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 月曜日の夜、心地よい雨音に耳を傾けながらベッドに寝転んでいた。

 いつもなら雨が止むまで魔法の修練に勤しんでいるところだが、あの地下室は困ったことに電波が届かない。雪月の連絡を待たなければいけないので、今日は魔法の修練を早めに切り上げていた。

 天気予報通り、夕方から雨が降り続いている。梅雨の時期というのもあるが、この街は本当に雨が多い。雨が一度も降らない週が無いほどにだ。雨が降らなければ魔法が使えない僕たち魔法使いにとっては、なんとも住みやすい、天国のような土地だ。

 しかし、夜に雨が降る度に殺人事件が起きる現状、雨の日は街全体の空気が張り詰めているように思う。道ゆく傘をさした人々の顔つきもどこか緊張を孕んでいるようで、それは他人に興味のない僕でも感じるほどだった。

 いくら殺される人間が半グレや不良学生しかいないとしても、自分の住んでる街に正体不明の殺人鬼が潜んでいる、というのは恐ろしいことなのだろう。そんな影に怯えながらも普段通りの生活を続ける人々と、自分は狙われる心配がないと安全地帯から野次馬となる人々。半グレや不良学生たちは前者か、それとも今からでもと自らの行いを正そうとしているのだろうか? なんにせよ、その影からは逃げることしかできない。

 影に立ち向かうのは警察の仕事だ。相手が魔法使いであることを警察は知らないだろう。いや、知っていたところでその在り方は変わらない。それが責務であるからだ。

 だというのに、警察でもない、魔法使いでもない、一人の少女は影に真っ向から立ち向かっている。

「雪月晴月……」

 枕元に手を伸ばし、読みかけの文庫本を手にとる。タイトルは「魔法のような力で」だ。

 土曜日に雪月と別れた帰路の途中、暇つぶしの本を切らしていたことを思い出し、古本屋に立ち寄った時のことだ。いつも通り、洋書の棚に向かおうとしたが、平積みされている本の一冊に目をとられ足を止めた。雪月がお気に入りの一冊だと目を輝かせながら見せてきた本だった。手書きのポップを見ると、著者の新作が発売間近であるらしい。いい暇つぶしになるだろうと思い、赤い傘の女の子が描かれた表紙のそれを手に取ることにしたのだった。

 途中までしか読み進めていないが、内容は普通の女の子が困っている人々を助けて回る、というもので、オムニバス形式になっていた。主人公兼ヒロインには魔法なんて神秘は無く、ただ困っている人を助けるのに躊躇なく踏み出せる、というのが取り柄である。学校や近所で問題を抱えている人々を次々に助けていく。見返りは求めず、自らの名声にも興味がない。ただ、自分にできることをするだけ。

「……めちゃくちゃ影響受けてるな、あいつ」

 雪月晴月はまさに、この物語の女の子そのものだった。本の中から現実に飛び出してきたのが雪月晴月という存在か、もしくは逆に雪月晴月という存在をモデルにした本なのかと疑うほどだ。

 お気に入りの一冊、まさに人生を変えた本というわけだ。

 あの正義感の正体はこれか、と納得していたが、ふと雪月の言葉を思い出す。「どうしようか困っている時に助けてもらった」とか言っていたはずだ。ということは、雪月がこの本で得たのは手段であって、目的はすでに抱えていたのだろうか。ヒーローツッキーとかいうあだ名をつけられるほどの、雪月の根底にある活力の源はなんなのだろう?

「──ハッ」

 我に帰って思わず苦笑した。他人のことに対してこんなに考えたのはいつ以来だろうか。魔法と自分以外、どうでもいいというのに。

 手に持った本を枕元に戻すのと同時に、携帯電話が鳴り出した。電話に出て、雪月と待ち合わせ場所と時間を決める。

 支度をして家を出る時、念のために地下室から持ち出したモノを確認する。父からは持ち出し厳禁とされていたが、何が起きるかわからない。幸い父が出張から帰ってくるのは梅雨が明けてからとのことなので、バレる心配はないだろう。ソレが懐の内ポケットに確かにあることを確認しつつ、借り物のビニール傘を広げて目的地へと向かった。



