけ」
「それはつまり、どうでもいい存在ってこと? それはそれで悲しいな。こんなにアリッサのことが大好きなのに」
「だいたい、軽々しくそんなこと言って、あたしのこと本気で好きでも何でもないくせに」
「それは、男に慣れていないアリッサに迫ったら、アリッサ怖がって逃げてしまうと思って遠慮しているからだよ。だったら、本気で口説いていい?」
「あたし、自分より弱い男には興味ないの」
「ええと……」
弱い強いが単純に剣の腕前を意味するのなら、それを言ったら、あの王子様だってアリッサの足元にも及ばないと思うけど……と、口の中でもごもごとイーサは呟くが声には出さなかった。
「アリッサひとりでは大変だよ」
「あんたもしつこいね。生まれたこの子が、あんたみたいな男を父親だと勘違いしたら困るでしょ」
「女の子だったらどうしよう。俺、目に入れても痛くないほど可愛がって、甘やかしてしまうかも」
「あのね……」
「ああ、もちろん、アリッサのことも同じくらい愛してあげるから安心して」
「殺すよ」
「いや、愛する妻と可愛い娘のためにも、俺はまだ死ねない」
「もうつき合ってられない!」
と、言い捨て、再び歩き出そうと前に視線を上げたアリッサは大きく目を見開いた。
アリッサの目に、思いもしなかった人物が飛び込んだからだ。
「探したよ、アリッサ。とても、探した」
「カ……イン……」
近づいてくるカインから逃れるようにアリッサは後ろに足を引く。
「逃げないでアリッサ。いや、もう逃がさない」
目の前に立ったカインの手が、優しくアリッサの頬をなでる。
「突然、いなくなってどれほど心配したか。ずっと、私の側にいてくれると約束してくれたではないか。あの言葉は嘘だったのか?」
「どうして?」
「そこにいる者が教えてくれたのだ」
と、カインはイーサに視線を向けた。
アリッサもつられて振り返る。
「イーサが?」
イーサは肩をすくめた。
「しょんぼりしたアリッサを見ていられなかったからね。まさか、本当に王子様が追いかけてくるとは思わなかったから。その時は、本気でアリッサを俺のものにするつもりだったけど」
まあ、しかたがないか、とイーサは切ないため息をつく。けれど、その表情はどこかほっとした様子であった。
「あの夜、本当の自分がわからないと泣きそうな声で言っていたね。けれど、肌を重ね、互いの心に触れ、私を慈しんでくれたアリッサの思いは真実だと信じている。それに本当の自分を知らないと言っていたが、アリッサは私にとって、イゾラの神話に出てくる美しい戦いの女神アリッサだ。いや、私にとって、幸運の女神。世界でたった一人の女性」
「あの時のあたしの言葉、聞いていたの?」
「ああ、夢と現実の狭間にさまよいながらも、アリッサの声だけは聞こえた」
「あたし」
だとしたら、自分が何者であったかカインは知っているはず。
それでもカインは、自分のことを変わらず愛してくれるというのか。
「アリッサも知っているだろう? 戦いの女神は愛の女神とも言われていることを。イゾラの地で人間の男と恋に落ちた女神は、愛を知り、愛をもってイゾラの民を導いた」
カインは自分の上着を脱ぎ、ふわりとアリッサの肩に羽織らせると、お腹のあたりに手を添えているアリッサの手に、自分の手をそっと重ねた。
優しい温もりが伝わってくる。
胸の奥が熱い。
「ずっと、私の側で、私とともに戦ってはくれないだろうか」
アリッサの目に涙が浮かんだ。
泣き顔を見られたくないと、咄嗟にうつむくアリッサは唇を噛みしめ肩を震わせた。それでも、こらえきれずにあふれ、こぼれた涙が数滴、アリッサの足元に落ちる。
カインの前では明るく元気な少女をよそおってきた。けれど、もしかしたらあの時の自分こそ素の自分だったのかもしれない。そして、こうして弱さをさらけ出して泣いているのも、本当の自分。
「それと、そこにいる者……イーサといったな?」
カインは離れた場所に立つイーサをもう一度見る。
「こうして会って、会話をするのは初めてだな。いや……」
カインはふっと笑いを浮かべる。
「侍女の姿のそなたとは話はしたな。アリッサが殺されかけたと知り、冷静さを失いキルティアの元に乗り込もうとした私を諫めてくれた。礼を言う」
「あれは王子様のためを思ったわけではなく、勝手な行動をされて仕事の手順が狂いでもしたら後々、面倒だと思っただけですから」
カインは苦笑して、再びアリッサに向き直る。
「アリッサ、どうか私の妻になって欲しい」
カインの言葉にアリッサは目を見開く。
「あたしの正体、知っているでしょう? あたしはカインに相応しい人間では……」
「私がアリッサを妻にしたいと決めたのだ。強引だと思われてもいい。このまま君を連れて帰る。誰にも文句は言わせない。もちろん、アリッサにもだ。だから……その……来てくれるね」
強引に連れ帰ると言いながらも、アリッサの気持ちを確かめるところがカインらしい。
「だって、あたしは……それに、あたしウィリデ王子様を……」
もう何も言うな、とカインは首を振り、アリッサの唇に手をあてる。
「あたし……」
アリッサはカインの背にしがみつき、声を上げて泣き出した。
一度は断ち切ったカインへの思い。
こうして、再び彼に会えると思っていなかった。
ひとりでも大丈夫、強く生きていけると思っていた。
だけど本当は不安で怖くて、どうしたらいいのかわからなかった。
「心細い思いをさせてしまったね。もう二度とアリッサにそんな思いをさせたりはしない。約束する」
泣きじゃくるアリッサの背に、カインは手を回し引き寄せた。
「これからは、私がアリッサを守る」
カインの胸に顔をうずめ、アリッサは肩を震わせて泣いた。
「顔を上げて」
こぼれるアリッサの涙をカインは指先でぬぐい、濡れた頬に口づけをする。
「愛しているよ、アリッサ。もう一度言う。私の妻になって欲しい。返事を聞かせてくれるだろうか」
涙に濡れた顔でアリッサはにこりと微笑む。そして、はい、と答えてうなずいた。
夜の月と、天の海と 島崎八歌 @tou_ka
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