Re:11/3お題「だんまり」
夕食の賄いは、俺が剥いたじゃがいも入りのシチューだった。
俺がスプーンで掬うのを眺めながら、
「高級ホテルだからシェフとかいるのかと思ったら、意外と家庭的な料理なんだね。じゃがいもの形とかガッタガタだし」
俺はスプーンの柄で玉舎を小突く。
「何で? 今怒る要素あった?」
「高級ホテルのイメージを損ねる飯で悪かったな」
玉舎は目を丸くしてからゲラゲラと笑った。
「
「こんなもん込めるほど愛情有り余ってねえよ」
俺はひと匙救ったシチューを啜る。
別段変わった味はしない。段ボールに書かれていた、過去の日付は何だったのか。
「また毒味?」
玉舎はベッドに寝転び、解いた髪を枕に垂らしながら言う。
「気ぃ遣ってくれんの嬉しいけどさ、もし樹が倒れたら、おれひとりで何もできないよ?」
改めて首しかないのは不便なものだと思うが、もどかしさは本人が一番感じているだろう。
「本物の毒が入ってると思ってる訳じゃねえよ。お前、初日に言った蕎麦屋覚えてるか?」
「覚えてる! 髪の毛コロッケと血塗れマスクの女将さん、あれ怖かったねー」
「
スープボウルを眺めて何事もないのを確かめ、俺は洗面所で玉舎にシチューを食わせる。この食事も、海の向こうに呪いをばら撒きに行った玉舎の身体に届いているんだろうか。
ほとんど皿が空になったとき、内線が鳴り響いた。今さっきの会話を聞いていたようなタイミングに背筋が寒くなる。
俺は玉舎を洗面台からベッドに戻し、布団をかぶせてから受話器を上げた。機械のように平坦な、日吉の声が聞こえた。
「勤務時間外に恐れ入ります。
「はい……どうかしましたか」
「お客様から『廊下から異音がする』とのお声がありまして。十中八九、暖房機器の不調だと思うのですが、生憎手が離せず、確認していただけますか」
「わかりました」
俺は電話を切り、制服に着替え直す。
「玉舎、俺は出るけど誰か来ても返事するなよ」
「オッケー、合言葉決めとく?」
「元ヤン、でいいか」
「それ、おれのこと?」
俺は部屋を出て、厳重に鍵を閉めた。
夜の廊下は絨毯の色を映した真紅の闇に沈んでいた。くすんだ金の額縁と燭台の跡が等間隔で並び、ゴシックホラーの挿絵のようだった。
額の中に飾られているのはほとんど絵画だったが、中には写真も混じっていた。
足を進めながら眺めていると、一枚の家族写真が目についた。幼い少女と父母が花畑を背に微笑んでいる。今日チェックインした三人家族だ。客の多くが常連というのは本当らしい。
他にも、青いドレスの女ががグランドピアノを前に笑っている姿や、古風な文豪然とした和服姿の男が窓辺で物憂げに座っている姿もあった。
カップルがロビーの螺旋階段で寄り添っている写真が目に止まる。まだ学生と思しきふたりだが、女の方はマタニティドレスを着て、腹が風船のように膨れていた。
俺は頭上のシャンデリアに導かれながら先へと進む。廊下は奥へ行くほど暗くなった。
異音が聞こえると言われたのはこの辺りだ。
耳を澄ませると、確かに何処からか風が漏れてくるような音がした。
突き当たりの壁に正方形の枠が取り付けられていた。ゴミを捨てるダストシューターらしい。
異音の原因になりそうなものは他に見当たらない。
俺はダストシューターの前まで辿り着き、銀色の扉に耳を押し当てた。ふうふうと荒い息を吐くような音はここから漏れている。
「修理なんかできないぞ……」
取っ手に指をかけると、鍵がかかっていないのか、簡単に扉が開いた。
扉の向こうは真っ暗で、下方に更に深い闇が続いている。そこから生温かい風が這い上がっていた。
枠に手をかけ、引き込まれそうな深い闇を覗き込んだとき、風とは違う音が聞こえた。
