羽化
――しゃりしゃり、しゃりしゃりしゃり。
目を閉じると耳もとで水の流れる音がする。
だけどよく聴けば、それはひとの話し声なのだ。
むかしからぼくのそばにまとわりつくそれが、いったいだれに話しかけている声なのか、いつも不思議に思う。
「ちょっとなにやってんのこれ」
大声に身がすくむ。
ぼくは目を開けて、いつの間にか部屋に入ってきていたリクの様子を窺う。
心底うんざりした顔だった。
ああまた間違えたみたい。
キッチンに並ぶ道具の使いかたはぜんぶ決まっている。汚れた衣類は一緒に洗っちゃいけない。ぼくはいつも間違える。だから周りのひとは不快になる。
――しゃりしゃりしゃりしゃり。
そんなことがあると、たいていあの声が聴こえてくる。声は昼となく夜となく、突然耳に届く。姿を見たことはないけれど、なにかが、吐息の感じられるほどそばにいることは分かる。
ベランダから差し込む陽射しにまどろんでいるとき、声はお母さんが赤ちゃんに語りかける言葉みたいに甘くて、くすぐったい。ぼくは昆虫を捕まえるときみたいに、呼吸を止めて声の気配に集中する。そしてそっと網をかけるように、左目の瞼だけをうすく開く。だけどそこには何もいない。懐かしい気配だけを残して声は消えてしまう。そのたび、あっ逃しちゃったと思う。
ぼくが声を捕まえようとするのをリクは好まない。たぶん声が聞こえないからだ。これまで一緒に暮らしてきたひとはみんなそうだった。カタダさんもミンさんも、そんな声は聞こえないと言った。
リクは地縛霊という言葉を使った。なるほど、霊の声かも知れない。
ヒルデガルトは、聴いただけでなく光も見た。それは「生ける光の影」だったそうだ。ヒルデガルトに啓示を与えたという光を、ぼくも見ることができたなら。きっとそのとき、あの声がだれに語りかけているのかがわかる気がする。
「天使みたいなものだね」
機嫌の良いときリクが言った。リクの機嫌が良いと嬉しい。空気がゆるんで、張りつめてのどのあたりでかちかちに凍っていた息をほっと吐き出せるから。だから周りのひとが怖くない時間がずっと続けばいいのにと思う。
そのとき、吐いた息と一緒にぼくは思い出した。
中学校のとき、ぼくには天使の知り合いがいた。
天使、というのはぼくがそう呼んでいるだけで、そのひとにはちゃんとひとの名前があったのだけど、もう憶えていない。
最初に見かけたのは、昼休みの食堂だった。
背すじがすらりと伸びて、天から透明な糸で吊るされているみたいだった。そっと箸が唇へ運ばれるたび、薄い瞼が微笑むように閉じる。きれいな食べかたをするひとだと思った。
ぼくはクラスであまり話さない。教室のみんなはあまりにせわしなく、そしてゆっくりに見えるから。ぼくの周りにだけ薄いカーテンが掛かっていて、みんなの姿は影法師だった。
天使とも、ほとんど会話らしい会話をしなかった。だけどよく視線が合った。そしてそのときはたいてい、賑やかだった廊下や教室が一瞬しんと静まりかえるのだった。
天使は見た目どおりの優等生で、人づきあいもよく、いつも微笑んでいた。けれど、どこか絵空ごとのようだった。庶民の真似ごとをするお忍びの貴族みたいだった。人間の真似ごとをする人外の存在だった。その奇妙さを、だれも気にしていないのが不思議だった。
あの日の放課後は先生との話が長引いたせいで、教室に戻ったときはだれもいなかった。そう思っていたから、窓際に生徒がいて驚いた。
もうすぐ夏休みで、日暮れ前の教室には生ぬるく湿っぽい空気が溜まっていた。
グラウンドから吹奏楽の練習が聞こえていた。
その生徒は死んだみたいに席に突っ伏していて、それはほんとうに死体みたいで、ほとんど真下に向けた顔を机に貼りつけていて、両腕はだらんと下がって床に触れるほどだった。
