クズだけど生きてる

ワダ理央

第1話 クズのカガミ、神泉アチ

神泉アチはクズである。

これまでの人生でさんざん言われ続けてきたことだが、自分でも本当にそう思う。おれはクズだ。クズという言葉が嫌いなら、ダメ人間と言い換えてもいい。あるいはカス。あるいは大いなるクソやろう。

おれのクズエピソードは赤子時代にまでさかのぼる。生後二か月で嘘をつくことを覚え、四か月で母乳の薄さに不平を漏らした。「まじいなあ、この母乳。お前さ、それでも母親の自覚あんの?」、と。幸か不幸か当時のおれは発話できなかったから、不平は内心にとどまり、おれはせいぜいしかめ面するぐらいだった。そんなおれの頭を、ママンは優しく撫でてくれたものだ。おれにとっては幸運だったが、ママンにしてみれば育児放棄する最高のタイミングを逸したことになる。

その後、初めて喋った言葉は「もういいよ」であり、一歳の誕生日には、既に父親を心の底から見下していた。クソみたいな赤子だ。

幼稚園では毎朝元気に保育士たちにセクハラし、園内で飼われているハムスターのえさを盗んで食べていた。自分以外の園児は全員モルモットだと思っていたから、名前は一切覚えずに、独自に付与した番号で呼んでいた。

小学校では…と、例をあげればキリがない。おれは今年で三十歳になるが、相も変わらずクズである。仕事もないし金もない。当然連れ合いもいない。今もこうして何もせず、ただ一人、散らかしっぱなしの部屋で寝そべっている。

この部屋の主はおれの年下のいとこだが、現在出張中で不在である。そんなわけでおれは一週間前から勝手に居候していた。おれには帰る家がないから有難い話だ。築浅1ⅮKのマンションには、一人暮らしには大きすぎる冷蔵庫があって、日持ちするパックの総菜とか冷凍食品がぎっちり詰まっている。いとこは用心深い男で、貯蓄や備蓄が大好きなのだ。おかげで食うにも困らず、この一週間というものの、おれは一人で豊かなクズ人生を謳歌していた。

とはいえ、備蓄にも限度がある。おれは何の計画性もないまま、好き放題に食料を食い荒らしていたから、既にあらかた無くなってしまった。残るは乾麺のパスタと小麦粉、各種調味料ぐらいのものだ。でも調理方法がよくわからないからおれはそのまま食べている。パスタはバカみたいに固いが、五本ずつくらいならバリバリ食えないことはない。小麦粉は予想に反してけっこうイケる。さっきケチャップとマヨネーズと混ぜて一袋食ったが、これは相当に旨かった。料理として店で出したら稼げるかもしれない。でも食いすぎたせいなのか、今は猛烈な腹痛がおれを襲っている。

(ウンコしてえなあ)

床に寝そべったまま、心の底からおれは思った。でも面倒だからトイレに行きたくない。じゃあどうする?答えは一つ。今ここで寝そべったままウンコしてやるのだ。

(さぞ気持ちいいだろうなあ)

寝そべったまま腰をもぞもぞ動かして、臀部周辺の筋肉の緊張をほぐしながら、おれはちらりと部屋の主のことを考えた。きれい好きで備蓄好きのいとこよ。残念ながら留守中にお前の自宅は完全におれが占拠した。備蓄食料はすべて食い荒らしたし、おれは今からリビングの床でウンコをするけど、それについては諦めてくれ。おれは悪くない。悪いのは突然やってきた便意の方だし、おれにはもうどうすることもできないのだから。

さて、ふう。

おれがまさに出そうとしたその瞬間、誰かが激しく玄関ドアをノックした。びっくりして流石に便意も引っ込む。冗談じゃない。一体誰なんだ。くそ。

ドアを叩いた誰かは、もう一度激しくノックした後で、何も言わずにガチャとドアを開けた。白いワイシャツにストライプのネクタイ。背が高く、険しい表情の女が室内に入ってきた。

「おい、神泉。電話には出ろとあれほど言っておいただろう」

「なんだよ、奈川担任かあ」

いとこじゃなかったからおれはホッとした。奈川はおれの高校時代の担任である。諸事情あって、こうしておれが三十になった今でも関係が続いている。もっとも担任と生徒としてではなく、雇用主と労働者として、ではあるのだが。

「急ぎの仕事が入った。支度しろ。すぐ出るぞ」

「おれだって、いままさに出るところだったんすよ」

おれの切実な訴えを、奈川は「はあ?」という顔で聞き流し、ゴミの山の中からおれのスマホを拾い上げた。ずっと放置していたから、当然バッテリーは切れている。

「事故物件レベルの散らかり具合だな。においもひどい。家主は誰なんだ?」

「おれのいとこ」

奈川は小さくため息をつき、「あとで特殊清掃を呼ぶか…」と呟いた。

「原状回復費用はお前の報酬から差し引くからな」

「報酬も清掃も要らないですよ。大体、仕事ならほかのやつに頼めばいいじゃないですか」

あいにくだけど今日はオフなんでね。寝そべったまま伸びをして、再び便意を呼び戻そうとしていると、奈川はおれの真横に立って顔を覗き込んだ。いつになく切実な表情である。彼女にも便意が押し寄せているのかと思うほどに。

「頼む。神泉。お前にしかできないことなんだ」

おれが言うのもなんだが、奈川担任は立派な人間である。英語教師としての指導能力はもちろんのこと、担任として一人一人の生徒に親身になって寄り添う。その姿はまさに教師のカガミと言っていいだろう。その彼女が、とんでもないクズのこのおれに真剣に頼みごとをしているのである。

皆さん、これって興奮しませんか。

「奈川担任」

おれはにやけ顔を隠しきれないまま、彼女に提案する。

「お願いしてみてくれませんかね、おれに」

「何を…」と言いかけて、奈川はおれの要求を察したらしい。顔をしかめ、実に不愉快な様子で襟元を正し、そして――、おれに頭を下げた。

「頼む。神泉アチ。どうか仕事を手伝ってくれ」

「おほーぅ」

思わず歓喜の声が口から漏れる。これだよこれ。この瞬間くらい、クズでも生きててよかったと思える時はない。自己肯定感が瞬時に満たされ、心の底からやる気が湧き上がってくる。

「いやあ、まあ、そんなに言うんだったら仕方ないっすね。特別ですよ」

にやけ顔でおれは返答する。ただし、愉悦は長続きしなかった。おれが返事を言い終える前に、奈川は凄まじい力でおれの首根っこを掴むと、消臭剤スプレーを顔面に吹きかけながらおれを玄関の外に引きずっていったから。

アパートの入り口にはいつも通り、黒い送迎車が停まっている。

どんな仕事かは知らないが、引き受けた以上やらねばならないらしい。何故ならこれは、クズのカガミたるおれにしかできない仕事なのだから。引きずられながらおれは、ポケットに入れた小さな金槌を握りしめた。

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