子猫の鳴き声に似ていた。まさか、野良猫をこんなところに捨てる訳がない。
猫の声より一段階低く、耳障りな響き。赤ん坊の泣き声だ。闇の奥で何かが蠢いた。
俺は咄嗟に身を引いて扉を閉める。
深淵じみた闇を銀の扉に押し込めると、再び赤い廊下が視界に戻ってきたが、まだ胸がざわついている。鼓膜に赤ん坊の声が残っていた。このホテルはやはり何かがおかしい。
俺は鳥肌が浮いた両腕を擦る。
やるべきことはやった。戻って、日吉に異常なしと報告しよう。
踵を返したとき、目の前に真っ黒な影があった。
「……失礼しました」
客にぶつかりかけたのかと思って後退り、身体が硬直した。
影が挿していたんじゃない。靄に包まれたような真っ黒な塊がふたつ並んでいた。
事態を呑み込む間もなく、靄は絡み合い、塵のような黒いものを散らして突進してきた。
まずい、と思った矢先、ふたつの靄は俺の横を擦り抜けて廊下の奥へと消えた。
影が闇に溶けて見えなくなる。直後、ダストシューターからくぐもった絶叫が響き渡った。
まるで、焼却炉で生きたまま焼かれているような苦悶の声だった。赤ん坊の泣き声が耳を劈く。
俺は声から逃れるように廊下を一気に駆け戻った。
それから、部屋に戻って日吉に何と言ったのか、玉舎に何と説明したのか、覚えていない。
気がつくと、白いベッドの上に横たわっていた。
投げ出した手の先に続くシーツの折り目が、山の稜線のように連なり、遠近感が失われた。
「樹、樹」
隣のベッドから玉舎が俺を呼ぶ声がする。
俺は重い頭を振って身を起こした。制服は皺だらけで、全身が固まり、疲労が残っていた。
「寝てたのか……」
布団を剥ぐと、玉舎が俺を心配そうに見上げる。
「大丈夫かよ。部屋に戻って電話かけてると思ったら、ぶっ倒れるみたいに寝てたし……」
「何でもねえよ。慣れない仕事で疲れただけだ。ほったらかしで悪かったな」
「おれのことはいいけどさあ」
俺はふらつきながら部屋を出た。まだ昨夜の靄と悲鳴が脳にこびりついているような気がした。
洗濯機が回る音を聞きながら、喫煙所で煙草をふかしていると、目に染みるような朝日が差し込んできた。
日吉に昨夜のことを聞いたところではぐらかされるだろう。きっと、こういうことがあるとわかって、俺や
空の胃に重いタールの煙が溜まる。
煙を吐いていると、化粧もしていない
「死人みたいな顔色してるね。寝られなかったの」
俺は曖昧に頷く。
「まだ仕事に慣れないようで……」
「変なものでも見た?」
表情は変えないつもりでいたが、不意打ちと疲労が重なって、不本意にボロを出したようだ。
勝子が唇の端を吊り上げる。
俺は平静を装い、先輩の与太話に付き合う新入りの顔を作った。
「このホテル、何か曰くでもあるんですか?」
「どう思う?」
「歴史のある洋館なら怪談噺のひとつふたつ噂されることはあるかと」
勝子は黙り込み、煙草を咥えたまま髪を結び始めた。ほつれた毛をヘアピンで捩じ込み、やっと俺の存在を思い出したかのように言う。
「曰くがあるのはここだけじゃないよ」
俺は勝子の肩越しに、光る海を見つめた。
ここじゃない、ではなく、ここだけじゃない。
「この島ってことですか」
「鋭いね」
勝子は吸殻を灰皿に捨て、背を向けて去っていった。
ガラクタの山の間から、相変わらず魚鱗のように輝く海が見える。煙草が燃え尽きる頃、滑り込んだバンの腹で海が掻き消された。
日吉が連れてきた客たちが降車する。
コートの下から青いスカートを覗かせた女、和服姿の男。
写真に写っていた面々だった。
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