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二日後の土曜日、僕は駅前の待ち合わせ場所に向かって歩いていた。
あれから雨は降っていない。今日は僕の天敵である太陽様が灰色の雲に隠れている。雨は降りそうにないが、僕にとってはまだ良い天気だった。
指定された場所に着くと、相手は先に待っていた。
「こんにちは、東雲くん」
一昨日の夜、部屋で暇つぶしに適当に選んだ本を読んでいると、雪月から着信があった。
「こんばんは。雪月です。今大丈夫かな?」
「ああ、暇つぶしに本を読んでたとこだから」
「東雲くんも本読むんだね。私もよく読むよ。今度おすすめを──って違う違う。そうじゃなくてね。東雲くん、今度の土曜日なんだけど、何か予定あったりする?」
勿論、何も予定はない。そう告げると、おずおずと緊張したような声が返ってくる。
「もしよければ、会えないかな? 色々と話したいことも、聞きたいこともあるし」
不必要な外出をする気は一切ないが……まあ、これは必要な用事になるだろう。僕が構わないと答えると、雪月の声色が明るくなる。
「よかったあ。楽しみにしてるね!」
場所と時間を決めて電話を切る。
誰かと約束をして出かけるなんていつ以来だろうか。思い返してみるが、記憶に無い。少なくとも、八年前からは無いはずだ。
なんだか、雪月を助けてからというもの調子が狂う。僕の灰色で淡々とした、色味のない日常に存在しなかった色が差し込んできた、そんな気がする。それがいいことなのかどうなのかはわからない。
ベッドに横になり、読書の続きをするが、いつも以上に内容は頭に入ってこなかった。
「日差しはないけどジメッとした暑さだね。東雲くんは長袖で暑くないの……って、そっか。ごめんね。まだ包帯取れない?」
「いちいち謝らなくていいよ。一応まだ巻いてるだけ。気にしなくていい」
僕は長袖のグレーのシャツにチノパンという格好だ。雪月はというと、白いワンピースに薄手のカーディガンを羽織っていた。この間の白いパーカーといい、部屋着といい、雪月は白色が好きなのだろうか。
「なんだか降ってきそうな天気だけど、予報だと今日は平気みたいだね。週明けにまた夜中に降るみたい」
「みたいだな。残念……ってのはさすがに不謹慎か」
「東雲くん、雨の日が好きだもんね。雨の日っていつも、ちょっとだけだけど上機嫌だもん」
その言葉に僕は驚く。確かに雨の日は心が浮ついているが(もちろん魔法が使えるからだ)、表情や仕草には出さないように意識していた。いつだったか沢田にも似たようなことを言われたけど、雪月は沢田とは違って今まで関わりはなかったというのに。
「立ち話もなんだから、行こう?」
そう言って雪月は歩きだしたので、僕も後についていく。そういえば目的地を聞いていない。
「で、どこにいくんだ?」
「私ね、喫茶店巡りが好きなんだ。こないだいいお店を見つけたの。ここからだと少し歩くんだけど、隠れ家みたいな場所にあって、お客さんも少ないの。珈琲とパンケーキがとっても美味しいのと、お店の中に飾ってある猫ちゃんたちが可愛いんだ」
どうやら目的地は雪月お気に入りの喫茶店らしい。
「でね、あんまり人に話が聞かれない話をすると思って。まほ……じゃない。そう、特別な話をね。そのお店の奥まったスペースにある席なら、周りに聞かれないんじゃないかなって」
雪月なりに考えてのことらしい。それにしても、その喫茶店の特徴、向かっている方角……。まさかとは思うが──
「なあ、雪月。その喫茶店の名前は?」
「それが名前も可愛くてね。『陽だまりの猫』っていうの」
なるほど、こんな偶然もあるんだな。僕はその喫茶店に一度だけ行ったことがある。
駅前の喧騒から逃げるように歩いて十五分程、僕たちは目的地に到着した。
静かな住宅街の中で、背の高い木々に囲まれている赤煉瓦の洋風な建物だ。小さい洒落た装飾の看板に、店名とデフォルメされた猫の絵が描かれている。
重たい扉を開けると、ひんやりとした心地よい空気が迎え入れてくれた。クラシックの音楽が静かに店内に響いている。左側にはカウンター席が並んでおり、右側にはテーブル席が三つ並んでいる。入り口からは見えないが、僕の記憶が正しければ左奥にここからだと隠れたスペースがある。
土曜日の昼間だというのに、店内には女性が一人、窓際の席に座っているだけだった。雪月のいう通り、本当に客が少ないんだな。こんなんでやっていけてるのか、なんてどうでもいいことを考える。カウンターの内側に立っている初老の男がこちらに気づくと、「いらっしゃい」と低く落ち着いた声で僕たちを迎え入れた。
「こんにちは、店長さん。奥の席って空いてますか?」
「ああ、空いてるよ。また来てくれたんだね、晴月ちゃん」
どうやら雪月とこの店の店長は顔馴染みらしい。「こっちだよ」と雪月に案内されるがまま、左奥の隠れたテーブル席に着く。すぐに店長が水を運んできて、僕と目が合った。
「君……灰夜くんか?」
