第9話 言葉の支配
正面階段の広い踊り場を折り返し、ヒラクは二階に上がった。
勾玉の光は、目の前の重厚な扉を照射する。
(……この扉の向こうに)
ヒラクはごくりと唾をのみ込んだ。
鼓動が高鳴る。
ヒラクの中に迷いはない。しかし、ここに来て複雑な感情が湧いてくる。
(会いたいのに会うのが怖い……真実を見たいのに見たくない……)
愛しさと息苦しさ、安らぎと警戒心が入り混じるような複雑な感情を、扉の向こうの存在はいつもヒラクに抱かせる。
「こちらです」
トーマは表面に彫刻を施した重たげな扉を開け、ヒラクが中に入ると背後でそっと扉を閉めた。
そこは長さ五十メートル、幅二十メートル程の広さの大広間になっていた。
縦長のアーチ型の窓が両側に連なり、窓を縁取る金の装飾が壁をはうつたのように伸びて、白い壁の隙間を埋めている。
窓から差し込む光で大理石の床が白く輝き、天井が明るく浮ぶ。
そこに描かれているのは月と星と太陽をそれぞれ象徴する乙女や青年を従えた天空の支配者で、その人物は雲に乗り、大地にあふれる人々を高みから見下ろしている。
奥の間に続く扉のある最奥の壁には窓のかわりに鏡が並び、床に跳ね返る光をさらに反射する。
白くまばゆい光の中、鏡の前に立つ少年が銀の髪を輝かせ、ヒラクの方を振り向いた。
「やあ、よく来たね」
ユピは青い瞳を細め、優美な笑みをたたえて言った。
胸元二箇所に金の鎖の留め具がついた縦襟の裾の長い白いコートを着たユピは、壮麗な広間に合わせて作られた美術品の彫像のようだった。
今まで過ごしたどの場所よりも、ここはユピに似つかわしい場所だとヒラクは思った。
「なんだ、この化け物は!」
突然、叫び声がした。
ユピに目を奪われていたヒラクは、そこにもう一人、ローブ姿の小さな老人がいたことに初めて気がついた。
老人はウナルベを見て驚いている。
「勾玉主様、あれが大神官です」
トーマが警戒するように言った。
そのトーマにユピが声を掛ける。
「ごくろうだったね、トーマ」
トーマは怪訝な顔をする。
「ヒラクをここまで連れてきてくれてありがとう」
ユピの言葉に驚いてヒラクはトーマを見た。
トーマは顔をこわばらせ、額に汗をにじませながら必死にヒラクに弁明する。
「知りません。一体何のことを言っているのか……。私はただ、本物の勾玉主様さえ連れてくれば偽りの勾玉主は消えるかと……。勾玉主様をここまでお連れするのが私の使命で……」
「それは誰が言ったの?」
ヒラクはトーマに尋ねた。
「それは……」トーマは記憶を遡る。
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ユピが巨人の手のひらで運ばれて城に現れたとき、その姿が赤い光で包まれているように見えたのは、大神官と軍帥だけだった。
だが、赤い光に包まれた少年が追放された皇子だと知ると、希求兵たちはその光を見たような気になった。
トーマを初め、神帝国に潜伏していた希求兵たちは、皇子が生まれたときに勾玉らしい光を手から放ったらしいということを知っている。
ルミネスキ兵が攻めてきたことで、今が決起のときと思った希求兵たちは、勾玉主が戻ってくることを待ち望んでいた。
そしてそのときに備えて神帝国軍の中に紛れ込んでいた者たちは、新たな神帝として兵士たちの前に立ったユピの言葉に引き込まれた。
『私は神王の手の中から生れた勾玉そのもの。私こそ勾玉主だ。悪しき神帝はすでに斃れた。私が新たな神となろう』
希求兵たちが望んだことをユピはそのまま口にした。
勾玉主のために闘うことを決意していた希求兵たちは、ユピの言葉通り、ユピのために闘うことになった。
トーマはただ一人、希求兵の中で、ユピが生れたとき手から放った光を確かめた人物だった。
それは赤い光などではなかった。
その事実がトーマの中でユピと勾玉主を結びつけなかった。
ルミネスキ兵と神帝国兵の争いが続く中、トーマは新たな神帝となったユピに尋ねた。
