第2話 北の研究者、ヴァンゲリス
白い壁の回廊に、扉がずらりと並んでいる。
これらはすべて、御子が種を授かるために作られた部屋だ。
レフは嫌悪しか感じなかったが、努めて顔に出さないようにした。
どうせ逃げることはできないのだから。
「失礼いたします」
ノックをすると、レフは扉の一つを開けて中に入った。
御子の間に入るのは初めてだ。話には聞いていたが、中はさっぱりと掃き清められ、甘だるい香の匂いが立ち込めていた。
入ってすぐに寝台があるものだと思っていたが、どうやら違うらしい。
衝立で区切られた入り口のスペースには、櫛と鏡が置かれている。
これで身を整えてから会いに行けということか。
「佳いでしょうか」
衝立の裏からレフが声をかけると、すぐに「は、はい」と返事があった。
男は落ち着かない様子で寝台の傍に立っている。
「やあ、ああその…。よろしく」
「どうも。レフと申します」
男はレフの方を見たが、決して目を合わせようとはしなかった。
沈黙が続く。
レフは何かすべきなのかと考えたが、面倒なので何もしなかった。
優秀な学者と言えど、どうせ男だ。昂れば勝手に私を犯そうとするだろう。
が、しばらく経っても男は何もしてこない。
「私を犯すことになにか抵抗を感じるのですか?」
あまりに明け透けな質問に男は赤面する。
「…感じるよ。当り前さ」
そう言ってから男は慌てたように付け足した。
「いや違うんだ。君に性的魅力を感じないとかそういうわけじゃなくって…。何というか、おれはその…」
必死に何か訴える男だったが、夢中でいつの間にかレフの手を掴んでいることに気が付くと、赤面して手を離した。
「男色だとでも?だとすれば注射器法を選べば良いのではないですか」
注射器法は、別途採取した男の精を御子の胎に器具を使って注入する方法。
「違うんだ。そもそもこの交接をセッティングしたのはボスだ。おれの希望なんて関係ないさ」
あとおれは男色ではない。小声で男は付け足した。
「おれは…こんなやり方おかしいと思ってる。まるで君たち御子は道具じゃないか」
「私たち御子は希望の礎。人ではないのですよ」
「おれはそう思わない。君も本当に納得しているのか?」
男はそう言うと、初めてレフの目を見た。
「君は…学理子宮を知っているか?」
「…いいえ。学理ならわかりますが。探求院が追及する知識と技術ですね」
「そうだ。つまり学理子宮とは、その智と技によって人工的に作り出した子宮を指す。要は母体の代わりに子を産む…ある種の生体装置のことだ」
レフは目を見開く。なんて大それたアイデアなんだろう。
「おれはそれを造ろうとしているんだ。これが実現すれば…」
「私たち御子が人生を費やして、子を産む必要がなくなる」
「その通りだ。君たちは解放される」
絶句して、レフは立ち上がる。慌てて男が身体を支える。
「それだけではない…。何よりも人類の血の浄化が本当に実現する」
寝台に腰かけたままの男を見つめ、レフは熱っぽく語った。
「パレスの提唱する血の浄化法は、あまりにもお粗末です。
私たち少数の御子だけで、人類すべての繫殖機能を賄えるはずはない。
結局は金があり、御子を買える一部の男とパレスの上層部だけが得をする。
何よりも、この方法では、蟲憑きの女が子孫を残すことが出来ない」
「驚いたな」
今度は男が驚いて目を見開く番だった。
「そんなことを考える御子がいたとは」
「御子は皆、産むしか能のない愚かな女だとでも?不快な思い込みですが」
「いや、そうじゃない。いや…とにかく、君のような人は、御子にしろ蟲憑きにしろ初めて会ったよ」
御子にしておくには、あまりにも勿体ない。男は心の底から思った。
「僭越ながら提案したいのですが、いいですか?」
「うん?」
「学理子宮とは即ち、御子の胎の再現。つまりデータとして、御子の身体を調べる必要があるはずです」
「その通りだね。実はデータ収集が一番難儀しているところなんだ」
そう言って男はカバンから小さな鏡とレンズを取り出した。
「君さえよければ、ちょっとこの場で協力してくれないかな?」
「断ります」
レフの即答に、男は頭を掻いた。
「まあそうだろう。済まないな」
「条件次第では受諾しますが」
「条件?」
レフは一呼吸置くと、思い切ったように言った。
「私をここから逃がしてください。ヴァンゲリス主任。
探求院に連れて行ってくれれば、いくらでも有用なデータが得られるでしょう。そうすれば学理子宮は完成に大きく近づく」
とんでもない提案だが、レフの目は真剣だった。
「…なるほど。いや…。なるほど」
ヴァンゲリスはまた頭を掻く。しかしその目の奥では目まぐるしく思考が働き始めていた。
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