第3話 逃亡計画
ヴァンゲリスの計画はこうだ。
二日後の未明に出発するサンドレールの貨物室にレフを隠す。彼が貸し切りにした車両だ。
車両は中央都市の車両基地に運ばれるはずだから、レフはそのまま潜伏する。半日遅れてやってきたヴァンゲリスが、彼女を迎える。
無謀としか思えない計画だが、二人は必ずうまくいくと信じていた。
若い使命感と野望が、その目をくらませていたのかもしれない。
「万が一捕まったら、君はおれとの交接が嫌だったと答えればいい」
ヴァンゲリスは楽観的に笑っていた。
そして計画は実行された。
満月の夜はパレスの衛兵もぐっと数が減る。
月の光に耐えうる人材が少ないからだ。
最も警備の薄い北側の壁面を伝って降り、レフはパレスを抜け出す。
拍子抜けするほど簡単に、それは成功した。夜の街を走りながら、レフは信じられない気持ちでいる。
発着場に停まった列車は、ヴァンゲリスが指示した通り、十四番目の車両の壁の板が緩んでいた。
音をたてないように静かに板を押しのけて、レフは貨物室の中に身をねじ込む。やや手間取ったが、これで潜伏は完了した。
中は木箱と樽、何を象っているのかわからない石像や書物、雑多なものが詰め込まれていた。それから話の通り、身を隠すための大きな木箱と、革袋が三つ。二つは飲料水、一つは食料。期待するなと言われたから、多分干したナツメヤシがぎっちり詰まっているのだろう。まあ食べられれば十分だ。
定刻通りに出発した列車は、やがて南方砂漠と中央都市を分断する〈涸れ谷〉にかかる鉄橋に差し掛かる。
そこで、突如として停車した。
床に座り込み、膝を抱え少しウトウトしかけていたレフは、急減速の衝撃で膝に頭をぶつける。しかし痛みはかえってレフを即座に覚醒させる手助けになった。
「検問だ!乗員は指示があるまでその場を動くな!」
板の隙間から、松明を持った軌道警備兵たちが何人もやってくるのが見える。
「御子が脱走したとパレスから報告があった。悪いが乗員と貨物、全て調べるぞ」
「好きにしろ」
警備兵の示す令状を見て、サンドレールの乗組員が肩をすくめている。
クソ。いくら何でも早すぎる。レフは内心舌打ちした。
ヴァンゲリスが通報したのか?しかしあまりにも動機がない。彼は共犯者なのだから。
あるいは…。そこでレフは思考を打ち切った。今考えるべきことではない。
考えるべきはいかにしてここから逃げるか。あるいは逃げないか。
大人しくここから出て行って、私が御子だということもできる。するとどうなる?レフは保護され、パレスに送還される。罰を受けるだろうが、軽く済むだろう。少なくとも肉体に害をなす罰はあり得ない。何しろパレスの財産である御子なのだから。子を産めなくなっては困る。
しかし監視が厳しくなることは明らかで、二度と脱走することはできなくなるだろう。おそらく、いや確実に。
何よりも、一度逃げた御子は徹底的に再教育される。そうなれば、そもそも脱走しようとすらしなくなる。
だとすれば逃げないことは論外だ。
ではいかに逃げるか。
このまま隠れていることもできる。しかし警備兵が私を見落とすとは思えない。買収もできない。現状、レフの有する全財産はレフ自身の身体のみだ。
身体を差し出すことは可能だ。だがそれが何になる?刹那的肉欲で警備兵が人生を棒に振るだろうか?それよりも御子を捕らえた褒章の方が圧倒的に価値がある。あり得ない話だった。
その時、警備兵の一人がこの貨物車の方に近づいてくるのが見えた。急がなくてはならない。
レフは革袋を二つだけ身体に結び付け、入って来たのと同じ壁板を押し上げて外に出た。幸い、月は雲の中に隠れている。闇に紛れてレフは列車を離れると、鉄橋近くの岩場に身を隠した。