『なぜルミネスキと戦わねばならないのですか。勾玉主であるならば闘う理由などないはずです』
『勾玉主であるならば?』
ユピはゆっくりと言葉を確かめる。
『君は僕が勾玉主だって信じてないんだね』
『いえ、そのようなことは……』
『闘う理由がないと思うってことは君は希求兵ってわけだ』
『何のことか私にはさっぱり……』
『神帝として僕を崇めるなら、そんな疑問すら抱かないよね』
『……』
ユピの言葉にトーマは反論すらできずに黙り込む。
『本物の勾玉主が現れれば僕が偽者かどうか確かめられる。希求兵は勾玉主とともに神帝を倒すことになっている。神帝の前に勾玉主を連れてくることこそ自分の使命……そう思っているんじゃないのかい?』
ユピはトーマの心にある言葉をそのまま口に出して言った。
トーマはその言葉が自分で言ったものなのかどうかよくわからなくなった。
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「それは……自分の言葉です」
トーマはヒラクに言った。
ヒラクは、トーマは嘘をついていないと思った。
そしてキッドの言葉を思い出した。
「……白羽鳥と一緒ってことか。目的地まで飛ぶのは自分の意志だけど、その目的地そのものが自分の意志で選んだものとは限らない」
「……君もやっと、気づいたんだね」
ユピは微笑をたたえたままだったが、胸に一物あるような複雑な表情をしていた。
「人は、自分が信じたいものを信じて、自分の現実を創りあげていく。自分が望んだとおりの状況を自ら創り上げるんだ」
「でもユピは自分が望むとおりに人を動かしているじゃないか。人の心を操って、思い通りにしているじゃないか」
ヒラクはジークのことを思い出し、ユピとの距離を縮めながら、責めるように言う。
「ジークはつらそうだった。自分を責めていた。どうしてジークを連れてきたの? ジークがそれを望んだっていうの?」
「そうだよ」ユピはあっさりと言う。「彼は自ら選んだんだ。『勾玉主ではなく、神王に仕える』とね」
「神王……、神王ってあの巨人?」
ヒラクは扉から数メートル離れただけの場所で思わず足を止めた。
「だからユピと一緒に来たの? どうして、ジークはおれじゃなく神王を選んだの?」
「君はもう忘れてしまったの? 神王が誰かということを」
ユピは優しくささやく。耳に心地よく残る声だ。
ヒラクは、南多島海での航海中、ユピに心を支配されたときのことをまざまざと思い出した。
「おれの前世は神王だってユピは言った。赤い勾玉はおれの手の中にあった。そしておれは自分の勾玉を失った……」
「そうだよ。君の前世は神王だったのかもしれない」
ユピは広間の最奥の鏡の壁を背にして一歩一歩ヒラクのそばに近づいてくる。
ヒラクは思わず後ずさりしそうになった自分の足を前に踏み出した。
「おれは神王じゃない。そんなのおれは信じない!」
ヒラクは瞳の奥に光打つ強いまなざしでユピを見た。
「そう……それじゃ、しかたないね」
ユピは広間の中央まで来たところで立ち止まり、目を伏せ、さびしそうにうつむいた。
そしてまた口元に笑みを浮かべてヒラクを見る。
「でもジークはそれを信じたんだ。彼はすべて知っていたよ。君が自分が神王ではないかと悩んでいたことも、勾玉を失ってしまったこともね」
「ジークが……」ヒラクは驚いた。
ユピは青い瞳を細めて笑う。
「そして彼は決めたんだ。君が勾玉主じゃなかったとしても、たとえ神王であったとしても君に仕えると。彼の心にあることを僕は確認しただけだ。『これからは神王である者に仕え、神王である者に従う』とね。その言葉を口にした途端、彼は自分で自分を縛りつけた。わかるかい、ヒラク。自分の世界の支配者は自分でしかない。僕が彼の支配者になったわけじゃない」
「でも、ジークは自分がしたいことをしているようには見えなかった。苦しそうだった。自分で自分を苦しめるなんておかしいじゃないか」
