第1話 ~夢幻魔界~
――時は、3年前に遡る。全てが始まったのは、あたしがまだ心臓病で入院していた高校2年生の頃だった。
ここは、東京都にある染岡病院の病室。あたしは中学生の時から、この病院で入院している。
いつか必ず病気を治して、ここで循環器外科の看護師として働きたい。幼稚園の頃から変わらない、あたしの夢だ。
今回の入院も、厄介払いのような形だった。またあんな生活に戻るなんてこっちから願い下げだから、別に良いんだけど。
織田原家は6人家族だ。血の繋がっていない父と実の母、弟が2人と妹が1人居る。
ピロンッ!
突然、スマホの通知音が鳴ると同時に、ロック画面にメッセージアプリの通知バーが表示された。
『病人扱いされて嬉しいんじゃない?笑』
……え、何これ? パパからじゃん。
確認しようと通知バーをタップし、アプリを開いてみる。けれど、そのメッセージは送信取り消しされており、あたしは溜め息をついた。
お母さんに送ったつもりが、間違えてあたしに送っちゃったんだろうな。
それにしても、もうちょっと気をつけられない? 娘の陰口を娘に誤送信って……。
この病室は個室で、入口の近くにトイレとお風呂がある。
ベッドは部屋の隅にあり、その横に置かれているのは木製の棚。この棚には日用品の他に、2種類くらいのお菓子を常備している。たまにお見舞いに来てくれる、弟たちの為だ。
壁に掛けられている丸い時計の針は、14時を
喉乾いたな……。
お茶を貰いに行こうと思い、ベッドから体を起こした。ポニーテールにした栗色の長い髪が、サラリと背中を撫でる。
ナースステーションに冷蔵庫があって、その中にお茶の入ったポットが置いてある。
ベッドから足を伸ばした、その
「あッ……!」
足を踏み外してベッドから落ち、ベッドの傍らに置かれている棚の角に、思いきり頭を打つ。その拍子に、手にしていたコップを取り落としてしまった。
「い……ッた……!」
あたしは顔を歪め、打った所を押さえる。おもむろに手を離すと、手にはベッタリと血が付いていた。
額から零れた鮮血が、床に日の丸を描いていく。
『いずれ、お主にも
闇に飲まれていく意識の中、知らない誰かの声が頭に響いた。
う……眩しい……! 寝かされているの……?
「――目が覚めた?」
人? 誰か、居る……?
朧気だった輪郭がだんだんと形を成していき、金色の天井と見知らぬ人が視界に入る。
あたしの顔を覗き込んでいたのは、紅色の派手な着物を身にまとった美少女だった。床に流れるほど長い黒髪にいくつもの
「……ッ!?」
えッ!? こ、この人は誰……!?
これは夢!? 夢だよね!?
同年代に見えるけど、知り合いにこんな子は居ない。
驚いて、勢いよく上体を起こしたあたしは、慌てて周囲を見回した。
少女が背にしているのは
棚で打ちつけた額を押さえると、既に血は止まっていた。着ているのは病院で着ていたモコモコのパーカーで、布団の横にスリッパが置かれている。
「あ、あの……ッ」
麗しい顔に薄化粧を施した美少女は、あたしに優しく微笑みかけた。
「怖がらないで、私は
「えっと……あたしは、織田原萌華……です」
あたしが名前を名乗ると、朝露の君と名乗った少女は僅かに目を見張った。けれど、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
今更だけど、この子にフルネームを教えても良かったんだろうか?
真面目に名乗ったあたしも、どうかしてるだろうけど。
「…………」
え!? イヤ、ちょっと待って!? 「ドッキリ大成功ー!」とかないの!?
状況が飲み込めずパニックになっていると、朝露の君が急に背後にある襖に視線を投げ、あたしの手を取って素早く立ち上がった。
この子、案外背が低いんだな。あたしとほとんど変わらないし、150cmもないくらいだろうか?
