Re: 11/2 お題「食事」
ノックの音で目を覚ました。
俺はツインベッドの片方で寝息を立てている
「黙ってろ。ひとが来た。騒いだらぶん投げるからな」
「誘拐犯?」
抗議の声ごと白いリネンで包み、扉を開ける。
挨拶と礼を言って受け取ろうとした手が止まる。苺ジャムとバターを添えたトーストも、コーヒーのカップも、ふたり分あった。
俺は玉舎にかぶせた布団を剥いでから、トーストを齧り、コーヒーを啜る。別段変わったところはないが、気は抜けない。
立ったまま食事を続ける俺を、玉舎が見上げた。
「
「立つに決まってんだろ。ふたり分の飯が来たんだぞ。あっちはお前がいることをわかってる」
「そうだけど、いつもは一緒に飯食うのに今は先に食ってるから……あ、催促とかじゃないからね!」
「毒味だよ。日吉がお前に何か仕掛けてこないとも限らないだろ」
玉舎は枕に長い髪を蜘蛛の巣のように広げて笑った。
「やっぱり樹おかしいわ」
「何がだよ」
「普通、毒味ならおれにやらせるじゃん。樹は生きてんだからさ」
俺は舌打ちして、玉舎の歯にトーストをねじ込んだ。噎せ返った玉舎が噴いたパン屑が、紙吹雪のように散った。
日吉と同じタキシードのような制服を与えられたが、俺に割り振られた業務はおおむね裏方だった。接客は
まだ午前十時だというのに、三人家族が早速ホテルを訪れた。
小学生の少女を連れた夫婦が、重たげなキャリーケースを抱えて花壇の間を進んでくる。日吉がすかさず荷物を預かりに行った。蛇のような静かで俊敏な動きだった。
日吉を手伝う左門は、受け取った荷物の重さにふらついていた。髪は寝癖が残り、一サイズ大きな制服は七五三の撮影で無理やりスーツを着せられた子どものようだった。
大丈夫か、と思いつつ、眺めていると、客の会話が聞こえた。
家族は毎年フラワーフェスティバルの時期に訪れる常連らしい。日吉が少女の成長を褒め称え、夫婦が朗らかに笑う。当の少女はどこか不機嫌そうだった。
左門は少女の元に駆けつけ、花壇の花を一輪抜き取って渡す。少女が小さく笑った。
子どもの扱いが上手いとは知らなかった。
手入れされた花壇を弄られて内心思うところがあるような表情を浮かべる日吉は見なかったことにする。
左門がしくじったら担当を変わる羽目になりそうだと思ったが、これなら俺は接客を回されなくてすみそうだ。
俺は洗濯を言い渡され、リネン類を抱えて裏口から洋館を出た。シーツもタオルも二、三セットしかない。昨日までの客は少ないようだ。
洋館の影に隠すように設置された洗濯場は仄暗く、旧式の洗濯機や錆びた物干し竿が犇めいて、ごみ置き場じみていた。豪奢な内部よりこちらの方が気楽でいい。
俺は洗濯機を回し、物干し竿にタオルやシーツをかけていく。指先が氷のように冷えたが、まだ不快なほどの寒さではなかった。
風が吹き、潮の匂いが花をつく。鉄柵と花々の間から、灰色の海の水平線が覗いた。
奥の空間に、赤いブリキのスタンド式灰皿があった。従業員用の喫煙所らしい。
ウレタンの飛び出たスツールに腰掛け、煙草に火をつけると、壁にかけられた鏡の中の自分と目が合った。
ひび割れた虚像の中の俺が鈍く光を放つ。
何かと思えば、耳に刺したピアスだった。俺は髪の毛で銀の輝きを隠した。
この仕事では玉舎を連れ歩くことができないのが気がかりだった。よく考えれば、生首を始終持ち歩ける仕事などほとんどない。
わかってはいるが、胸の奥がざわついた。
足音に顔を上げると、日吉に似た女が歩いてきた。昨日煙草を吸っていた女だ。
黒いメイド服と対照的な青白い肌が浮き出して見え、アダムズファミリーの少女をそのまま大きくしたようだと思った。
俺が腰を浮かせると、女は疲れた仕草で手を振った。
「座ってていいよ。日吉に雇われたひと?」
俺は会釈を返す。女はもうひとつの椅子を引き寄せ、エプロンから煙草を取り出し、盛大に煙を吐いた。
この女も俺と同じ、接客に向かないタイプだ。
女が見透かしたように唇を吊り上げる。
「こいつホテルマンらしくないなと思ってるでしょ、
何故名前を、と問う前に、女は俺のネームプレートを指した。
「向いてなくても家族経営だが仕方ないんだよ」
「日吉さんのご家族ですか」
「従姉妹だよ。私は
俺は曖昧に頷き、話題を変える。
「ご家族で経営してるんですね」
「そう、あいつの厄介なこだわりに付き合うのなんて親族だけだからね。ここのホテルの信条知ってる? ひとりひとりの夢の時間の実現だってさ。食事の内容だって客ごとに変えるの。信じられる?」
「大変ですね。お客さんはそれがよくてリピーターになるんでしょうけど」
「当たり障りのない言葉選ぶね。七日だけの短期バイトだって割り切ってる?」
勝子はさっきから明け透けに俺の内心を言い当てる。面倒だと思ったが、それもバレていそうだ。
「閑田さん、この仕事は慣れそう?」
「慣れなくても七日だけですから、やるだけやりますよ」
包み隠さず答えると、勝子は声をあげて笑った。
「いいね。バイトを呼ぶように言ったのは私なの。昔から凝り固まってる経営体制を変えたくてさ。頑張ってね」
勝子は吸殻を灰皿に投げ込む。
「私は厨房担当。洗濯終わったら閑田さんもこっちに来な」
言われた通り厨房に回ると、洋館の規模にしてはやけに広い空間があった。
巨大な冷蔵庫は、客の好みの食材を大量に取り揃えているのだろう。
勝子は髪を纏めながら俺を顎で指す。
「野菜の皮剥きくらいはできる?」
「それくらいなら」
俺は指示通り、裏手から段ボール箱を運び、厨房に持ち込んだ。
重たい箱を銀のシンクの上に下ろしたとき、表面の文字が目についた。「北海道産じゃがいも」の字の下に消費期限が印字されている。
平成十五年一月十五日。
「平成……?」
奥から勝子が首を伸ばした。
「日吉がケチだから古い段ボールを使い回してんの。それより早く手伝って」
俺は納得したふりをして箱のテープを剥がす。
段ボールは真新しく、古いガムテープの痕すら見当たらなかった。
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