ヒラクは納得いかない想いだ
「そう、誰も自分で自分を苦しめたり傷つけたりなんてしているとは思っていない。だから誰かのせいにしたくなる。決して抗えないものに自分の運命が翻弄されていると思い込む」
「抗えないもの……それは、神……?」
ヒラクはごくりとつばを飲んだ。
ユピはヒラクの反応を楽しむように見て微笑する。
「それが神だというのなら、神になるのは簡単だ。僕はすべての人間の支配者にだってなれる」
「そんなことできっこない」ヒラクが叫ぶと、
「試してみる?」
そう言って、ユピは鏡の前にいる大神官を振り返り、目で合図した。
大神官は、足元に置かれた透かし彫りの真鍮の大きな箱の蓋を開けた。
「剣を」
ユピが言うと、大神官は箱の中から取り出した剣を恭しく捧げ持ち、広間の中央に立つユピの前まで運んできた。
「その剣はあたしのだよ!」
剣を見てウナルベが叫んだ。
その声に大神官は驚いて、剣を持つ手を震わせた。
ユピは汚らわしいものでも見るような目でウナルベを見た。
「こんなところまで剣を探しに来たのかい? なぜその剣に執着するかもわかっていないくせに。愚かなことだ」
「うるさい。その破壊の剣はあたしんだよ、お返し」
「ウナルベ、落ち着いて」
ヒラクはユピに突進していこうとするウナルベを押さえつける。
「大神官、今の話を聞いたかい? その剣は破壊の剣というんだよ」
「破壊の剣……」
大神官は、今初めて見るかのように剣を見た。
「それは破壊をもたらす破壊神の剣だ。目の前の化け物は、破壊神の化身だ。その剣に触れた人間を決して許さない」
ユピのその言葉は、寄せては返す波のようなリズムと響きを持ちながら、大神官の頭の中で何度も繰り返された。
ユピは震える手で剣を捧げる大神官の前に立ち、悲しそうに微笑んだ。
「死は、君を捕らえて離さない。君は自ら死を受け入れる? それとも化け物の裁きを受ける?」
「私……私は……」
大神官は蛇に睨まれた蛙のように瞬きもせず、ユピの底暗い青い瞳を凝視した。
大神官の額には汗がにじみ、次第に呼吸が速くなる。
大神官は、断崖に追い詰められた逃亡者のような気持ちになった。
「たいへんだ、早く剣を取り返さないと……」
ユピはおもしろがるような口調でウナルベに言った。
ウナルベはカッとなり、ヒラクを振り切り、剣を持つ大神官に向かって突進していった。
「破壊の剣を返せーっ!」
「やめろっ、来るな! こっちへ来るなーっ!」
大神官は剣を投げ捨て、中央の壁に向かって駆け出したかと思うと、そのまま窓を突き破り、外に身を投げてしまった。
ヒラクはすぐには何が起こったのかわからなかった。
ウナルベも剣を拾い上げることすら忘れ、呆気に取られた様子で壊れたガラス窓を見た。
冷たい風とともに雪が舞い込む。
ユピは窓の下をのぞき見ると、銀に輝く前髪を風になびかせ微かに笑った。
まるで氷細工の人形のようだとヒラクは思った。
その美しい横顔からは何の感情も読み取れない。
ヒラクはユピの冷酷さを初めて見せつけられる思いだった。
「なんでこんなひどいことするの? 人の命をもてあそんで何が楽しいんだ」
「もてあそぶ? 僕が?」
ユピは小首を傾げて不思議そうな目でヒラクを見た。
「ちがうよ。これは彼自身が引き起こした死だ。彼はこの場所にその化け物が現れたときから怖れを感じていた。その怖れは『破壊神』という言葉を通じて剣と結びついた。彼の意識には『死』があった。僕は死を受け入れるのかどうか尋ねただけだ。彼は他の選択をしなかった。決めたのは大神官自身だ。僕はただ彼が望む状況を作りだすための働きを得ただけだ」
「だけどユピのせいだ! ユピがそんなこと言い出さなければこんなことにはならなかったのに」とヒラクが言うと、
「ほらね」と言ってユピは笑った。
「みんな何かが起きると誰かのせいにしたくなるんだ。だからこそ、簡単に他人の言葉に影響されたりするんだよ」