「朝露の君、アンタ何してるんだい? お客様がお待ちだよ」
襖の向こうから、年老いた女性の声が聞こえた。
「はい、急ぎ参ります」
呼ばれた朝露の君はそう答えながら、あたしの手を引いて部屋の障子を開ける。
障子から見えた外の景色に、あたしは自分の目を疑った。
立ち並ぶ瓦屋根の建物、コンクリートではなく完全に土で出来た道路、そこを往来する何かの行列や着物を着た男女。東京スカイツリーは
朝露の君は、迷うことなくサッシに足を掛け、その下にある路地裏を見下ろした。
ここは2階の部屋なのだろう――地面までの距離は、軽く5m以上ある。
「な、何する気……!?」
「行くよ」
落ち着いた声でそう言ったかと思うと、彼女はあたしの手を握ったまま飛び降りた。
「えッ、ちょ……キャァァァァッ!!!」
朝露の君はともかく、あたしの体は飛び降りる体勢に入る前に、頭から地面めがけて落ちていく。
あ、これ……ゼッタイ死んだな、あたしも朝露の君も。
死を覚悟し、固く目を瞑ったその時――急に、落下速度が遅くなった。
驚いて再び目を開けると、あたしは朝露の君の上に覆い被さるような体勢で、彼女に抱き留められていた。
痛みは全くないし、地面や彼女の体にぶつかった衝撃もない。
けれど、朝露の君は僅かに顔を歪めていて、あたしはすぐに彼女から離れて立ち上がった。
「大丈夫!? ケガとかしてない!?」
あたしは何ともないけれど、朝露の君は骨が何本か折れているかもしれない。
朝露の君は首を振って立ち上がり、着物に付いた土を叩いて落とす。
「私は大丈夫。萌華殿は?」
「あ、あたしも平気。ハァ……ビックリした」
ホッと胸を撫で下ろしながら、あたしは路地裏の先に広がる大通りを振り返った。
水干や狩衣は主に平安時代の服装だし、小袴は戦国時代の武将が穿いているものだ。日本髪は確か、戦国時代から幕末維新くらいまで結われていた髪型だったと思う。
そう――様々な時代の格好をした日本人が、和風の町を行き来しているのだ。
大好きな日本史の知識がこんな形で役に立つなんて、思ってもみなかった。
「……もう行かなければ。萌華殿、そなたはできるだけ人に見つからぬように、ここから南に向かうんだ。この世界の最南端には、漆黒の桜の木がある。そこに行けばきっと、元の世界に帰れる」
えッ!? そこにあたし1人で行くの!? しかも、見つからないように!?
彼女の言う通り、こんな服装で町を歩き回ったりなんてしたら、注目を集めるに決まっている。
だけどあたしはその桜がどこにあるか知らないし、注目を集めずに行く自信なんてない。
「そうだ。申し訳ないけれど、しばしの間ここで待っていて」
朝露の君は、何かを思いついたのか――その場でジャンプすると、両端にある建物の壁を交互に蹴りながら上へと上がり、2階の部屋に飛び込んだ。
まるで忍者のように素早い動きに、あたしは彼女が飛び込んでいった部屋を、ただただ呆然と見上げることしかできなかった。
本当に、現代を生きる少女なのだろうか? 見た目、口調、運動神経の良さ――そのどれもが、昔の人のようだ。
ふと足元を見ると、
中には固くて細いものが入っており、袋には金色の糸が巻かれている。袋越しに触ると、それはデコボコしていていくつか穴も空いているようだった。
これって、笛……?