歩いて鉄橋を渡ることはできないだろう。目立ちすぎるし、この様子では鉄橋自体が検問に封鎖されているに違いない。
砂漠を歩いていけば、確実に死ぬ。灼熱の昼と氷の夜にすべてを奪われ、天然のミイラと化すだけだ。そもそも涸れ谷を越えなければ探求院に辿り着くことはできない。
レフは振り返って背後の闇を見る。涸れ谷がぽっかりとその口を開けていた。
それほど深くはない。崖も絶壁ではなく、ある程度の角度で谷底まで続いているし、岩棚も多い。うまくすれば伝って降りられるかもしれない。
だが、涸れ谷だ。おぞましき蟲病みたちの住む、無明の地。
それでも選択肢はない。
レフは一度逃げた御子のことを思い出す。彼女は徹底的に再教育され、かつての闊達さは鳴りを潜めた。何よりも、あれだけ明るい笑顔を浮かべていたのに、卑屈に、それも時々しか笑わなくなった。
パレスの中庭で諦めたように空を見上げる彼女は、もう別人だった。
それも一つの人生だろう。しかしレフは思う。
私はまだ私の人生を諦めたくはない。
レフは一つ呼吸して、姿勢を低く保ったまま、崖に向かった。
「捜索完了しました」
「ご苦労。精鋭とは言え、人手が少ないとやはり時間はかかるな。…それで?」
上官の女は鋭い目で部下を見る。
「くまなく探しましたが、御子は発見できませんでした。しかし、貨物車に何者かが潜伏していた痕跡があります」
警備兵の一人が、女に革袋を差し出した。
「水か。持ち切れず置いて行ったな」
「鉄橋は既に封鎖しています。逃げたとすれば、砂漠あるいは谷底ですが」
「谷底だろうな。間違いなく」
女は即答する。
「しかし涸れ谷ですよ?それに今夜は満月です。逃げ込むなど正気とは思えません」
「正気の人間はパレスから逃げようとしないものだ」
警備兵の疑問は女に一蹴される。
「城下町にまだ潜んでいる可能性もありますが…」
警備兵の一人がおずおずと口を挟んだ。
「あり得ないな。御子を匿えば死罪だ。逃走に手を貸すものはいない。まあ万が一城下にいるならば、陽が昇るころに自ずと見つかるだろう」
女はそれだけ言うと、集まった警備兵をぐるりと一瞥する。
「谷底に降りるのは私と数人だけで十分だろう。あとは対岸を含めて、谷の上の警護を固めろ。足りない分は増援を呼べ。ぬかるなよ」
女の目の底に、不気味な光が澱んでいる。彼女の名はザハといった。
誰よりも御子の職務を崇め、パレスに絶対的忠誠を誓う女。
「思い知らせてやらねばな。己の価値と、その使命とを」
ザハは小さく呟く。こうして、追跡劇が幕を開ける。
同じころ、レフは谷底に到達する。
より正確には、転落と言うべきだろう。
ほとんど谷底に近づいた時、気の緩みからか、レフは足を滑らせた。
数メートルの高さの岩棚から滑り落ち、そのまま谷底に転がっている。
幸い大きな外傷はないようだが、転落の衝撃で意識を失っている。
そこに、大きな影がにじり寄る。
熊か、それとも大きな犬か。豚のようでもあるし、肥大化した鼠にも似ている。いびつな影の主は異形の巨漢、テラスである。
元より大柄な男だったが、膨れ上がった蟲瘤が全身を覆い、もはや人とは思えない姿へと変貌していた。
巨漢の目的は明らかだった。息遣いは荒く、興奮していることがわかる。
突如として目の前に現れた女の肉体を、満月で昂った蟲憑きが見逃すはずもない。巨漢のむき出しの粘膜から薄汚れた汁が滴っている。
レフは組み敷かれ、強姦されようとしていた。
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