番外編
お題「おそろい」12/5
スクリューに巻き込まれて砕ける、氷のような水飛沫を見つめながら、まるで蟹工船だなと思った。
十二月の冷たい海を進むフェリーに揺られていると、つい先日体験した洋上の悪夢を思い出す。目を背けようとしても窓の外はどこも海だ。
この先、本当に俺が向かうべき島があるのか不安になる。
俺は銀色のトランクケースを持って立ち上がり、小さく四角いチョコレートのような座席の間を抜けた。乗客は少ないが、人目に着く訳にはいかない。
俺は狭い階段を登り、海上を見渡せるデッキに出た。幸いここにはまだ誰もいない。
どこまでも広がる寒々しい海原を眺めながらコートの襟を締める。
俺はトランクを開けた。
「起きてるか?」
ファスナーの間から結んだ黒髪が垂れ、俺の手の甲の包帯を滑る。
「めっちゃ起きてるよ! てか、喋っていい?」
「普通に起きろ。聞く前からデカい声出すんじゃねえよ」
俺はデッキに備え付けのプラスティック製の椅子に腰掛け、トランクを膝に乗せた。
せっかく海が見えるようにしてやったのに、
「何だよ……ああ、もしかして、海は見たくないか?」
「いや、海はいいんだけど……怪我、治んないね」
俺は包帯に包まれた自分の手の平を見下ろした。
「別に、最初からすぐ治ると思ってねえよ」
玉舎は少し気まずそうな顔をしてから、それを打ち消すように笑った。
「
「海に捨てるぞ」
「いや、これいい意味で言ってるから!」
「どこにいい要素があるんだよ」
俺は苦笑しながらトランクを腹に押し付ける。
玉舎の身体にやられた傷は壮絶だった。元々体力があった上に、打撃のひとつひとつに怨嗟が籠っていた。
俺の指の骨はあと少しで粉砕していたところだったし、肋骨にはヒビが入り、打撲も激しかった。
恨む気はしない。
寧ろ見逃されたのが奇跡だと思う。
近くの病院に行った途端、早速検査入院が決まり、三日も勾留された。
トランクケースは何とか死守した。開けたら暴れてやると言ったら、俺の意地が伝わったのか、入院中は看護師も医者も触りに来なかった。
ただでさえ訳のわからない怪我をして飛び込んできた男だ。関わりたくないと思ったんだろう。
四人部屋の病室で玉舎を取り出す訳にも行かず、三日間トランクケースをベッドの下に置きっぱなしにするしかなかった。。冷たい床と真っ暗な場所で、玉舎が何を考えているのか気がかりだった。
備え付けのテレビで、玉舎の身体が呪いをばら撒きに行った先のことが報道されないか、ニュースを見続けていたが、音沙汰はなかった。
退院と同時に、ビジネスホテルに駆け込んでトランクを開けた。玉舎は俺の心労に慰謝料がほしくなるほど元気だった。
俺は玉舎に三日分の飯を食わせ、髪を洗い、歯を磨きながら、これからどうしようかと思った。
そして、結局俺が生きる道はこれしかないとわかった。
波のひとつひとつが魚鱗のように輝く海を眺めながら、俺は煙草に火をつけ、もう一本を玉舎に吸わせる。首の断面から漏れる煙を見るのも久しぶりだ。
玉舎は咥えた紙巻きを上下させながら言った。
「でもさあ、一ヶ月間働いたんだからこんなにすぐに仕事入れなくてよかったんじゃねえの? 一旦家に帰ればいいのに」
「ロンダリングが必要なんだよ」
「金の話?」
「面倒事の話だ」
俺は玉舎に灰が落ちないよう、椅子の横の灰皿で煙草の先端を払う。
「一ヶ月分の謝礼がしっかり払われてた。どういうことがわかるか?」
「ラッキー?」
「アンラッキーなんだよ。お前の身体があれだけ暴れて、仲介人を皆殺しにした。それで終わりなら金も払われないはずだろ。だが、ちゃんと振り込まれた。あそこで死んだ奴はトカゲの尻尾だ。大元は平気な顔して生きてるってことだ」
玉舎があんぐりと口を開けたので、俺は慌てて煙草を拾い上げた。
「ヤバいね」
「ヤバいんだよ。俺が最後の最後で任務に違反したこともバレてるし、その上で奴らは俺に金を払った。あの程度のことは想定内だったんだろ」