 こないだの土曜日と同じ、駅前の噴水前で雪月と合流することになった。

 まだ深夜というには早い時間なので、駅の改札からは帰宅途中の会社員たちが雪崩のように流れてきて、雨の空を見上げて嘆息をついている。そうして渋滞しているタクシー乗り場の列へと加わる人達もいれば、折り畳み傘を広げて足早と帰路へ向かう人達もいる。駅前のゲームセンター前には僕と歳が近いであろうグループがやれカラオケだ、やれファミレスだとこれからの予定について騒いでいる。雨の日は大人しくしている、と言っていた沢田が言葉通り大人しくしてくれていることを願った。夜の街を雪月と二人で歩き回っているところを見られたら、言い訳するのが面倒だからだ。

「こんばんは、東雲くん。やっぱり雨が降ってるとちょっと肌さむいね」

 先に待っていた雪月は、今回は流石に制服ではなく、白のニットにカーディガンを羽織っていた。

 行く当てはあるのか、と僕が聞くと、懐から手帳を取り出し、傘を持ちながら器用に片手でページを捲り始めた。

「今までの事件の傾向から、やっぱり人目のつきにくい場所だね。あと、半グレの人たちとか、不良の人たちの溜まり場も泉さんから聞いてあるよ」

「泉ってのは生徒会長のだよな? 目撃者を探す手伝いをしてもらってるっていう。そんなこともわかるなんてずいぶんと情報通なんだな」

「うん、凄いんだよ泉さん。知らないことなんてないみたい。前に全校生徒の住所を暗記してるって聞いたことがある。流石に冗談だと思うけど」

 それは凄いというより怖い、だ。今後関わることのないように、と密かに祈る。

「目撃者の人の話だけど、もう少し待ってくれって。私たちと同じ二年生ってところまでは絞り込めたって言ってたよ」

「そうか。知り合いじゃないことを祈るよ」

 知り合いなんてほとんどいない僕にとっては冗談だったが、雪月は素直に受け取って「そうだね」なんて返してくる。

「とりあえず近いところから回っていこっか」

 そうして、雪月との夜の見回りを開始した。


 人のいない夜の公園や潰れたボウリング場、灯りの乏しい路地裏などを見て回る。こうして怪しい人物、つまりは赤い傘の女がいないかをチェックしているわけだ。果たしてこんなので見つかるだろうか? なんて思うが、まあ確かに、これが今できることなのかもしれない。

 見つけられるのか、という不安ともう一つ懸念点がある。

「もしも赤い傘の女を見つけたとして、どうやって犯行を止めるつもりなんだ?」

 あくまでも僕の目的は噂の赤い傘の女に会って少し会話をしたいだけだ。だが、雪月はそいつを捕まえたいと言う。その手段が気になった。  

 僕の問いに雪月は立ち止まって、少し悩んでから答える。

「自首するように説得する……かな。今度はちゃんと話してみたいの」 

「話してみたい、か」

 何人もの命を殺めてきた相手にそれは甘すぎる考えだ。ましてや雪月はすでに二度も殺されかけてるというのに。

「話が通じるやつならいいけどな」

 五年前に出会った赤い傘の女を思い出す。あの女が何故『天罰事件』なんてふざけた真似をしているのかはわからない。と言うより、正直言ってあの女と殺人鬼のイメージが結びつかない。だが、あの女は自らが人殺しであることを否定しなかった。二重人格……なんて可能性もあるのだろうか。

「ちなみに、だ。あの女を自首させることができたとして、魔法使いを閉じ込める檻が存在すると思うか?」

「それって……」

 雪月は魔法使いの存在を知って一週間も経っていない。そこまで考えが及ばないことは予想の範疇だった。

「その答えは存在しない、だ。雨が降ってさえしまえば魔法は使えるからな。つまり、警察が捕まえたとしても刑務所に閉じ込めることはできない。もっと言うと、魔法を使った犯罪が立証されるかも怪しいしな」

「そう……だね。私ってやっぱり無鉄砲だなあ」

 はにかみながら、自分に呆れるようにため息を吐く雪月。

「先月、事件のことをニュースで知ってからね、許せないなって思ったの。人殺しなんて良くないって。それから夜に雨が降るたびに殺される人が増えていって。私にも何か出来ないかなって考えた。それで、噂になってた赤い傘の女の噂を聞いて、気づいたら幽霊ビルに向かってた。それが今の私に出来ることだって思って」

