第11話 名前
窓から吹き込む雪まじりの風にユピの銀の前髪がなびいた。
陶器のような肌が青ざめて見えるのは、寒さのせいばかりとは言えない。
ユピは明らかに動揺を見せ、不快感を覚えているかのようだった。
「ジークを自縄自縛の状態から解放したのも名前ってわけか……」
大広間の大理石の床に跳ね返る光の中で、亡霊のように白く浮かび上がるユピの青い瞳が一瞬燃えるように輝いて、刺すようにヒラクを見た。
「『勾玉主』も『神王』も代替できる存在にすぎないということか。彼にとって君は『勾玉主』でも『神王』でもなく『ヒラク』だったってわけだ」
ヒラクはユピの言っていることがまったく理解できなかった。
隣にいるウナルベは、完全にユピを敵視して、今にも飛びかかっていきそうだ。
「ウナルベ、落ち着いて」
ヒラクになだめられるウナルベを見て、ユピはあざ笑うように言う。
「そんな化け物にも名前をつけるなんて君らしいよ」
ユピはヒラクに視線を移すと、なつかしそうに目を細め、声を和らげる。
「アノイの村で、君はクマ送りのクマに名前をつけてかわいがっていた。何だったかな、あのクマの名前は……」
「ヌマウシだよ」ヒラクはすぐに答えた。
アノイの村での日々がなつかしく思い出される。
今、目の前にいるユピは、あの頃とちっとも変わらないとヒラクは思った。
それを確かめるように呼びかける。
「ユピ……」
「そう、その名前も君がつけたんだ」
ユピは悲しそうに微笑む。
「だから僕は君のために存在した。君だけのためにね」
「どういうこと?」
ヒラクの問いにユピの表情が一変する。
柔らかな微笑はみるみると、仮面のような無表情なものになる。
「名前は、それを認識する者と受け入れる者との間に固有の存在を生み出す。君が私に『ユピ』と名づけたことで、この存在は独自の個性を持ち始め、私から分離しようとした」
ユピは自分の胸に右手をあてて言った。
「意味がわからないよ……」
そう言いながら、ヒラクは目の前のユピが何者なのかを探るような目でじっと見た。
「だが分離した存在を支配することは簡単なことだった。『ユピ』が抱いた分離への不安は、そのまま君を失うことへの恐れと結びついた。そして『ユピ』の望みは私の望みと重なった……」
「ユピの望みって何?」
ヒラクは、今、自分が誰に質問をしているのかもわからないまま尋ねた。
「知りたいか?」
ユピはヒラクの顔をのぞきこむようにして見ると、そのままくるりと向きを変え、足元の鏡に目をやった。
「君が知ろうと知るまいと、『ユピ』の望みは叶えられる。そのために君は今ここにいるのだから」
「ヒラク、あの鏡は危険だよ、変な光が出るよ」
ウナルベはうなるような声でヒラクに言った。
「あの鏡から出る光に包まれると気が遠くなって自分が消えちまいそうになる。あれは恐ろしい鏡だよ」
「だが、消えなかっただろう?」ユピが言った。「ヒラクに名前を呼ばれて姿を取り戻した」
「名前……。おれが、呼んだから……?」
ヒラクはまるでわからないといった顔でユピを見る。
「そもそもその化け物がここにいること自体おかしなことだ。初めは剣が化け物を引き寄せたのかと思った。だが、それだけでは説明がつかない部分もある。その答えがやっとわかった」
そう言って、ユピはヒラクをみつめ、声を強める。
「ヒラク、君が名前をつけたからだ。そしてその名前を化け物が自分のものとして認識したからだ」
「ちっとも意味がわからない」ヒラクは難しい顔でユピを見た。
「その化け物は南多島海の洞窟の神だ。破壊神の島でそれを望まれ、その姿で洞窟に生息した。その前は姿さえ持っていなかったのかもしれない。それでもその化け物は、同じ形を保ち続けるものに執着することで、自分を認識し、存在し続けた。化け物を破壊神と結びつけたたった一つのもの、それは何かわかるか?」