ぼくはなぜだか息を殺していた。
生徒の白い首すじがのぞいていて、そこに黒い裂けめがあった。
背なかへ真っ直ぐ続く、深い裂けめ。着ぐるみの背中のファスナーみたいに、その裂けめが制服ごと縦に伸びるのをぼくは見つめていた。
ふと、
真っ暗な裂けめから、ふたつの目玉がぼくを見ていた。感情のない、だけど凝視といっていいほどゆるがない視線だった。
ようやく、そこで倒れ伏している生徒が天使なんだと分かった。その背なかからぼくを見つめるそれは、いつもの笑顔の裏側にある、天使のほんとうの顔なのだった。
ああ、やっぱりそうだったんだ。
ふだんの笑顔は見せかけで、ちゃんとほんとうの顔があったんだ。
その瞬間、ぼくは心の底からほっとした。ぼくだけじゃなかったと、理由も分からず理解できた。それまで周りのひとたちからずっと、なんどもなんども聞かされてきた不吉で恐ろしい神話が、ぜんぶ冗談でしたと言われたようだった。
久しぶりに思い出した天使の顔は、つい昨日のことのように生々しい記憶になってぼくのそばに佇むようになった。
むしろ、どうしていままで忘れていたのかが不思議なくらいだった。
眼を閉じて天使の顔を思い浮かべていると、ぼくのからだのなかでずっと種のまま埋もれていたなにかが、かり、と音を立てた。
その外皮から、これまで外光にさらされたことのない蒼白く湿ったものが、ゆっくり芽を出していった。
ぼくの生活はしだいに変わっていった。
いつも耳もとで囁いていたあの声を、ぼくはもう捕まえようとしない。
「最近はましになってきたよ。あいつも物覚えはいいんだ。言ってきかせればなおるんだから」
リクが電話でぼくのことをしゃべっている。
そういうときの口調は、ぼくに話しかけるときとぜんぜん違っている。
知らないひとみたいで、ぼくは不安になる。
だからいっそう、間違えないよう気をつける。部屋を清潔に保つこと。言葉をキャッチボールすること。会話では笑顔をつくること。唇のはじを引き上げていると、なんだが背なかがむず痒くなる。
夜になって布団にもぐり込んだあとは、うまく振る舞えている明日の自分をイメージする。でもすぐに、夢うつつのなかでうんざりした顔を向けるひとたちが浮かぶ。これまで周りにいたたくさんのひとたち。ぼくはいつも間違える。
そのとき、うっすらと光を感じた。
土中から地上へと伸びる芽が、最後の土くれを押しのけて浴びた陽光みたいだった。
背すじに沿って、すっと裂けめが走るのを感じる。
ぼくの背なかは、セミが古い皮を割るようにぱっくりと割れる。
――しゃり、しゃり、しゃり。
どこかで、せせらぎの音がする。
裂けめから、なにかが顔を覗かせる。
ぼくは、脱ぎ捨てられた肌着みたいにベッドの上でぺしゃんこに臥せていて、そのまま顔だけをよじって後ろを見上げる。
背なかの裂けめから、柔らかく、半透明で、しめったからだがゆっくり抜け出そうとしている。
それは暗い部屋のなかで、ぼんやりと蒼白い燐光をまとっている。薄曇りの日の影みたいに曖昧で幽かな光。
そのからだには粘液に濡れた翅がまとわりついていて、頭のあたり、髪の毛だか触覚だかがべとべと張りついたその奥には、丸い眼球があった。
たくさんの眼球。
そしてたくさんの唇が、一斉に囀った。
――しゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃり……。
懐かしい。
それはずっとぼくの内側で鳴いていた声。ぼくに閉じ込められていた声。
ああ、ようやく生まれることができて良かったねえ。その意識を最期に、ぼくは目を閉じる。
【掌篇集Ⅳ】天界の軋み 灰都とおり @promenade
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