 何も出来なかったけど、なんて雪月は苦笑した。そう、結果的に雪月はあの女を止められず、殺されかけた。

「あのビルから落とされたときね、本当に悔しかったんだ。犯人を目の前にして、私は何も出来なかった」

「相手は魔法使いだったからな。それはしょうがないことだろう」

「しょうがなくなんてないの!」

 雨音をかき消すような強い言葉に、僕は呆気に取られる。こんなに声を荒げることが、雪月にもあるのかと驚いた。

「学校ではヒーローなんて持て囃されてるけど、私はなんて無力なんだろうって。悔しくて、悔しくて、本当に悔しかった。こんな後悔を抱えて死んじゃうのか私……そう思ってたら、灰夜くんが助けてくれた」

 微笑む雪月と目が合う。濁りのない、その綺麗な瞳には僕が映っている。

「私一人じゃ何も出来なかったけど、灰夜くんとなら大丈夫だって。そう思ったの」

「……僕のことを買い被りすぎだ」

 僕は雪月のように、熱い激情に駆られてここにいるわけじゃない。

「そんなことないよ。こうやって見回りも付き合ってくれてるし」

「それは……」

「私は、灰夜くんが一緒だから進めるんだよ。ありがとう」

 花のように綺麗で、太陽のように眩しい笑顔だった。

 一緒だから進める。他人を寄せ付けず、一人で生きてきた僕には必要のない言葉だった。それはなんて──

「……ふふ。ごめんね、次の場所に行こう? 東雲くん」

 歩き出す雪月に一歩遅れて後を追う。

「……それで、結局あの女をどうするつもりなんだ?」

「やっぱり、まずは会って話してみたい、かな。それから相手の人も含めて考えたいの」

「相手も含めて……?」

「そう。だってその人も何か理由があって事件を起こしてるんだろうから。それを知らないと」

 何人もの人間を殺してきた理由、か。

 五年前のことを思い出す。あの女が人を殺す理由。意味。

 そして僕が雪月と共にいる意味。雪月を助けた意味。理由。

「……ハハ」

 思わず苦笑が溢れる。

「どうしたの?」

「いや、何も考えてないのは僕の方だったと思ってね」

 僕は魔法を覚えてから、あらゆるものを捨ててきた。それ以前の生き方、記憶すらも放り投げた。もしも捨てずにいたら。僕はどうやって生きていたのだろう。そんな取り戻せないものについて考えてみる。

 僕は雪月の命を助けた。何も考えず、ただがむしゃらに。それは僕が捨ててきた、何かに火がついたからではないのか? 

「……魔法使いの世界ではな、魔法を使って犯罪を犯したやつを「悪魔憑き」って言うんだ」

「悪魔憑き……?」

 僕の唐突な話題にも、雪月は興味深げに耳を傾けてくれる。

「そうだ。文字通り魔がさしたってやつだな。で、そいつらはまず魔法使いから命を狙われることになる」

「魔法使いから……? 前に話してくれた委員会っていう組織にじゃなくて?」

「委員会の連中はな、ただ魔法使いを殺すだけじゃない。その標的が持ちうる他の魔法使いの情報を絞り出してから殺すんだ。魔法を使った犯罪なんてのには委員会は敏感だからな。必ず悪魔憑きは標的にされる。だから、悪魔憑きと関わりを持っていた魔法使いほど、そいつを殺そうとするんだ。自分の身を守るために」

「それって……。じゃあ私達が追ってる赤い傘の女も魔法使いに命を狙われてる?」

「どうだろうな。まず前提として、魔法使い同士の交流は限りなく少ない。小さなコミュニティもいくつかあるらしいが。例えば、僕が魔法使いであることを知っているのは三人……いや、雪月を含めて四人だ。あの女も同じかはわからないけど、それぐらい魔法使いの世界は閉鎖的なものなんだ」

「なるほど。でもその可能性はあるんだね」

「そうだな。正直、ここまで委員会の奴らが放っておいてるのも不思議なものだが。まあ、とにかく、だ。どちらにせよあの女に待っているのは、問答無用で死ぬ未来だってことだ」

 そう、悪魔憑きの未来は閉ざされている。僕もあの女と出会わなければ、その未来を辿っていたのだ。

「そっか。でも、どうしてこの話をしてくれたの?」

「どうして……?」

「うん、魔法のこととか色々教えてもらったけど、今まではどこか一線を敷いてる感じだったから。……あ、それは別に責めてるわけじゃないよ? 東雲くんにも色々あるだろうし。でも、今の話はなんか違う気がして」

「……フェアじゃないと思ってな」

「フェア? 公平じゃないってこと?」

「ああ。それともう一つ、大事な話があるんだが──」

 僕は五年前に赤い傘の女と会ったことがある、そう言いかけた時、僕達に近づく気配に気づいて振り向く。そこには、眼鏡をかけた細身の男が立っていた。

「こんばんは。雪月さんと、東雲くん……だよね?」

「浅黄先生──!」

 落ち着いた声で挨拶をしてきたのこの男は、浅黄と言うらしい。……先生?

