第2話 カガミと破戒ハンマー
おれと奈川担任を乗せて、車は夜の街を走りだす。
一週間ほど外に出ないうちに、季節はすっかり秋へと移り変わっていたらしい。涼し気な夜気を吸い込みたくて、おれは少しだけ後部座席の窓を開けた。クズらしくない風流さだとか言われそうだが、実際のところ猛噴射された消臭剤スプレーのせいで鼻の奥がじんじん痛むから、新鮮な空気を吸いたいのだ。
「で、今度は誰なんですか?おれが叩き割るのは」
ポケットから取り出した金槌をいじりながら、おれは助手席に座る奈川に聞いた。
「お前の遠い後輩にあたる生徒だよ。同時に私の教え子でもある」
「ほぉーん」
なるほど。道理で奈川が焦るはずだ。彼女は唇を噛んだ苦い表情のまま、後部座席のおれにタブレット端末を差し出した。さわやかな表情を浮かべた男子高校生の画像と、彼を説明する詳細データが載っている。
――氏名、御手洗リュウト。高校2年生。所属は2―B、特待クラス。生徒会長(第72代目)。剣道部主将。水泳部キャプテン。入学時から起算して、遅刻・欠席ともにゼロ。体力テスト結果すべて優良。健康診断結果すべて問題なし。志望校はケンブリッジ大学(合格判定A)。直近の定期試験(夏季)の学年別成績順は、現代文1位、古典1位、英語1位、数学Ⅱ1位、数学B1位、化学1位、世界史A1位、日本史B1位。それから、それから……。
おいおいおい。もうたくさんだった。誰かがふざけてすべてのパラメーターを最大にしたような、化け物みたいなステータスがそこには書かれている。
「これが、高校生のカガミってやつですか…」
おれは呆れながら画面をスクロールしていった。備考欄に「交際中の女性あり」と書かれているが、嫉妬に狂いそうだったので女性の画像は見ないようにした。
「その通りだ。確かに元から文武両道で優秀な生徒ではあったのだがな。これほどまでに」ずば抜けた能力を発揮するとなると、もはや――」
「人間じゃない、ってことですね…」
おれはタブレットから視線を外して、しみじみと呟いた。車はアンダーパスに潜っていく。細く開けた窓から暗闇がどろりと流れ込んでくる気がして、おれは黙って窓を閉めた。
鑑、という言葉がある。
人間の鑑、武士の鑑とか、手本や模範を表現する言葉だ。理想と言ってもいいかもしれない。あるべき姿、望ましい姿、イデア、儀型…色々と言い方はあるが、大体同じことだ。
理想はあまりにも完璧だから、おれたちはつい憧れてしまう。理想を目指そうとしてしまう。それ自体を悪いこととは言わない。でもその欲望が過熱しすぎた時、悲劇は起こる。
「完璧でありたい」という本人の欲望と、「完璧であってほしい」という周囲の期待が合わさって、その場所に虚影が産み出されるのだ。
それが、おれたちが呼ぶところの〈カガミ〉である。
欲望から産まれ出た〈カガミ〉は美しい。皆が望んだ姿なのだから当然だ。でもそれは人間じゃない。虚影にすぎない。だがしかし――、こいつはホントに恐ろしい奴なのだ。
「――私と交代しないか?私の姿になれば、君は完璧でいられる」
完璧でありたい、そう願った人の前に現れて、〈カガミ〉はこう囁く。普通に考えたらとんでもない提案だ。虚影なんかと交代したら、自分は一生、暗い影の中で暮らさなければならないのだから。
それでも、完璧でいられるのなら…と、心が揺らぐ者がいる。
「じゃあどうだろう、少しだけの間、交代してみるというのは」
揺らぐ決心にとどめを刺すように、〈カガミ〉は囁く。うーん、それならいいかもしれないな。ついつい提案に乗ってしまう。
そうなればもうおしまいだ。
本人に成り代わった〈カガミ〉は、圧倒的な完璧さで周囲を魅了する。拍手喝采、期待は高まっていくばかり。もはや本人の能力では手に負えないくらいの期待の重圧に押しつぶされて、〈カガミ〉と交代せざるを得なくなる。
おそらく、この御手洗リュウトという男子高校生も、引き返せなくなってしまったのだろう。文武両道なんて言葉では片付けられないほどの実績を〈カガミ〉が積み上げてしまったから、もはや彼自身の能力でそれを維持できるわけがない。それで彼は、人間であることをやめてしまった。〈カガミ〉に己の居場所を明け渡してしまったのだろう。
「御手洗には可哀想なことをした。私がもっと早くに気が付いていればよかったんだ。今年は担任ではなかったとはいえ、これでは教師失格だな」
奈川は深いため息をつき、顔を覆った。
「いつから〈カガミ〉に乗っ取られたんです?」
多分この定期試験が実施されたあたりのことだろうな、と思って聞くと、奈川から意外な回答が返ってきた。
