【掌篇集Ⅳ】天界の軋み
灰都とおり
聖霊言語モデュレータ
きん、と透きとおる音がした。
退屈な楽曲解析の講義のあと、春の陽光が射し込む教室で、あなたは笑っていた。天使みたいに――つまり性も肉体ももたない存在として。あなたの空っぽなからだから、人間の粗雑な音とは違う、純粋な響きが聴こえた。
一九八〇年代のキャンパスの話題は現代音楽ばかりで、YMOの解散やクラフトワークの「人間解体」について話すのは私たちくらいだった。あなたはグランドピアノのある家で生まれ、厳格な
「天使がどんな姿をしてるか知ってる?」
あなたは面白がるように言葉を連ねる。四つの顔、回転する翼、青銅のように輝く足。輪の作りは光る貴
その肌に触れ、
夜は賑やかだ。昼よりも。そんな時代だった。経済成長と技術発展が喧伝され、二四時間消えない光が街を照らし、首都の東では神殿めいた巨大なテーマパークが人を集めていた。そんな人間たちの喧噪の裏から、ふとあなたと同じ音が聞こえる。繁華街の電子ゲームの残響、夜の公園を照らす切れかけた蛍光灯、その向こう側の世界から。あなたのからだは、きっとあそこから来たのだ。
授業でウェンディ・カルロスのアルバムジャケットを見たとき、ようやく分かった。モーグ・シンセサイザ。ケーブルに覆われた無機質な直方体。人間の身体性から切り離された、純粋な音の機械。その音はまさしく天使の声だった。人間に毒される肉体がないから、ほんとうに澄んだ音が出せる。あなたと同じ。
「きっといつか、鍵盤を叩く骨も、弦を押さえる指もいらなくなるね」
あなたはそう笑うけれど、そのからだの響かせる美しい音の意味を理解していない。あなたは肉体をもたないから、縛られることはない。人間の束縛に従う必要はない。そのことを伝えたかった。
私は作曲のアルバイトを始めた。そのころ、全国の家庭に広まっていたゲーム機の音楽。そこでは単純なドットが戦闘機の飛ぶ惑星となり、電子音のメロディが壮大な物語を立ち上げる。与えられたのは二系統の矩形波、一系統の三角波、そしてノイズ。パルス・コード・モデュレータは音を解体し、メモリに記録した断片から合成する。バラバラにし、再構成する。その天使の声の作法を、ひとつひとつ覚える。中世のジョン・ディー博士が聖霊の言語を書き留めたように。あるいは天地を創造した神の言葉をなぞるように。この音は世界を建てるのだから。あなたが純粋でいられる
日の暮れた廊下で、練習室から出てきたあなたと顔を合わせたとき、あなたのからだは細く乾いた音をひとつ立てた。その諦めたような笑顔が痛かった。もう帰らなくていい。あなたを縛る将来もあなたを苛む者たちも矮小な現実なのだ、そう思った瞬間、あなたの手をとっていた。きん、と眩しい音がした。
初めて夜中に学生寮へと連れ込まれたあなたは、珍しそうに窓の向こうの見知らぬ闇を眺める。小さな部屋を銀河鉄道に見立てて子供のように笑う。私たちはふたりで夜を明かし、下手なゲームで戦闘機を何度も落とす。
「まるでピタゴラスの聴いた天球の音楽」
私の曲を聴いたあなたは、オーケストラに比べればおもちゃのようなBGMをそう喩えた。古代ギリシャの数学者の夢想。惑星の奏でる音で満たされた宇宙――。私にとって、それはあなたのからだから聴こえる音そのものだった。ふたりきりの部屋のなか、8ビットで画像処理された宇宙を、天使の声が満たしていた。そこが私たちの住処だった。
翌朝、あなたを引き留められたなら。門限を破ったあなたがどうなるか、想像できたなら。すべては植物状態の子供の夢でした――あの都市伝説みたいに、この現実も夢だったなら。
報道は二日後だった。死因に意味はない。週刊誌は幼い頃からあったという虐待を憶測混じりに書きたてた。大学は興味本位の噂話で溢れた。そのどれも、私には理解できなかった。今更何だというのだろう。あなたの肉体はとうに奪われていたのに。
私は寮にこもり、シンセサイザを鳴らす。音の破片から、いつもの天使の声が生まれる。単調なシーケンスが響くなか、閉め切った部屋の暗がりでキラキラ光る羽根のようなものが見えた。羽根は降り積もり、透きとおった建物の基礎を形作る。そこは現実の外にある領域だった。音は回転する天使となり、荘厳な神殿を建てる。バラバラになったものは再構成できる――。ようやく、やるべきことが分かった。記憶にあるあなたの断片をひとつひとつ組み立てよう。中空の大伽藍で、天使のからだで微笑むあなたを生成しよう。
卒業後、私はゲームコンポーザーとして知られるようになった。音源も進化し、今では交響曲だって模倣できる。けれど豊潤となったのはその裏側のほうだ。私は作り続けている。時も空間も超えた広大な王国で、無数の天使たちとともに微笑むあなたを。人間に毒されない、ほんとうに純粋な音で満たされた宇宙のなか、私はあなたと踊り続けよう。
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