みずーり公園

不溶性

みずーり公園

 先生があたしのことを見た。諦めきった目をしていた。たずねかけた言葉を切ってあたしから目を背けた。

 それは英語の授業での出来事で、おそらく誰も気にしていない。あたし以外は。

 あたしは先生のことが大好きなのに、どうしてそう冷たくするの。評価してくれないの。

 つつましやかな性格で損ばかりしている。

 


 放課後になってゆずちゃんがゲームセンターに行こうと誘ってくれた。あたしはまるでそんな気分にはなれなかった。

 ごめんねと断って、断ったくせに特に予定もなくて、家の前の公園でぼうっとすることにした。

 ブランコに揺られる。

 


 晴れた15時は生あたたかくて、肌にまとわりつく空気の温度と体温とが近くて、あたし、この地球上にほんとに存在しているのかどうか、分からなくなってしまう。

 こうして黙っているとほんとうに空気になったみたい。

「死んだ人は分子になって、ここやそこの空気中にずっといるんだよ」

 べるりんが量子力学の勉強ばかりしていた時期、聞いた言葉を思い出した。あたしのお父さんがいなくなった15歳の時に、あたしの手を握って言ってくれたのだ。

 べるりんはくそ真面目な顔をしていて、まるでこの世の真理みたいに言った。あたしに理屈を理解することはできなかった。

 身長185cmもあった私の大好きなおとうさん。たくさん本を読んでいたおとうさん。ひとの気持ちをなにより尊重していたおとうさん。ひとの痛みを引き受けて体を悪くして死んでしまったおとうさん。かわいそうなおとうさん。そんな大きな実存が、どうして分子になってしまうの。

 でも、真剣なべるりんの瞳をみていたら、死んだ人は星になるんだよっていうおとぎ話みたいに、すっとあたしの心に根を張って、世界の常識になった。

 


 みずーり公園。ブランコと滑り台と、オクトパスを模したあまり見ない形のジャングルジムがある。ボール遊びができる広さがあり、花火もできる。そんな公園は最近少ない。近所の子どもであふれていてもおかしくないけれど、みずーり公園にはびっくりするほど子供がこない。

 みずーり公園のシンボルは、ミズーリ。アメリカ海軍の戦艦。どんな遊具よりも大きくミズーリ戦艦の模型が置かれている。ミズーリ戦艦は太平洋戦争で日本が戦った270.4メートルもある戦艦。その実寸大がある。もちろん戦艦としての機能はまったくなくて、中身は空洞だけれど。

 


 日が暮れかけて、あたしはまだ、自分が生きていることをしる。半袖じゃ肌寒くなってきた。あー、あーーー。なんとなく声をあげてみる。閑散とした公園に声が響いた。まったく恥じらいなかった。

「ほたる」

 みずーりがあたしに声をかけてきた。正確に言うと、ミズーリ戦艦が。

「ほたる、甲板に上着があるから着て帰りなよ。風邪をひいてしまうよ」

 あたしは素直に戦艦のそばまでいって、甲板までのびたはしごを上る。広い甲板で上着を探してうろうろしていると、やわらかいものをふんだ。砂だらけの黒いパーカーだった。舞う砂埃にあたしは顔をしかめる。

「いらない。砂がすごいから」

「……そうかい」

「みずーり、どこからあたしを見てるの」

「ほたるはぼくを踏んでいるよ」

「そういう冗談は聞きたくないの」

「ぼくはミズーリ戦艦そのものなんだって」

「ミズーリ戦艦が人間サイズの服を持ってるんだね、わらける」

「それはおーじが置いて行ったものだ」

 おーじが。

 あたしはつま先に落ちているパーカーを改めてみた。おーじはみずーり公園に生息していた住所不定無職のおじさんだった。

 住所不定無職なんだろ、とあたしが笑えば、おーじはみずーり公園の住所をすらすら唱え、自分がいかに道端の空き缶や古紙を集めて街をきれいにしているかを語った。

 そんなおーじの姿を、あたしはここ一カ月みていない。

「おーじ、どうしたの」

「彼はここに住んでいた」

「いまはどうしているの」

「もう別の住処を見つけたんじゃないかな。ほたるも知っていると思うけど……」

「あたし、なにも知らないの」

 みずーりの声が遠くで鳴っている。反響して、輪郭がなくなって、ぼあぼあしてきて。

 それはみずーりの脈動みたい。

 生きて、動き出しているみたい。

 砂の上のミズーリ艦隊が航海を始めたようにあたしには思えた。みずーりの中にいたあたしだけがそう思った。

 おめでたい頭をしているから。

 父がいなくなった日に、あたしは世の中のほとんどを見ることをやめたし、考えることもやめようと決めたんだ。

 ミズーリ艦隊が動き出している。あたしをこの街から連れ出して。これからのことを考えるだけの、余裕がない、それなら逃げ出すしかない。

 そうでしょ。


「みずーり、この街のひとはいい人たちだよ」

「そうかい」

「いい人たち。いい人たちでも、あたしを助けてはくれないの」

 

