11/30 お題「雲壌」
紫煙のような雲が千切れて、合間から朝の光が射した。
波の線のひとつひとつが光を反射して輝く。あの海の向こうに
「おれの身体を買い戻すって……」
「ああ、ずっと生首のままじゃ困るだろ」
「いやあ、それ無理でしょ。だってさ、おれ死んでるし……」
玉舎は眉を下げて笑った。他人を気遣って何かを諦めるときの笑顔だと、この一ヶ月でわかった。俺がそれを見ると苛つくこともわかった。
「玉舎、お前の身体は今あの海の向こうに行ったんだよな」
「たぶんね」
「呪いの道具として、呪いをばら撒きに行ったんだろうな」
「道具っていうか、うん、たぶん誰に使われなくてもあいつはやると思う。あいつっていうか、おれなんだけど」
「それなら好きにやらせてやればいい。殺されたんだ。恨んで呪って当たり前だろ」
俺は煙草を歯に挟んで、煙を吐きながら言う。
「でも、いつかお前の身体も気が晴れて、もういいかと思うかもしれない。お前と同じように故郷に戻ろうと思うかもしれない。そのときだ」
「何?」
「俺はお前の身体を買い戻して、欠けたところを全部治して、お前の首に繋げる。いいだろ?」
玉舎はまだ困ったような顔をしていた。
「できんのかなあ……」
「生首が喋ってるんだ。何だってありだろ。もしも、お前の身体が一生戻って来ないつもりなら、別の身体を探してもいい」
「それ大丈夫? 輸血でも血液型違ったら無理じゃん。ドナーとかも適合率とかいうし……」
「今更常識的なこと言ってんじゃねえよ」
俺が小突くと、玉舎はごろんと揺れて俺の腹に後頭部を預けた。
「できるかわかんないけど……できたらいいよね」
「それだけで充分だ。俺が働く理由になる」
「じゃあ、
「ああ。妙なもんに遭ってもお前がいれば大丈夫だろ」
「ってことは一緒にいていいの?」
「決まってんだろ。生首を預けられる奴なんかアテもねえからな」
玉舎はやっと眉間の皺を解いて笑った。甲高く鳴くカモメの声に笑い声が重なった。
「閑田くんさあ」
「何だよ」
玉舎は少し黙ってからかぶりを振った。
「何でもない。煙草もらっていい?」
俺は新しく火をつけた煙草を見下ろす。最後の一本だった。俺は痛む指で煙草を摘み、玉舎の口に押し当てた。
「湿ってる」
「うるせえな」
玉舎の吐く煙が俺の腕を乗り越えて冷たい空気に溶けた。
「玉舎、今までは一ヶ月限りの仕事だからやれることは全力でやったけど、これからは手を抜くぞ」
「マジ?」
「飯はちゃんと食わせる。歯も磨く。でも、髪は毎日は洗えないかもしれないし、食うもんも雑に済ませるときもある。いいな?」
「いいよ、全然いいよ!」
鋼のように冷たく清潔な風が波の上を渡っていく。俺は冷え切った身体を震わせた。
「そろそろ行くか」
「何処に?」
「病院に決まってんだろ。確実に骨が折れてる」
「ヤベえじゃん! 大丈夫? っていうか、医者に何て言うの」
「玉舎ヒロトっていうチンピラに殴られましたって言う」
「ヤバい、全然違うけどだいたい合ってる!」
俺は半分以上灰になった煙草を玉舎の口から取り、自分で咥えた。
節々の痛みに耐えながら、注意深くベンチから立つ。左手にトランクを提げ、右手で玉舎を抱えた。
垂れた長い黒髪が俺の手の甲を撫でた。
「玉舎、お前意外と背デカいんだな」
「百七十八とか九とかありましたー! 閑田くんは?」
「……そういえば、ヒロトってどういう字だ?」
「露骨に話題逸らすじゃん! まあいいや! 博士の博に翔ぶで
「へえ、何か感想言いにくい名前だな」
「ひどくない? あ、逆におれ閑田くんの下の名前知らねえわ」
「樹木の樹で
「っぽいわー」
「どういう反応だよ」
潮風がスーツのジャケットを膨らませる。玉舎が静かな声で言った。
「樹、これからもよろしくね」
「……急に距離詰めてんじゃねえよ。殺すぞ」
「逆にこの流れで詰めちゃ駄目なことある!? あ、おれのことも博翔って呼んでいいから!」
「うるせえよ」
俺は一歩ずつ歩き出した。
港には朝の輝きとさざめくような話し声が満ちている。コンテナの群れを抜けたら、ひとに出会すかもしれない。咥え煙草で生首を抱えて歩く男を見た人間は何と思うだろう。
明日から十二月だと思い知らせるような冷たい風が吹きつけた。俺は玉舎を抱える腕に力を込める。
あのコンテナの角を曲がったらトランクにしまおう。波の飛沫が埠頭に当たって砕ける。
でも、あともう少しこのまま進もう、もう少しだけは。
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