「……お久しぶりです」
よく僕だとわかったものだ。以前来たのは四年前、しかもその一度きりだけだというのに。
「え? 東雲くんと店長さんは知り合いなの?」
「四年前だったかな。前に一度だけ来てくれたことがあってね。灰夜くんのお父さんと私が知り合いなんだよ」
大きくなったなあ、なんて笑いながら、あの頃と変わらない店長は僕と雪月に交互に視線を向けた。
「二人は……なんだ、お付き合いしてるのかな?」
「お! おつき! お付き合い!?」
真っ赤にした顔を手で隠しながら雪月は俯く。はわわ、なんて震えてるので、僕が代わりに否定した。
「そんなんじゃないですよ。学校の行事の相談です」
「そうなのか。休みの日に大変なんだね、今時の学生さんは」
僕の嘘に店長は疑問を持たずにメニューを差し出してきた。
「晴月ちゃんはとりあえずいつものでいいかな?」
「ひゃい! それで大丈夫ですぅ」
「僕はアイスコーヒーで」
かしこまりました、と丁寧なお辞儀をして店長は離れていった。
「あ、ありがとう」
「別に。それより雪月はよくここに来るのか?」
「うん、今年の初め頃に見つけてから半月に一回は来てるかな」
「そうか。変なことを聞くけど、雨が降ってる時に来たことは?」
「それは……あれ? 言われてみれば雨の時に来たことないかも」
その答えを聞いて、改めて雪月が魔法とは縁のない人間であることがわかった。この店のことは……聞かれなければ教える必要もないだろう。
注文したものが運ばれて来てから、魔法について雪月に教えることとなった。もちろん、雪月が魔法を使えるようにするわけではないので、教えるのは魔法と魔法使いについての概要だけだ。
「この間も言ったけど、魔法は雨が降ってる時しか使えない。これが大前提だ。魔法とは現実には起こり得ないような現象、あり得ない力のこと。常識とはかけ離れたものだ。そんな魔法を使える人間を魔法使いという。ここまではいいか?」
「うん。簡単には受け入れられないけど、この目で見て、体験したことだからね」
「話が早くて助かる。勘違いしないでもらいたいのが、魔法使いは万能じゃないってこと。何でもかんでもできるわけじゃない。それに、魔法を使うために長い年数をかけて修練する。僕が八年前からしてきたようにだ」
基本的に、魔法の修練を始めるのは幼いほどいいらしい。魔法という非常識を新たな常識として受け入れやすいからだ。僕は八年前、つまり九歳の時に魔法使いとなったが、父がいうにはそれでも遅いぐらいだという。
「八年間も練習してきたんだね。一つのことをそんなに……やっぱり東雲くんは凄いよ。私は色んなことに手を出すけど、そんなに長続きできないもん」
「僕からしたら、そのチャレンジャー精神の方が凄いけどな。僕は魔法以外で言えば暇つぶしの読書ぐらいしかない」
魔法以外に熱中できるものなんてあるわけもなく、魔法以上に素晴らしいものなんてものはない。魔法以外は意味がない。それが僕の全てだった。
「読書! 電話の時も言ってたね。私も読書が趣味の一つなんだけど……って、これじゃまた同じだね。今は魔法について教えてもらわないと。東雲くんはどんな魔法が使えるの?」
「僕が使える魔法は手を触れずに物を動かすこと。これは魔法使いとして平凡で単純な魔法だけど、これしか今は出来ない」
本当はもう少しできることもあるのだが、ここで全てを曝け出す必要はないだろう。
「しょうがないなんて……。あの水の化物に襲われた時、パイプ椅子を操ってたよね? あれで逃げることができたんだよ。何よりも、ビルから落ちた私が助かったのも東雲くんの魔法のおかげ」
「人間相手に使ったのは初めてだったけどな」
そうだ。いくら魔法使いとはいえ、落ちてきた雪月を助けられる保証なんて無かった。なのに、僕の体は勝手に駆け出していた。魔法使いのタブーを犯してまで、雪月を助けた。何度も自らに問いかけた「何故?」という疑問を、今は胸の内にしまっておくこととする。
「東雲くんの魔法で私は助けられたから。本当に凄いと思うよ」
「別に褒めても何も出ないから。……とにかく話、続けるぞ。魔法使いと言っても元は他の人間と同じだ。そんな普通の人間が魔法使いになるために必要なことがある。さっき雪月は自分も魔法を使えるか? そう言ったな。その為に長い修練の期間を必要とするのと共に、もう一つそれを困難にする理由がある」
「必要なこと?」と、少し身を乗り出しながら雪月は聞いてくる。
「それは、魔法という非常識を常識として受け入れることだ。言葉としては簡単そうに思えるが、魔法なんて非科学的な非常識、簡単に受け入れられる人間はいない。長い年月をかけて魔法の修練を続けるのは、非常識を常識として刷り込ませていくためなんだ」
「非常識を常識とする……。それって、『自分なら絶対に出来る!』って信じるってこと?」
「……まあ、そういうことだな」
自分を信じる、か。さて、僕は自分を信じられているのだろうか。自分の行動に疑問を持っているというのに、自分を信じる?