「浅黄先生……これは……その……」

 雪月はどう言い訳をしようかと口篭っている。浅黄先生。確か教育実習でうちの学校に来てるとかいう男だ。そんな話を沢田から聞いた気がする。

「全く、夜遊びは良くないって担任の成海先生にも言われただろうに」

 叱咤しているようには感じない、優しく諭すような声だった。これが今生徒に人気の教育実習生か。僕も授業で顔を合わせているはずだが、今初めてしっかりと相手を認識した気がする。

 浅黄先生はとても穏やかな雰囲気を纏った青年だった。僕はこういう人間が苦手だ。人間は必ず表の顔と裏の顔を持つが、決して裏を見せないようなタイプ。極端に言えば人間味を感じない。この男も、果たしてどんな裏の顔を抱えていることやら。

「せ……先生もこんな遅い時間までお仕事ですか?」

 雪月の言葉で気づいたが、浅黄先生はスーツ姿だった。学校の教育実習生とはこんな遅くまで働かなければいけないのか。まあ、教師を目指すわけでもない僕にとってはどうでもいいことだが。

「私たちは夜の見回りです。交代制で一日二人づつ見回ってるんですよ」

 今日は君たちの担任の成海先生とです、浅黄先生は付け加えた。あの厳しく煩いで名を馳せる成海先生も? これは面倒なことになる。未だにいい言い訳が思いつかず口篭っている雪月と共に、僕も何かいい案はないかと考える。だが、僕達の杞憂は無駄に終わるようだった。

「……このまま早く家に帰りなさい。そう約束してくれれば成海先生には黙ってますよ」

「え……いいんですか?」

「ええ。高校生が家でじっとしてるなんてつまらないでしょうしね。遊びに出てしまう君たちの気持ちも正直わかります。……まあ、雨が降る夜は物騒ですから、できれば遠慮してもらいたいですがね」

 そう言って腕時計を見せてくる。時刻は二十二時を回ったところだった。駅前に集合したのが二十時ぐらいだったから、思いの外長い時間歩き回っていたことを知る。

「さあ、私の気が変わらないうちに、ね」

「──ありがとうございます! 行こ? 東雲くん」

 自然に手を引かれて、僕の体は引っ張られる。別れ際、一応僕も会釈をしたら、浅黄先生はにこやかに手を振ってみせた。選挙活動中の政治家みたいだ。そんなどうでもいいことを思いながら、手を引く雪月と小走りにその場を後にした。



「……はあ、よかったあ浅黄先生で」

 ほっと胸を撫で下ろす雪月。まあ確かに、不幸中の幸いだろう。それにしても教師陣の見回りがあるとは初耳だった。おそらく雪月も先ほどの驚いてる様子からして知らなかったのであろう。

「……ああ。ところで雪月。これはもういいんじゃないか?」

 強く握られた二人の手を視線で促す。

「わあーーー! ご、ごめんね!」

 飛び退くように、というか実際飛び退いてみせる雪月だった。どうやら無自覚だったらしい。

「いや、別にいいけど。それよりどうする? 今日は終わりにしとくか?」

「そ、そうだね。もうこんな時間だもんね。えっと……一箇所だけ、近いところに不良の人たちの溜まり場があるみたいだから、そこだけ見て、最後に幽霊ビルに行ってみるのはどうかな?」

 次に回る場所というのは、工業団地の一角で、貸し倉庫がいくつか並んでいるところだった。駅前の喧騒からは離れるように歩いて十分ほどだ。おそらく、教師陣の見回りは駅前を中心としたものだろうから、見つかる可能性は低い。最後に幽霊ビルに行くのも、ルート的に駅前の賑やかな場所は通らずに済む。僕はその提案を了承して、次の場所に向かった。

 気づくと、雨は静かな小雨になっていた。

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