俺は煙を吐き、海に霧の橋をかけた。
「だから、すぐ家に帰るより、別の仕事をした方がいい。任務の最中は依頼人に守られてるし、今回の仕事は離島で一週間泊まり込みだ。都合がいい」
玉舎は感嘆したように息を漏らした。
「樹ってめちゃくちゃ慣れてるよな」
「この仕事で生き延びてきたからな」
「おれは死んだからなー。見習わなきゃ。いや、見習えないか!」
俺はひとりで笑う玉舎に舌打ちを返し、二本分の短くなった煙草を灰皿に投げ込んだ。
そのとき、滑り止めを施されたデッキの床を踏む足音が聞こえた。
俺は咄嗟に振り返り、トランクを閉める。
背後に立っていたのは、綿毛のように癖のある髪をした青年だった。まだ幼さが残る顔立ちで、分厚いダウンジャケットの襟からチェックのシャツを覗かせている。細い腕に余る大きなボストンバッグを抱えていた。
大人しそうだが、油断はできない。
迂闊だった。スクリューの音がうるさくて今まで気づかなかった。どこから見てただろう。
「あの、すみません、さっきの……」
青年はそう言うと、少女のように弾んだ足取りで俺に駆け寄り、バッグのファスナーを開けた。
「僕もなんです!」
俺は思わず目を見開く。サテンの裏地がついたバッグの中には、血の気の失せた生首が転がっていた。
墨を塗ったような黒髪の、生きていれば精悍な顔立ちの若い男だった。
絶句する俺に、青年が嬉しそうに微笑む。
「よかった、トランクケースと話してるからもしかしてと思って……貴方も同じバイトに参加する方ですよね」
俺はかろうじて頷きつつ、青年を眺める。どこからどう見ても真面目でか弱そうな男だ。こんな仕事を選ぶとは思えない。どんな事情があるのだろう。
考えを打ち消すと青年は白い手を差し伸べた。
「僕は
握手を受けるべきか迷っていると、左門は俺の包帯に気づき、慌てて手を引っ込めた。
「握手は駄目ですね。じゃあ、ご挨拶だけで」
「
「短い間ですがよろしくお願いします!」
まるで大学生の日雇いバイトだ。この男が仲間になると思うと、不安が過ぎる。
胸騒ぎが音になって現れたように、銀のトランクがゴトゴトと揺れた。今更隠しても仕方がない。
俺がトランクを開けると、勢いよく玉舎が転がり出た。
「おれは玉舎、よろしくね! おれも握手できないけど舌ベロならできるよ」
懐かしく、ろくでもない挨拶だ。左門が礼儀正しく腰を折る。
「玉舎さんもよろしくお願いします」
「めっちゃいい子じゃん? あと、そっちにも首友がいるんだよね?」
「そんな言葉はねえよ」
うんざりしつつ口を挟むと、玉舎と左門が同時に笑う。
ボストンバッグの中から乾いた嘲笑が聞こえた。
「
左門が中を覗き込む。
「兄って、兄弟ですか?」
「いえ、違うんですけど、昔からお兄さん代わりだったようなもので……宗兄もちゃんと挨拶しないと駄目だよ」
鞄の中の男は切長の目を開き、俺たちを一瞥すると、左門に向き直った。
「お前は考えが甘い。この仕事で情は命取りだ。騙されやすいお前を利用するかもしれないぞ」
「そんなこと言ったら失礼だよ。仲良くやっていかないと……」
左門は何度も俺たちに頭を下げ、鞄を抱えてデッキの反対側に向かった。
また潮風が強くなる。ふたりの言い合う声が風に紛れて聞こえた。
玉舎は眉を下げて笑った。
「左門くん、いい子そうだね。仲間できてよかったじゃん」
「まあな。仕事がやりやすいに越したことはない」
「あっちの首とやってくのはちょっと大変そうだけど」
「合わないならそれはそれで好都合だ。気兼ねなく地雷探知犬にできる」
「樹ってたまに倫理観いかれてるよね……」
俺は構わず揺れる海を睨んだ。
目的の島はまだ見えない。
ピアッサーも使わず突き刺した金属のピアスが凍てつき、耳朶が鈍く痛んだ。
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