……僕が信じられるのは、魔法だけ。そう、それだけでいいはずだ。魔法以外は必要ない。無意味なこと。何度も繰り返してきた、僕の世界の真実。
「──東雲くん?」
雪月が怪訝そうに顔を覗き込んでくるので、「なんでもない」と答えて、冷えた珈琲で喉を潤す。
「あの水の化け物も魔法なんだよね? あの赤い傘の人の」
「そうだな。僕は他の魔法使いとあまり関わりがないけど、ああいうことができる奴もいるらしい。あれが屋上にいた女の魔法なら、あの女の魔法使いとしての力量は、僕とは格が違う」
「難しい魔法ってこと?」
「そういうこと。あの意思を持ったような化け物を、あれだけ離れていて、しかも視界外からときた。かなり高位の魔法使いだろうな。……もしくは、あの廃ビルを『城』としてるのかもしれない」
「シロ……? シロってお城の城?」
そうだ、と答えながら、思わず口を滑らせてしまったことに後悔する。何もここまで話す必要はないはずだ。だというのに、なぜか雪月を相手にしていると僕は気が緩んでしまうようだった。
「……わかりやすいように言い換えるなら結界だ。定めた場所に魔法を付与して使うもので、外からの侵入や中からの脱出を拒むために使うのが一般的。城の中に限って、本来の力にブーストをかけることもできる。今回の可能性の一つとしては後者の使い方だ」
「そういうのもあるんだね。東雲くんも使えるの?」
「使えることには使えるけど、範囲が狭い上に準備に時間もかかる。実用的ではないな」
大掛かりな城ほど準備に手間がかかる。その手間も高位の魔法使いになればなるほど時間をかけない。僕がもしもあの幽霊ビル全体を城と定めるとしたら、おそらくまる一日はかかるだろう。僕の師である父なら一時間もかからないだろうが。
「魔法使いってもっとなんでもありなイメージだったけど、大変なんだね」
雪月の言う「なんでもありな魔法使い」がもしもいるのなら、それはあまりにも非常識に針を振りすぎている。常識の世界を真っ向から否定していると言ってもいい。そんな狂気を孕んだ存在こそが魔法使いとして一流なのだろうが。
「まあ、つまりだ。同じ魔法使いでも、あの赤い傘の女に僕は敵わないってこと。雪月が言うように捕まえる、なんてのは容易じゃない」
わざとらしく両手をあげて、僕はため息をついた。あの女には敵わない。そんなことは五年前のあの日からわかっていたことだ。僕の目的はあの女に会うことだが、相手をどうこうするつもりはない。ただ、会ってもう一度話したい。ただそれだけだ。
「大丈夫だよ。東雲くんは一人じゃない」
雪月は当然のことのようにそう言った。僕だけじゃない、私がいると。
「……で、あの女を捕まえるために雪月は何ができるんだ?」
当然の疑問だ。魔法使い相手にして、ただの人間に何ができるというのか。
「そうだなあ……あの水の化け物、あれぐらいだったら次はなんとかなるかも」
「……へ?」
自分でも驚くぐらい、情けない声が出た。なんとかなる? 魔法使いでもない一般人があれを?