「私が気が付いたのは今朝のことだ。体力テストの結果が妙に良かったんだよ」
そこなのか。それは別に変な話ではないだろう。試験で全部一位の方がおかしくないか。
「いや、御手洗はいつも成績がいいからな。全部一位を取ったのはこれが初めてのことじゃないんだ。それよりもあいつは壊滅的にコントロールが悪い。ハンドボール投げの成績が去年は学年最低だったんだよ。どうしても地面に叩きつけてしまって、記録がゼロになるんだ」
知らんがな、と思った。別にどうでもいいだろ、ハンドボール投げくらい。
「剣道部主将と水泳部キャプテンを兼任してるのもおかしいですよね」
「それは以前からそうだった。御手洗のあだ名は魚人剣士だからな」
平然と答える奈川におれは仰天した。〈カガミ〉関係なしに、とんでもないフィジカル能力の持ち主というわけだ。
「おそらくは体力テストがあった先週水曜日の前に、〈カガミ〉と入れ替わったのだろう。」ちょうど一週間前だ。もしかするとまだ間に合うかもしれない。可能性は高い」
奈川は自分に言い聞かせるように強調した。
〈カガミ〉と入れ替わった人間は、すぐに虚影の中に呑まれてしまうわけではない。影はまず、本人の身体を纏うようにして憑りつき、徐々に身体を乗っ取っていくのだ。完全に乗っ取られる前であれば助け出すことができる。
――このおれの、〈破戒ハンマー〉を以てして。
先ほどおれが「叩き割る」と表現したのは、比喩でも何でもない。おれはこの金槌で、〈カガミ〉をぶち割って消し去ることができる。いわば退魔の剣というわけだ。もっともコレはおれだけに許された特別な能力…というわけではないのだが、少なくとも現時点ではおれがやるしかないらしい。
「早急に御手洗を見つけ出し、〈カガミ〉を叩き割ってくれ。頼むぞ」
「…いやあおれ、ちょっと自信ないっすね…」思わずおれは口ごもる。
カガミ破壊における特効兵器ではあるが、〈破戒ハンマー〉は別に万能ではない。要は物理的にカガミに接近して、物理的にハンマーを振り下ろさないといけないわけだ。魚人剣士の異名を持つような圧倒的フィジカルエリートに対して、運動不足の三十路無職が敵うのだろうか、はなはだ不安になってきた。もし〈カガミ〉に負ければおれ自身も影に呑まれることになる。いやもう正直逃げ出したい。
「おい、ドライバー。車を停めろ」
仕方なくおれは強硬手段に出ることにした。これも己の身を守るためだ。仕方ない。
「何を言っているんだ」
奈川が困惑して振り返る。フロントミラー越しにドライバーの顔を見ると、同様に困惑しきっていた。よし、上等だ。やってやろうじゃないか。
「何度も言わせるな。今すぐ車を停めろ。さもなくば…」
おれは一つ息を吸ってから言い放った。
「ここでウンコを漏らす。後部座席にすべてぶちまけるぞ」
「それだけは勘弁してください!」
ドライバーが悲鳴をあげた。動揺がハンドルに伝わり、車体が左右に揺れる。実にいい気分である。この車の生殺与奪は完全におれが掌握しているのだ。
「神泉お前、ふざけるのも大概にしろ」
「おれは本気ですよ。今すぐぶっ放してやったっていい」
だが、おれのシャウトに奈川は怯まなかった。
「だったら、今すぐやってみろ」
奈川は凄まじい形相でおれの目を睨みつけた。
「やれますよ。やれ…あれ?あれ…」
奈川の剣幕に圧され、おれの便意は雲散霧消していた。不発である。くそ。
「…すんませんでした」
ハイジャックを瞬時に鎮圧されて、おれは小声で謝罪した。本当にみじめな気分だ。自分で言うのも何だが、クズにふさわしい状況だと思う。運転手は安堵のため息をつき、「あと数分で現着します」と奈川に声をかけた。車は住宅地を抜け、遠くに校舎の影が見えてくる。
「もう一つ、私が気が付いたことがある」
沈黙の車中で奈川が口を開いた。
「この一か月、御手洗は他の生徒と喋る回数が少なくなっていたんだ。今思えばそれも〈カガミ〉の影響だったのだろうな」
車は校門の前に停止した。県立翠明高校。懐かしき、おれの母校だ。
「いま門を開けます。少々お待ちを」
ドライバーはいそいそと門に駆け寄ると、奈川から受け取っていた鍵で南京錠を開けた。ガラガラと音を立てて、校門が横に開く。
「御手洗を取り戻してくれ。ダメな教師からのお願いだ」
「まあ、やれるだけはやってみますよ。一応後輩のためなんでね」
そして、戦いの幕は上がった。
クズだけど生きてる ワダ理央 @Rio_Nagumo
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