「……破壊の剣?」
ヒラクは探るようにユピを見た。
「そのとおり」
ユピは晴れやかに笑う。
その笑顔はどこか高慢な印象を与え、ヒラクが知るユピとはやはり別人だ。
「移り変わり、変化し、滅びゆくことが定められたこの世界で、朽ちることなく初めから同じ形のまま存在し続けるものがある。一つはこの剣」
そう言って、ユピは広間の中央に転がる剣を拾い上げた。
「もう一つは……」
ユピは剣の切っ先で足元を示す。
「鏡だ」
剣と鏡は互いに共鳴し合うように、硬質な高い音を響かせる。
「この剣と鏡は、形を変えることもなく、決して滅びることもない。それが何を意味するかわかるか?」
そう尋ねながらも、ヒラクの答えなどかまわずに、ユピは淡々と話し続ける。
「剣と鏡は世界の創造とともに生まれ、代替物となり得ない固有の存在として生み出された」
「誰が……何のために……?」
ヒラクはごくりとつばを飲んだ。
自分の言葉に鳥肌が立つ。
その「誰か」を自分はずっと捜し求めてきたのではないのか……?
「それは……神……?」
口に出した瞬間、ヒラクの全身から眩い光が放たれた。
それは無色で透明な、ヒラクが持つ勾玉の光だ。
その光に反応するように、鏡と剣も光を放つ。
共鳴音がヒラクの中で鳴り響く。
ヒラクは両手で耳をふさぐが、剣と鏡の玲瓏な音が耳につき、内側で反響しては、頭が割れるように痛くなる。
自分の体の芯が弦のように弾かれる振動を感じながら、ヒラクはたまらず悲鳴を上げた。
「ヒラク! しっかりおし!」
ウナルベがヒラクに駆け寄る。
「来るな! 来ちゃだめだ!」
なぜ、そう思うのかはわからないが、ヒラクはウナルベに向かって叫んだ。
体の中に感じる共鳴音と振動がヒラクを混乱させる。
自分が音そのものになるような、振動そのものになるような不思議な感覚で、ヒラクは自分が何者であるかも一瞬わからなくなった。
(ヒラク……)
ウナルベの意識がヒラクの中に流れ込んできたのを最後にヒラクはその場で気を失った。
それは一瞬のことだった。
その一瞬で何が起きたのか、ヒラクはすぐには理解できなかった。
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【登場人物】
ヒラク……緑の髪、琥珀色の瞳をした少女。偽神を払い真の神を導くとされる勾玉主。水に記録されたものを読み取る能力や水を媒介として他人の記憶に入り込むことができる能力がある。ユピに心を支配され、一時は自分を見失い、勾玉の光を失うが、今は自分を取り戻し、ユピの中に潜む邪悪な存在と向き合う覚悟を決める。
ユピ……青い瞳に銀髪の美少年。神帝国の皇子。ヒラクと共にアノイの村で育つ。南多島海で破壊神の剣を手に入れるとヒラクの前から姿を消す。再び神帝国に現れたユピは父である神帝を殺し鏡を奪う。ユピの中に心と体を支配するもう一つの存在がある。
ジーク……勾玉主を迎えるために幼いころから訓練された希求兵。勾玉主ではなくヒラク個人への忠誠心を抱いていることをユピに逆に利用され、ヒラクのそばを離れてユピに従った。ヒラクと再会し、ユピの支配から己を解放する。
ウナルベ……破壊神の島で剣を守っていた謎の生き物。猪の胴体、鳥の翼、トカゲのしっぽを持っていた。破壊神の島から脱出する際、トカゲのしっぽを失い飛行できるようになった。ウナルベはヒラクが名づけた名前。アノイの言葉で「おばさん」の意味。
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