「うん、魔法使いについてはわかってきたよ。そんなに素敵な力を持ってるのに、あんなことをするなんてますます許せないね。ここからは、犯人を捕まえるための作戦会議と行きましょう!」
そう言ってぱん、と手を叩いてから、雪月は足元のバッグからノートを取り出した。
「それは?」と聞くと、「秘密のノートです!」と答えながら、ノートを静かに机の上へ置いた。
「犯人を捕まえるためには、まず事件のことをよく知っておかないとと思って。調べてて気分のいいものじゃなかったけど、これも犯人を捕まえるためだから」
そう言って最初のページを開くと、几帳面な字がびっしりと書き込まれていた。一目見ただけでもよく事件について調べていることがわかる。
ノートの冒頭には、「今回の天罰事件について」と大きめな字で書かれていた。
「雨に日の夜中だけに起きる、連続殺人事件、通称『天罰事件』。この名前あんまり好きじゃないんだけど、もうこの名前で定着してるみたいだから使ってくね。この街で起きた五年前の事件と連続してるみたいだけど、まずは先月から続いてる一連の事件から」
細くて白い指でノートの文字をなぞりながら続けていく。
「最初は五月の二七日に起きたこの事件。場所は私たちの集合場所だった駅前から歩いて十分ぐらいの路地裏で、時間は雨が降っていた夜遅く。亡くなった人たちは三人で、みんなマシンガンで撃たれたみたいだったって」
幽霊ビルでの一件を思い出す。あの水の化け物は文字通り水の弾丸を撃ってきた。ガラスを破り、コンクリートの床に穴を開けるほどの威力。人間の体では決して防ぎきれないモノ。あれは連射ができないようだったが、魔法使い本人の魔法か、術者がより近くで干渉すればマシンガンのようにもなるのだろう。
「一応聞くけど、その被害者たちはどんな奴らだったんだ?」
「大学生と半グレって言われてる人達だったみたい。中には女の人に暴力をしてたこともあるみたいで……」
予想通りの答えだ。五年前から続く天罰事件は、雨の夜に起きることと合わせて、不良や半グレを標的としていること、穴が空いた遺体、これらの条件が重なって、連続した事件であるとされてきた。
先月の終わりに起きた二件目の事件、今月の頭に起きた三件目、そして先日起きた四件目についてと、雪月は静かに続けていく。淡々となるべく感情を乗せないように意識した話し方をしているのは僕でもわかった。その内はどうあれ、思うところがあるのだろう。
「どれも雨の降る夜に銃で撃たれたように殺されていく。五年前と変わらず一貫しているな」
「うん、私がこの街にいなかった時のことだから大変だったけど、五年前の事件についても調べたよ」
ページを捲り、「五年前の天罰事件について」とある見出しを指さす。
「五年前は五件の事件が起きてて、亡くなった人たちは計八人。犯人は捕まらないまま、五件目を機に事件は止まった。それで終わりだとみんな思ってたのにね」
「人間の仕業じゃなく、神か悪魔の仕業だと噂された。大小なりとも悪さをしてる若者が標的。天罰事件、か」
「でもね、罪のない人なんていないと思う。それが大きな罪だったとしても、それは公正に罰を受けるべきだったと思う。こんな殺され方、酷過ぎる」
ノートに目を通すと、五年前の天罰事件についてもよく調べられていた。ノートの隅には「赤い傘の女の目撃情報。犯人と噂される」と小さく書かれている。
「雪月とあの女のやり取りといい、噂通りあの赤い傘の女が天罰事件の犯人なんだろうな」
「そうだね、なんとかして捕まえないと。……それとね、少し気になることがあって。この三件目の場所なんだけど」
そう言って指さしたノートには、「放置されたクラブ跡地」と書かれている。
「不良の溜まり場としてはもってこいだな。他の事件が起きた場所も似たりよったりだけど、これが?」
「この場所ね、あの幽霊ビルの地下にあるの。これって何か関係あるのかな?」
思い返すと、幽霊ビルの入り口すぐ傍に地下へ続く階段があった。あの先が過去の事件現場だったのか。
「そもそもなんだが、何であの場所は幽霊ビルって呼ばれてるんだ?」
「あれ? 東雲くんは知らないの? 有名な話みたいだけど」
「あいにく、世間のことには疎くてな。くだらない噂話なんかは特にね」
「私はちょうど一年前に楓から聞いたんだけど」
僕のぶっきらぼうな言葉にも気にした素振りなく雪月は続ける。