そう言って、ユピはヒラクの隣にいるトーマに目を向けた。
「ねえ、トーマ、君はどう思う? たとえば今この状況でヒラクの身に何かあったら、誰のせいになると思う?」
「やめろ、ユピ」
ヒラクは表情をさっとこわばらせてトーマを見た。
「トーマ、聞くな」
トーマは不安と恐怖の入り混じったような表情で、凍りついたようにその場に立ち尽くしている。
ユピは窓辺からゆっくりとトーマに近づいていく。
「トーマ、君の望みは僕の望みだった。僕は勾玉主であるヒラクをずっと待っていた。君は自らの意志で新たな神帝として迎えられた僕のために働いた。そのことをヒラクは許してくれるかな」
「私が勾玉主様をここに連れてきた……」
トーマは震え声で言った。
「ちがう! おれは、自分が来たくてここまで来たんだ」
ヒラクは叫ぶが、トーマの耳には入らない。
「僕なら君を許さない」ユピは言った。「君がヒラクならどうする? 君は許されると思う?」
トーマは血の気の失せた顔でヒラクを見た。その顔には絶望の色がある。
「トーマ、おれはなんとも思ってないよ。おれの声を聞いて」
ヒラクは必死になって言うが、トーマは暗然とした面持ちで焦点の合わない目を向ける。
「私はヒラク様を裏切った……」
「ちがう! 裏切ってなんかない。トーマ、おれを見て。おれの声を聞いて!」
ヒラクは必死に言い聞かせるが、トーマは失意のまなざしを宙に泳がせ首を左右に何度も振りながら後ずさりする。
割れた窓から冷たい風が吹き込んだ。
光に反射する雪が一陣の風をきらめかせる。
トーマは輝きの中に飛び込んでいくかのように駆け出すと、窓の向こうに姿を消した。
窓から入りこむ雪が一瞬で床に溶けて消え去るように、二つの命が一瞬でヒラクの目の前で儚く散った。
舞い込む雪が輝く中、微笑するユピの横顔はぞっとするほど美しかった。
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【登場人物】
ヒラク……緑の髪、琥珀色の瞳をした少女。偽神を払い真の神を導くとされる勾玉主。水に記録されたものを読み取る能力や水を媒介として他人の記憶に入り込むことができる能力がある。ユピに心を支配され、一時は自分を見失い、勾玉の光を失うが、今は自分を取り戻し、これまで目を背けてきたユピをとらえる闇の正体を知るべくユピの後を追う。
ユピ……青い瞳に銀髪の美少年。神帝国の皇子。ヒラクと共にアノイの村で育つ。南多島海で破壊神の剣を手に入れるとヒラクの前から姿を消す。再び神帝国に現れたユピは父である神帝を殺し鏡を奪う。鏡と剣を手に入れたユピは勾玉主であるヒラクの訪れを待っていた。
ジーク……勾玉主を迎えるために幼いころから訓練された希求兵。ヒラクに忠誠を誓うが、ユピに対して強い警戒心を抱いていたが、勾玉主ではなくヒラク個人への忠誠心を抱いていることをユピに逆に利用され、ヒラクのそばを離れてユピに従った。
ウナルベ……破壊神の島で剣を守っていた謎の生き物。猪の胴体、鳥の翼、トカゲのしっぽを持っていた。破壊神の島から脱出する際、トカゲのしっぽを失い飛行できるようになった。ウナルベはヒラクが名づけた名前。アノイの言葉で「おばさん」の意味。
トーマ……神帝国の城に勤めながら潜伏していた希求兵。ユピを勾玉主と認めていなかったことで逆にその心理を利用され、ヒラクをユピの元に導くこととなった。
※希求兵……ルミネスキ女王に精鋭部隊として育てられた元ネコナータの民の孤児たち。幼少の頃から訓練を受け、勾玉主をみつけ神帝を討つ使命のもと神帝国に送り込まれ、15年以上潜伏していた。
大神官……神帝を神王の生まれ変わりとして祀り上げ、神官としての権威を誇りながら軍師と共に神帝国の二大勢力として君臨していた。
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