部屋から路地裏を見下ろした時には、こんなものは見なかった。恐らく、朝露の君が落としたのだろう。
「早くしな! アンタが売れっ子だから、特別に外出も許しているんだよ! 全く……いつもは完璧なのに……」
「……申し訳ございませぬ。急ぎ支度を致しますゆえ」
しばらく待っていると、朝露の君が白く大きな布を持って、フワリと飛び降りてきた。
「これ、貴女の?」
あたしが紅色の袋を見せると、彼女は目を丸くした。
「うん……ありがとう。
受け取った袋をしばらく見つめた後、そっと着物の懐に入れる朝露の君。そして、小脇に抱えていた白く大きな布を広げ、あたしの頭に被せる。
「私の経験上、簡単に目立たぬようにするには、この
頭から被衣を被るなんて、まるで平安時代末期の
朝露の君に促され、あたしは路地裏から大通りへと出た。
平安、戦国、江戸――違う時代の格好をした人たちが、違う時代の文化が融合しているのだろうこの世界で、当たり前のように生活している。
電柱も無ければ信号も無く、映画のスタッフと思われる人さえも見当たらない。
「……お客様をお待たせしているゆえ、私はもう行かなければ」
朝露の君が助走をつけ、建物の壁を先ほどと同じように、タタンッと軽やかに駆け上がっていく。
「待って!」
壁を蹴って宙返りする彼女を、あたしは慌てて呼び止めた。
彼女は、そのまま障子のサッシに着地し、路地裏に居るあたしを見下ろす。
「ここって……何なの……!?」
お願いだから、「ドッキリだ」とか「演出だよ」とか言って。
今頃、看護師さんたちも心配しているだろうし、夢なら夢で早く覚めてほしい。
そんな僅かな期待を抱きながら、朝露の君の答えを待つ。
しばらくして、彼女が小さく口を開いた。
「ここは源平、戦国、幕末を生きる方々が集う世界――
夢幻魔界……!?
唖然とするあたしに背を向け、朝露の君は部屋の中に入っていく。
織田信長は言わずと知れた戦国武将、以仁王は
もし、彼女の言ったことが本当なのだとすれば、どうして令和を生きているはずのあたしがここに居るんだろう?
……イヤ、今はそれよりやるべきことがある。最南端に行けば、元の世界に帰れるかもしれないんだから。
朝露の君から貰った被衣を頭から被り直したあたしは、僅かな希望を抱きながら歩き出す。
動いていないと、どうしようもない不安に押し潰されてしまいそうだった。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
キィン! ギャリーンッ!
大通りをしばらく進むと、前方から金属音が聞こえてきた。
あたしは道の端に寄って立ち止まり、目を
100mくらい先だろうか――暗くてハッキリとは見えなかったけれど、複数の男たちが
「――ギャァァァァッ!!」
断末魔と共に背中を反らせた男の体から、何かが勢いよく
心臓が、胸を突き破らんばかりに激しく波打っている。
「……う……ッ」
痛み始めた心臓を押さえ、覚束ない足取りで大通りを右に曲がると、目の前には大きな木製の橋があった。
あたしは橋の欄干にもたれかかり、その下を流れている川を眺めながら、ゆっくりと呼吸を整える。
男の断末魔、上半身から迸る血――先ほど見た光景が、頭の中を容赦なく駆け巡っていく。
胸に両手を当てつつ、脱力したあたしはその場にしゃがみ込んだ。
「……ハァ……帰りたい……」
口を突いて出たのが戯言だと気づき、自嘲するかのように1人笑みを漏らす。
もし元の世界に帰れたとしても、居場所なんてどこにもなかったな――生まれてきたその日、その瞬間から。
微かに吹く風が川沿いの桜並木たちを揺らし、花弁を
ピィー……ヒョロロ~……。
大通りの方から美しい笛の音が聴こえ、あたしはおもむろに顔を上げた。
少女が1人、横笛を吹きながら橋を渡ってくる。
黒い被衣を被っていて、顔はよく見えない。けれど垣間見えるその黒髪は、息を呑むほどに艶やかで美しかった。
華奢な肩が覗く桃色の水干に、
「そこに居るのは誰?」
橋の真ん中辺りまで来たところで立ち止まった少女が、橋の隣に立っている桜の木を見据え、問いかける。
え……? 誰か居るの……!?
「……オイオイオイ、人に訊く前にまず
と、どこからか低い男性の声がした。随分とぞんざいな口調だ。
スカートに笛を差し込んだ少女は、被衣に両手を添える。
「そうだったね」
しばらくすると、雲に隠れていた月が顔を出し、辺りを明るく照らした。
紅を差した少女の唇が、緩やかに
月明かりに照らされた彼女の顔は、触れるのを躊躇われる人形のように美しい。それでいて、長い睫毛に囲まれた
桜の花弁が風に舞い上がる中、少女は静かに口を開く。
「……僕の名は――
涙色の夢路(ゆめ)【壱】 陽萌奈 @himena1159
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