「五年前に地下で事件があってからね、あのビルで仕事をしてる人たちから幽霊を見たって話が広まったんだって。なんでも雨が降る夜遅い時間に、全身ずぶ濡れの幽霊が現れるって。そんな話があってかどうか、次々とビルに入ってた企業が撤退していって。一年もしないうちにもぬけのから。だから幽霊ビルなんだって」
殺人事件のあった現場付近で幽霊を見た、なんてのはよくある話のように思う。ましてや同じ建物であれば立派な事故物件だ。色々とうまく立ち行かないこともあるだろう。
「これってやっぱり関係あるかな?」
「どうかな。幽霊なんてのはストレスが見せる幻だ。それに、例え関係あったとしてもやることは変わらないだろ? 犯人について調べたところでどうにもならない」
「そんなことないよ! 犯人が普段何をしていて、どういう人かわかれば、魔法が使えない晴れてる日に捕まえられるんだよ」
「……」
その考えは僕にはないものだった。確かに雪月の言う通り、委員会と同じやり方だ。捕まえるためには、何も魔法が使える雨の日に出向く必要はない。
僕の目的は赤い傘の女に会うこと。雪月の目的は天罰事件を終わらせること。協力関係にある僕たちだが、お互いのゴール地点の違いを改めて思い知る。
「あの女の人のこと、もっと知りたいけど……これだけじゃまだわからないね。もっと調べてみないと」
僕が五年前に赤い傘の女に出会っていることは伏せている。話したところで重要な手掛かりになるものもない。それになんとなくだが、あの思い出は僕にとって希少なもので、安易に他人に話す気が起きなかった。
「……それにしても、よくここまで調べたな」
「今はインターネットで色々調べられるし、友達の間でも有名な話だから。それでね、これからの話なんだけど」
ノートをぱたんと閉じて、雪月は姿勢を正す。
「雨の降る深夜にあの幽霊ビルに行けば、また犯人に会えるかもしれないけど、それだと駄目だと思うの。この前みたいに、既に事件が起きてるようなら遅いから」
そう来るだろう、と思っていた。雪月は事件解決以前に、他人が傷つくことに対して怒りを持っている。それが例え不良や半グレのような、はみ出した人間だとしても。
「だからね、雨が降る夜に見回りをしようと思って。それが今できることだと思うんだ」
僕が雪月の正義ごっこに付き合う必要はない。ないのだが、今も向けられている雪月の力強い瞳から目を離せない。
その瞳の奥に秘められたモノに既視感を覚える。あの女、赤い傘の女の瞳と同じモノを雪月も持っている。
それはまるで魔眼だ。縛り付けられるような息苦しさと共に、僕の心を縛る鎖にひびを入れられるような、そんな矛盾。
──本当に、調子が狂う。
「東雲くんも、一緒に来てくれる?」
「……わかった、わかったよ」
気持ちの整理がつかないまま、僕は言葉を吐き出した。
雪月は眩いばかりの笑顔で僕に対する感謝を口にした。また謎の既視感。モヤのかかった記憶。深い霧の中に隠された記録。僕はソレを探すことに、手を伸ばすことに躊躇する。だいたい一度捨てたものだというのに、何故まだ拾えそうなところで留まっているんだ。
『君は自分が思ってるほど捨てきれてないんだよ』
そういえばあのとき、あの女はそんなことを言っていた。隠し事を見透かされたようで、僕はイライラしながら棘のついた言葉を返していたっけ。
「天気予報だと明後日の月曜日が雨みたいだから、その日の夜が最初のパトロールだね」
携帯電話を見ながら、雪月は決心したように携帯電話を持たない手でぐっと拳を握っている。
まあ、なんにせよだ。僕は雪月の提案に承諾したのだ。そのパトロールには付き合うしかない。その後に雨が降り続いていればそれでいい。幽霊ビルへと足を運べばあの女に会えるのだから。
「ここの珈琲、すごく美味しいよね。それに、これ!」
珈琲を口に運びながら、マグカップと共に運ばれてきていたティースプーンを雪月は指さす。
「この猫さんの飾り! 可愛いよねえ。これもあれも!」
雪月の指差す先にはどれもこれも猫をモチーフとした置き物や飾り付けがされている。壁にかけられた時計、ラックに並んでいる置き物、天井から吊るされた飾り。ちょっと病的なぐらいだ。
「店長さんね、店名にするぐらい猫が大好きなんだって。本当は猫カフェにしたいぐらいらしいんだけど、残念なことに猫アレルギーらしくて。だからいっぱい猫さんが飾られてるみたい」