 みずーりの脈動は大きくなっていく。

 実際には、この街は揺れている。あたしの携帯から心臓が飛び出してしまうくらいの、サイレンがなる。けたたましい。

 命の危険を告げる音。

 街のスピーカーからも。ニゲロ。ニゲロ、という。

 

 みずーり公園を愛していたおーじ。この街をきれいにしていた、おーじ。おーじが住処を変えなくてはならなかった理由を、本当は知っていた。

 この街は子供が多い。なのにみずーり公園の人気がないのは、おーじがいたからだ。子どもの親たちが、おーじに近づくな、おーじが住んでいるあの公園にはいくなと、きつく子供を叱っていた。あたしの隣の家のおばさんが、おーじのことを街の偉い人に悪く言っていた。おーじが近所の女学生をいやらしい目で見ていたとか、自動販売機のおつり口を頻繁に探ってお金を見つけようとしているから教育に悪いとか、あることないこと、言っていたの、本当は知っていた。だからおーじはよく警察に職務質問をされるはめになったし、この街を歩いて道端をどれだけきれいにしても、陰口をたたかれるようになった。でてゆけと、言われるおーじをあたしは、なにもしらないようにふるまって、一緒に追い出してしまった。この街を、出てゆくことは正解だったよ。おーじに言いたい。あたしの心に引っかかっているのは、おーじのみかたになりきれなかったことと、みずーり公園にいさせてあげられなかったことだけ。みずーり公園があるのが、この街でなければよかったのに。

 脈動は、とまらない。立っていられなくなって、あたし、しゃがみこんだ。ニゲロ、ニゲロ。あたしは結局、この街をでてゆくことをしない。

「ほたる。ぼくも君を助けてあげることはできないよ」

「いいの、わかってる」

「なんせぼくは戦艦なもんでね。にんげんを助けられるのは、結局、にんげんだけなんだと思うよ」

 あたしはみずーりにおしりをつけて、揺られながら空を見て、生暖かい空気を吸い込みながら、泣き出した。むしょうに悲しくなったから。どんどん大きくなる揺れの中で、この街が壊れていく様子を想像した。あたしを助けてくれない人たちのこれからを考えて、涙が出た。あたしのこれからなんてなかった。ただ、彼らの。あたしがあたしのことを考えもしないのに、それじゃあ誰があたしのこと思ってくれるの。自嘲して泣く。おもしろい。あたし、いま、どうして泣いているんだろう。



「ほたる!!!!!!!!!」

 あまりの大声に身を起こす。みずーりの声じゃない。地面から聞こえてくる。かんかんかん、はしごを上るおと。揺れはまだやまない。甲板から身を乗り出して、はしごを見下ろした。べるりんがいた。

「あぶないから下がってて」

 べるりんが叫ぶ。彼は甲板まで来ると、あたしの手を握った。あんまりべるりんの手が冷たいから驚いた。

「どうしてみずーりにいるってわかったの」

「学校の帰りに見た、ぶらんこで黄昏てるの。だからもしかしたらまだいるかもと思って」

「いなかったかもしれないよ」

「地震でゆれてるのに、公園に一人だと、心細いでしょ。いなかったら避難所に戻ればいいだけ」

「ここまで来るなんて、べるりんが危ないじゃん。あたしが寂しくないようにってみずーりまで来て、べるりんが死んじゃったら、わけわかんないよ。あたし、もっと寂しくなるじゃん」

 べるりんはくそ真面目な顔をして、ほんとうだ。と言った。それがどんなにおもしろかったか。あたしは泣きながら大笑いして、おーじが置いて行った汚れたパーカーで涙をぬぐった。みずーりの脈動はとまっていた。あたしたちはこの街の中にいた。べるりんの手がだんだんぬくくなってゆくのを感じながら、あたしは少しだけ、自分を許せた気がした。



 

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