神様が本当にいるのなら、残酷なことだ。好きなのに、近づけない。愛しているのに、触れられない。なんてらしくないことを考えてみる。好意も愛も僕にはわからないものだというのに。
「東雲くんは何か好きなものってある?」
「……特にないな」
魔法のことは好きとかそういうものじゃないと思う。それが全て。ただ、それだけ。
「じゃあ、休みの日とかは何してるの?」
「雨の日はひたすら魔法の修練。それ以外は……家で本を読むことが多いな。暇つぶしにだけど」
「本! この間に電話した時も本読んでたって言ってたよね! 私も本読むの好きなんだー」
何が嬉しいのか、雪月は目を輝かせて身を乗り出してくる。よく動くし、よく表情が変わるやつだなあと思う。
「東雲くんはどんな本を読むの? 私は恋愛ものとか、人間ドラマのある本が好きだなあ。あ、そう言うのは読まない?」
「洋書のミステリーが多い。読者に考えさせるものはいい暇つぶしになる」
「ミステリーかあ。うん、なんだか東雲くんにピッタリだね! 東雲くん、勉強できそうだし」
「別に、成績は普通だよ。むしろ雪月の方がいいんじゃないか?」
雪月は勉強もできる、と沢田が言っていたのを思い出す。
「うーん、勉強はできるけど……。私、無鉄砲なとこあるから」
髪をいじりながら恥ずかしそうに雪月が言う。幽霊ビルでのことを思い出し、自覚があったのか、と僕は少し驚いた。
「それに比べて東雲くんはいつも落ち着いていて、凄いなって思うよ」
「落ち着いてなんかいないよ」
興味がないだけだ。もしも突然自分が魔法使いじゃなくなってしまったら、ソレはもう取り乱すだろう。想像しただけでも吐き気がする。
「少し話戻っちゃうんだけど、東雲くんのオススメする本とかある? なんでもいいよ」
「人に勧める、てことがなかったからな。定番ならクリスティとかクイーンとかか? ミステリじゃなければスティーブンキングが鉄板だな。映画にもよくなってる」
「なるほど。クリスティは『そして誰もいなくなった』の人だよね。クイーンって人はわからないなあ。スティーブンキングは映画を何本か観たことあるよ。──うん、メモメモっと」
雪月は律儀にノートの端にメモをしてる。
「──因みにねえ、私のおすすめはこれ!」
雪月は足元のカバンから一冊の文庫本を取り出して優しくテーブルの上に置いた。渋い茶色のブックカバーがついていて表紙もタイトルもわからない。
雪月が白い指先で一ページ目を捲る。そこには『魔法のような力で』というタイトルの下に、大きな魔方陣が描かれていた。著者は『宮久志』とある。行きつけの本屋で見た覚えのある名前だった。
「……魔術書かなんかか?」
「え。そういうのもあるの!? でも、これは違うと思う。ちゃんとお店で買ったやつだし。宮久志(みやひさし)先生のデビュー作でね、とっても素敵な本なの。主人公の女の子がすごくかっこよくて」
手渡された本のページを捲ると、一ページ目以降は活字が並ぶ、どうということない本だった。それにしてもこのブックカバーといい、取り扱い方といい──
「ずいぶん大切にしているんだな、この本」
「うん、とっても大切なんだ。中学一年生の時に本屋さんで見かけてね。タイトルと表紙に一目惚れして買ってみたの。私、小説であんなに心動かされたの初めてで。私が当時、どうしようか迷っていたときに助けてくれた本でね。それからいつもお守りがわりに持ち歩いてるんだ」
「読了している本を持ち歩いているなんて、よっぽどだな」
「そう、大好きなの! 宮久志先生の他の作品も全部買ってるけど、この本を初めて読んだ時の衝撃は忘れられないなあ。宮久志先生は覆面作家でね、どんな人なのかわからないんだけど、いつか会って大ファンです! て伝えるのが夢のひとつなんだ」
「夢のひとつ、か。他にも夢があるってことか? 欲張りなんだな、雪月は」
「そうかな? でも、欲張りでもいいんじゃないかな? 夢は一つしか持てないわけじゃないんだし、私は抱えられるだけ、いっぱい夢を持ってるよ」
他の夢を話すのは恥ずかしいけど、なんて言いながら雪月は照れている。
夢をいっぱい持ってる、か。僕には夢なんて綺麗な希望(もの)はない。
「東雲くんは叶えたい夢とかってある?」
その無邪気な問いに対する答えを僕は持っていなかった。
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